kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

「好き」と「嫌い」2

2016-02-03 | 陸上競技
続き。

前の記事、なぜ芸能人について触れたのか。これは「アンチ」が存在するからです。普通に活動していたらなかなか叩くところがない。それが一度過ちを犯してしまうと「これはチャンス」とばかり過剰なまでの反応を示す。私自身は「他者から嫌われるだろうな」と思っています(笑)。自分のやりたいことをやっていますし、発言自体も「信念に従って」しています。理想論だと言われるかもしれません。お前が言っていることが実際にできるもんかと「否定的にとらえる」方もいると思います。それが当然。万人に好かれるような人間には「魅力がない」と思っています。

blogを書く。その内容が「気に入らない」という人もいるでしょう。毎日見てくれる方がいる。これは「応援します」というだけではなく「こいつ何なんだ」と思ってみている方もいる。それを冷静に考えておかなければいけません。当然の話なのです。「アンチ巨人」だという野球ファンがいます。が、実際は巨人の選手や采配などに関してかなり詳しく知っている。批判をするために多くの情報を集めるのだと思います。嫌いならそのチームの情報を聞かなければいいのですが、ある意味「批判をするために気になる」のだと思います。ここの部分は「表裏一体」のところもあるのではないかと思っています。

また、「良い噂」と「悪い噂」であれば圧倒的に悪い噂が広がるほうが早い。不思議なものです。誰かが幸せになったという「プラスの情報」よりも誰かが上手くいかなかったという「マイナスの情報」のほうが広がるのが早い。「自分以外の人の不幸」というのが嬉しいというか「安心する」のだと思います。自分よりも立場が悪い人間がいるということで「自分が優位に立った」という気になる。自分自身の「力」が上がったわけではないのに他者が「辛い」状況になったら「自分のほうが幸せだ」「自分のほうがいい生活をしている」と感じるのかもしれません。本質的には何も変わっていないのに・・・。

私のblogを見てくださっている方々。私の人となりをどれくらい理解できるでしょうか。本当に接触があって何度も何度も話をしている。こちらが思うことを「文字」ではなく自分自身の「言葉」で伝えることができている人にはそれなりに理解してもらっていると思っています。顔は知っている、存在は知っている。が、実際にきちんと話したことがないという人から「噂」を流されるというのはやはり難しい部分があります。

別に「嫌い」でも構わないと思います。万人に好かれる気はないですから。が、本当に私という人間の存在自体が「嫌い」なのでしょうか?どこかで利害関係が発生していたり、相手の思うように私が動かず従わないという部分から「気に入らない」という人もたくさんいるのではないかと思います。それはそれで良いんですが。

私の感覚的に7割くらいの人には好かれるのではないかと思っています。自信過剰かもしれませんが。2割くらいはどうでもいいと感じている。そしてもう1割は「嫌いでたまらない」という感じ(笑)。感覚的な話ですから正しいかどうかは分かりません。「噂話」の中で私自身を判断してもらうのはやはり「違う」のではないかと思います。実際に会って「本当に酷い目にあわされた」という人が一切の感情論を除いて「事実だけを話す」のであれば仕方ないと受け入れますが大半の場合はそうではない部分が多い。これにより「噂話」というのは悪いほうに大きくなります。

以前、blogに心無い書き込みが数度にわたってされました。誰が書き込んだのかは分かりません。世の中の常として「批判をする人の声は大きくなる」のです。上述のように「嫌いだ」という1割のうち数人がblogに「勘違いするな「大した指導もできないくせに」と書く。それを信じる人も複数出てくる。あーあいつはこんなに嫌な人間なんだなと広めるのは比較的簡単なのことなのです。事実かどうかは別として悪い意味での「噂話」を信じてその話をすると盛り上がります。

逆にここの場面で「本当の事実」を書き続けるとそれはそれで批判の対象になります。「できない」人に「できない」ことを突きつけると嫌がりますからそこから問題が大きくなる。だから「正しい情報」を提供するというのは本当に難しいことなのです。事実を事実として書くと烈火の如く怒りがこみあげてくるからです。

実際にblogに批判的な書き込みがあって「もう面倒だからblogやめるか」と思ったこともありました。その時には数名の方から「応援しています」という書き込みがある。「大嫌いだ」と言われる方もいるのですがそれと同じように「blogを読んでよかった」と言われる方もいる。それは本当にありがたいことです。「誰のために生きるのか」とい観点からすれば「必要としてくれる人のために」でいいと思っています。

自分自身の頭の整理のために書いているつもりです。それでも誰かに何かしらの「影響」がある。良くも悪くもですが。意味のある行為なのかもしれません。あいつのようになりたくないなという「反面教師」のような形で見ている人も少なからずいるのではないかと思います。それも一つの「存在価値」ですね。

うーん。何が書きたかったのかよく分からなくなりました。最近、自分の「想い」をうまく言葉にできない、まとめられないことがあります。これはまずい。もう少し冷静に客観的に物事を見れるようにならなければ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「好き」と「嫌い」

2016-02-03 | 陸上競技
思う事をツラツラと。

毎日のこのblogを書いています。夜に書いて朝に書いて少し見直して更新。これが毎日の日課のようになっています。よくそんなに長く書くね、と言われます。確かに(笑)。もう10年以上続いています。本になるんじゃないかというくらいの量ですね。gooのサーバーの保存容量は大丈夫なのかという不安になるくらい。私が明日死んだらこのblogはどういう形で残るのかというのも不安の一つ。

