雑記のような内容になります。一応書いておきたいので書くだけ。面白くないともいます(笑)。
生きている中でいろいろな人と話すことがある。当然の話。多くの人は「自分のやってきたこと」を話す。面白い話もあれば面白くない話もある。私はこうやってblogに長々と書くので「話好き」と思われる。確かに話をするのは好きだ。が、それ以上に「話を聞くほうが好き」だ。意外かもしれない(笑)。飲み会の時に「人生論」を語ったり「自分はこんなにすごいんだ」と話す人もいる。酔った勢いでからまれることもある。たいていは聞きながら我慢するが2度くらいは切れかけた(笑)。食事をしながら陸上競技について語る。これが最高に楽しい。
親しい指導者と一緒に飲み機会が今年度になって増えた。このような言い方をしたら語弊があるかもしれないが「明らかに変わっている」と思う。逆の立場から見れば私自身も「変わっている」と思われるかもしれない。それはそれでいいと思っている。ある集団から見れば明らかに「偏っている」と感じられるが、その集団の中では「いつも通り」となる。ここも考え方の部分なので何が正しくて何が間違っているのかは分からない。
話をしていて「楽しいな」「そういう視点もあるのか」と感じるときの大半は「何かに一生懸命になっている人」と一緒に過ごしている時だと思う。一般論や批判だけではなく「自分が考えていること」「実際にやっていること」を聞くときが楽しい。誰かほかの人に伝えられるだけの「何か」を持っているから話ができるからだ。適当にやっていたら人に話す内容も「一般論」になる。適当と書くとまた語弊があるかもしれないが「誰にでも話せること」を話していたら面白くない。
人は「安定」を好む。これまでやってきたことに慣れているので「別のこと」をやるのを大きく嫌う。年齢を重ねれば重ねるほどフットワークが重くなる。実際は「年齢」ではなく「考え方」かもしれないが。昨年度末に「転勤する」という大きな出来事があった。人生初の経験。これまで13年間同じ職場で生活をしていたからそこには「安定「」があった。自分では気づかなかったが「変化」することを避けている部分があったと思う。「これまで通り」がすごく楽でそれに「もっとこうしたほうが良い」という刺激が入っても「いや、これまでこうやってやってきたのだから」と保守的になる。変わるチャンスを逃し続けていたのかもしれない。
そうならないように多くの人と関わってきたつもりだった。が、それでも「閉鎖的」になっている自分自身が存在していたと思う。部活の指導を始めたころは同じ職場の運動部の先生と2次会などで遅くまで話をしていた。「だからお前はダメなんだよ」と常にだめだし(笑)。ロングスプリントで県内で活躍してリレーで優勝したとしても「ダメだし」をされていた。「結局、100mで勝てないからロングスプリントをやっているのではないか?」と。この言葉だけ見ると「専門外の人に言われてもね」と感じるかもしれない。が、一生懸命に指導されている人から言われたこの言葉は自分の中に突き刺さった。「100mは才能種目だから努力しても勝てない」と勝手に決めつけていたのかもしれない、と。
マイルをやるのは「練習量」で対応できる部分がある。が、ショートスプリントで勝負しようと思うと「それ以外の要素」が大きく影響する。いつの間にか「速い選手が来ないから短い距離は無理だ」と自分自身が逃げていたのかもしれない。それまでもある程度勉強させてもらっていたし考えながらやっていた。が、そこから方向性が変わっていった気がする。タイミングよくショートスプリンターに出会うことができたというのもあったと思う。そこから必死に「短い距離で勝負する」ことを考えてきた。尊敬できる方から言われた言葉だったから「このままではダメだ」と思えたのかもしれない。その方自身が必死に全力で競技の指導をされていたからこそ「感じ取れる部分」があったのだと思う。
その後、女子の100mで優勝することができ県レベルの大会で100mのワンツーフィニッシュも果たす。これも選手に恵まれたからだという感覚はあるがそれでも自信にはなった。さらに翌年、100mで同一校からインターハイ出場。4継でもインターハイへ。その方から言われたことを実現できた。逃げずに向き合ったからこそそのような結果につながった。中国大会から帰った翌日すぐにその方に報告に行った。「え?そんなこと言ったか?」と言われて終わり(笑)。そんなものです。が、一生懸命にやっている方からの「何気ない言葉」は自分自身を突き動かす原動力になる。
さらにはその年、インターハイでリレーを走り予選落ち。ラウンドを進むことと県記録更新を目標にしていたが果たせず。それでも「やっとここまでできた」と少なからず満足感があった。その夜、師匠と一緒に食事をしていてリレーの話になる。「やっとリレーでインターハイに来れました」というと「あんたのバトンは全国レベルではない」と一蹴(笑)。基本的に「あんたはダメだ」と言われることが大半(笑)。一生懸命にやっている人からの「忠告」や「進言」というのは心に残ります。
親しい指導者も複数いて「これってダメだよね」というアドバイスをくれます。このような言い方をすると感じが悪いかもしれませんが「一生懸命にやっている人の言葉」は心に響きます。そうではない人からの言葉は「そうですね」という感じで終わってしまう。すべての言葉に耳を傾けるというのは違うと思っています。もちろん「耳触りのいい言葉」に人は惹かれます。が、実際は「本気でやっている人にしかわからないことがある」のです。
これまで気づかなかったことに気づける。これも大切だと思っています。私自身が「規則の中で正しく生きている」とは思っていません。多少ははみ出しているでしょう。それを正当化するつもりはありません。だが、「このままで県外のチームと戦えるのか」という命題は今のままでは解けません。こちらとしても何かしらアクションを起こす必要があるのかなと。模索していきたいと思っています。
私なんてまだまだです。それでも一生懸命に生きている人たちから学ぶことがある。大切なことだと思っています。自分がまだまだだという感覚を持ち続けていきたいと思います。それが次へのステップとなるから。
生きている中でいろいろな人と話すことがある。当然の話。多くの人は「自分のやってきたこと」を話す。面白い話もあれば面白くない話もある。私はこうやってblogに長々と書くので「話好き」と思われる。確かに話をするのは好きだ。が、それ以上に「話を聞くほうが好き」だ。意外かもしれない(笑)。飲み会の時に「人生論」を語ったり「自分はこんなにすごいんだ」と話す人もいる。酔った勢いでからまれることもある。たいていは聞きながら我慢するが2度くらいは切れかけた(笑)。食事をしながら陸上競技について語る。これが最高に楽しい。
親しい指導者と一緒に飲み機会が今年度になって増えた。このような言い方をしたら語弊があるかもしれないが「明らかに変わっている」と思う。逆の立場から見れば私自身も「変わっている」と思われるかもしれない。それはそれでいいと思っている。ある集団から見れば明らかに「偏っている」と感じられるが、その集団の中では「いつも通り」となる。ここも考え方の部分なので何が正しくて何が間違っているのかは分からない。
話をしていて「楽しいな」「そういう視点もあるのか」と感じるときの大半は「何かに一生懸命になっている人」と一緒に過ごしている時だと思う。一般論や批判だけではなく「自分が考えていること」「実際にやっていること」を聞くときが楽しい。誰かほかの人に伝えられるだけの「何か」を持っているから話ができるからだ。適当にやっていたら人に話す内容も「一般論」になる。適当と書くとまた語弊があるかもしれないが「誰にでも話せること」を話していたら面白くない。
人は「安定」を好む。これまでやってきたことに慣れているので「別のこと」をやるのを大きく嫌う。年齢を重ねれば重ねるほどフットワークが重くなる。実際は「年齢」ではなく「考え方」かもしれないが。昨年度末に「転勤する」という大きな出来事があった。人生初の経験。これまで13年間同じ職場で生活をしていたからそこには「安定「」があった。自分では気づかなかったが「変化」することを避けている部分があったと思う。「これまで通り」がすごく楽でそれに「もっとこうしたほうが良い」という刺激が入っても「いや、これまでこうやってやってきたのだから」と保守的になる。変わるチャンスを逃し続けていたのかもしれない。
そうならないように多くの人と関わってきたつもりだった。が、それでも「閉鎖的」になっている自分自身が存在していたと思う。部活の指導を始めたころは同じ職場の運動部の先生と2次会などで遅くまで話をしていた。「だからお前はダメなんだよ」と常にだめだし(笑)。ロングスプリントで県内で活躍してリレーで優勝したとしても「ダメだし」をされていた。「結局、100mで勝てないからロングスプリントをやっているのではないか?」と。この言葉だけ見ると「専門外の人に言われてもね」と感じるかもしれない。が、一生懸命に指導されている人から言われたこの言葉は自分の中に突き刺さった。「100mは才能種目だから努力しても勝てない」と勝手に決めつけていたのかもしれない、と。
マイルをやるのは「練習量」で対応できる部分がある。が、ショートスプリントで勝負しようと思うと「それ以外の要素」が大きく影響する。いつの間にか「速い選手が来ないから短い距離は無理だ」と自分自身が逃げていたのかもしれない。それまでもある程度勉強させてもらっていたし考えながらやっていた。が、そこから方向性が変わっていった気がする。タイミングよくショートスプリンターに出会うことができたというのもあったと思う。そこから必死に「短い距離で勝負する」ことを考えてきた。尊敬できる方から言われた言葉だったから「このままではダメだ」と思えたのかもしれない。その方自身が必死に全力で競技の指導をされていたからこそ「感じ取れる部分」があったのだと思う。
その後、女子の100mで優勝することができ県レベルの大会で100mのワンツーフィニッシュも果たす。これも選手に恵まれたからだという感覚はあるがそれでも自信にはなった。さらに翌年、100mで同一校からインターハイ出場。4継でもインターハイへ。その方から言われたことを実現できた。逃げずに向き合ったからこそそのような結果につながった。中国大会から帰った翌日すぐにその方に報告に行った。「え?そんなこと言ったか?」と言われて終わり(笑)。そんなものです。が、一生懸命にやっている方からの「何気ない言葉」は自分自身を突き動かす原動力になる。
さらにはその年、インターハイでリレーを走り予選落ち。ラウンドを進むことと県記録更新を目標にしていたが果たせず。それでも「やっとここまでできた」と少なからず満足感があった。その夜、師匠と一緒に食事をしていてリレーの話になる。「やっとリレーでインターハイに来れました」というと「あんたのバトンは全国レベルではない」と一蹴(笑)。基本的に「あんたはダメだ」と言われることが大半(笑)。一生懸命にやっている人からの「忠告」や「進言」というのは心に残ります。
親しい指導者も複数いて「これってダメだよね」というアドバイスをくれます。このような言い方をすると感じが悪いかもしれませんが「一生懸命にやっている人の言葉」は心に響きます。そうではない人からの言葉は「そうですね」という感じで終わってしまう。すべての言葉に耳を傾けるというのは違うと思っています。もちろん「耳触りのいい言葉」に人は惹かれます。が、実際は「本気でやっている人にしかわからないことがある」のです。
これまで気づかなかったことに気づける。これも大切だと思っています。私自身が「規則の中で正しく生きている」とは思っていません。多少ははみ出しているでしょう。それを正当化するつもりはありません。だが、「このままで県外のチームと戦えるのか」という命題は今のままでは解けません。こちらとしても何かしらアクションを起こす必要があるのかなと。模索していきたいと思っています。
私なんてまだまだです。それでも一生懸命に生きている人たちから学ぶことがある。大切なことだと思っています。自分がまだまだだという感覚を持ち続けていきたいと思います。それが次へのステップとなるから。