こうやって書くことで自分のなかで「頭の整理」をしています。これも何度も書いていますね。以前はもっとストレートに書いている部分がありましたがこういうご時世ですからかなりオブラートに包んで書くようになりました。それでも「想い」に関しては比較的書いています。本当に書くだけなら自分でノートを買ってきてそこに書き綴れはいい話なのですが。そこに少なからず自己顕示欲があるのか?自分のなかでの葛藤はあります。

毎日更新すると訪問者数が出ます。200~300くらいで推移します。閲覧数だけでいうと1000くはらい。訪問者数はマイナーにやっている割には多いのかもしれません。広めるつもりは全くありません。広まれば広まるほど好奇の目に晒される。まー公開している時点でそれは仕方ないという部分はありますが。誰がどのような目的でこのblogを見てくださるのかは分かりません。文字の羅列だけですから読んで楽しいと思えるのかどうかは分かりませんし。

このblogに書いている内容は「練習の事」と「感じたこと」「考えている事」に集約できると思います。時々本当に下らない事を書いていますが。車の鍵の話とか自販機でコーヒーか当たったとか。

ふと、このblogに訪問してくださる方は何を求めて来てくれているのかと考えました。正直、長くて読みにくい文章をひたすら書いているだけです(笑)。競技について興味があるのか、私の考え方に興味があるのか。それが分かりにくい。私自身は特別に何かを意識して書いているわけではありません。求められる事は人それぞれだと思います。私の考え方に共感してくださる方もいるでしょうし、批判的な見方をするためには閲覧する方もいるでしょう。応援します!という人もいれば偉そうにと感じる人もある、ここはそれぞれの価値観がある事なのでなんとも言えませんが。

ファンもいればアンチもいる。前の記事にも書きましたが一人の人間を様々な捉え方をすると思います。全ての人に好かれるような人がいたとしたらそれはある意味「気持ち悪い」と思います。なぜなら完璧な人間なんてものは存在しないからです。

ある芸能人が大バッシングを受けています。それまでアンチもいたのでしょうが「好感度」が高いとされ番組やCMに引っ張りだこでした。テレビでその芸能人を見ない日はないというくらいの勢いだったのではないかと思います。それが週刊誌の報道により立場は一転して「嫌悪感」を感じると過剰なまでに叩かれ始める。法を犯しているわけではありません。もちろん「人道的」に見れば許される事ではないかもしれません。が、相手が自殺してしまうのではないかというくらいのバッシングです。

スポンサー企業がその芸能人を叩くのであれば理屈は通ります。「好感度」が高いという判断でCMに起用していてその存在が商品価値を高めるまたは広めると考えられていたからです。イメージが悪くなるとその商品の販売に直接影響しますから。元々「良いイメージ」を持っている人が何かミスを犯したとすればそれは「極悪人」という評価に一気に下がってしまい職を失うという事もある。

この芸能人を擁護するつもりはありません。しかし、本当に国民が総出で大バッシングをしなければいけないのでしょうか?だってあなた達には何ら影響はないはずです。その人がどのような人間でどのような行動をしたとしてもそれは「他者」の事です。もちろん直接の利害関係がある方からすれば「許せない」と感じる部分はあるでしょう。直接謝罪をさせたいという憤りを感じるかもしれない。が、他の人がそこまで躍起になって叩く事なのか?どう考えても「あなたには関係ないでしょう?」という話なのです。客観的な視点が欠落してしまったらダメなのではないかと思います。

誰かに対して激しい攻撃をする。これによりストレスは発散できるかもしれません。しかし、これは「国民による一部の者に対するイジメ」ではないか?例えば小学低学年の子が学校でトイレに行くのが間に合わずにお漏らしをしてしまう事がある。これに対して茶化したり、バカにしたりすることはイジメだと捉える事ができる。本人は悪い事をしたわけではないのに「精神的な苦痛」を受ける。これはイジメになる。

今回の芸能人は「社会一般」的に考えて批判を受ける部分はあるのだろう。しかし、第三者からそこまで言われる必要があるのだろうか。直接関係ない者でも吊し上げて批判の対象とすることで「自分の考え方は正しい」という気持ちになるのかもしれない。ここまで大きなことになると「歯止めが利かなくなる」というのもあるだろう。何をやっているのか分からない部分が出てきます。

一時期の過ちによりミスをしてしまう人はいる。自分自身も数えきれないくらいの失敗をしていると思います。が、そこから次に向けて何をするか。挽回するチャンスがあるかどうかです。軽犯罪を犯した者が社会復帰できないという状況と同じ。他者の命を奪った者に「やり直すチャンスを与える」という部分に関しては賛同しかねます。誰かの人生自体を奪い去りやり直しがきかない状況になっているのですから。しかし、軽犯罪の場合はチャンスを与えることはアリだと思っています。

今回は「そんなことをするはずがないだろう」という芸能人が失敗をした。それにより関係者に迷惑をかけた。これにより「芸能界」で生活するのはやりにくいと思います。が、一人の人間として生きていく、生活をすることは否定される必要はないと思います。だから過剰にまで吊し上げて「再起不能」にしようとする雰囲気に違和感を感じる。行為自体を肯定するのではなく「再生」のチャンスさえも奪うことになってやしないかという話です。

うーん、話がかなり逸れました。毎回のことですが何なんでしょうか(笑)。本にするなんてことはやっぱりできないですね。文才がない(笑)。

記事を変えて本当に書きたかったことを書きます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする