kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

組織として

2018-05-21 | 陸上競技
想うことを。

組織として。一人で何かをやるのであればそれぞれのペースで自分の思う事をやればいい。さほど難しい話ではない。これが二人になると関わりが変わってくる。互いに話をしながらやらなければいけなくなる。どちらかが我慢をする部分が少なからず出てくる。人数が増えればその分、思い通りにならないことが増えてくる。当然の話だと思う。

今、こうやって部活等の指導に関わる。自分自身が選手として競技をやっているのであれば「どうやって強くなるか」だけをひたすら考えれば良かった。練習をしたくないと思うことはなかった。全て自分自身のことだから。やってもやらなくても全て自分に返ってくる。

指導に携わるようになって初期の頃は「気持ちがわからない」ということがたくさんあった。競技をするのであれば練習を最大努力で取り組むのは当然。何故きちんと練習ができないのか分からない部分がたくさんあった。まージョギングクラブからスタートしたので「自分を高める」という話をしても「そこまで求めていない」というのがあったと思う。部活動に求められるものが多種多様なんだなと改めて思った。歳を重ねたのでそれなりに把握できるようにはなっているが、まだまだ「え?」と思うようなことは数え切れないくらいある。

組織として。今は授業で「組織の意思決定」について触れることがある。「トップダウン」「ボトムアップ」のいずれか。閉鎖的な世界の中ではほとんどが「トップダウン」の形で意思決定がなされる。「昔ながら」という表現が相応しいかどうか分からないが組織のトップに指導者がいてそこからの指示は絶対。理不尽であったとしてもそれに従う。従わなければ試合に出れない。それが組織だという位置付けになっていたのかもしれない。

「ボトムアップ」というのは現場の声を聞きながらそれを積み上げて行動指針を決めるという話になる。実際に何かをするのは現場。その現場で感じたことが一番大切だからその意見を最優先する。これも重要な考え方だとは思います。指導者からの一方的な意見ではなく実際にやっている部分から出てきたものを大切にする。

どちらも一長一短あるのは間違い無いと思います。トップダウンの形であればやはりこのご時世ですから「パワハラ」と言われる可能性が高い。好まれるのは「ボトムアップ」かもしれない。が、本当に組織としてそれで良いだろうか。ある一定基準の中でやっていくという前提が存在しなければ「ボトムアップ」というのは危険だと思っています。何故なら「自分たちのやりやすいように変える」ことができるから。

語弊なきよう補足しておきますが、「自分のやりやすい」というのは様々な捉え方があります。現場として効率を考える部分は必要だと思います。しかし、「ボトムアップ」として「思い通りにしたい」という意味合いで意見を積み上げていくのは違うと思います。分かりにくいかもしれませんが。

例え話として「電車痴漢の冤罪」があるかもしれません。男性が電車に乗っていたら「この人痴漢です」と女性に言われる。全くそんな事をしたわけではないのに周りが「そうだ」と言ってしまえばもう弁明の余地はない。正しいかどうか。そこが取り上げられるのではなく「現場でこんなことがあった」という意見が大々的に取り上げられる。こうなると何を言っても対応ができなくなる。

そこには「事実」がどうであるかはもう関係ない。みんなで出した意見が「この人痴漢です」なのだから。そうなると「やっていない」は通用しない。本当にやっているのかもしれないし、やっていないのかもしれない。しかし、「やっていない証明」をするというのはほぼ不可能に近い。現場の総意として「これは嫌だ」と言えばどちらかが正しいという判断は難しくなる。指導者を排除しようと思えばいくらでもできる可能性がある。

運動部で試合も近い。その状況において「テスト期間は一切練習したくない」という意見が出てくる可能性もある。本気でインターハイを狙って勝負したいと思う選手であれば2週間まったく身体を動かさないことがどれだけ致命的なのかは分かる。とりあえず参加するというレベルになると「練習があったら勉強できない」という考え方も出てくる。実際は随分違う部分が大きかったりするのだが。同じ現場からの意見だとしても「価値観の相違」によって大きく意味が違ってくる。

アメフトでの危険なプレーが取り上げられている。監督の指示だったのかどうかという話。コメントとして「選手と指導者の捉え方の乖離」というのが挙げられていた。今回の件に関しては「捉え方の乖離」といえるのか?!大いなる疑問はある。一方的な「トップダウン」でしかなければやはり拒否はできない部分があったかもしれない。そこで指示に従わなければ今後試合に出られないというパニックみたいな状態があったのかもしれない。許される行為ではないという事実に変わりはないのだが。絶対的な権力を持つとそのことが「当たり前」のようになっていく。大きな危険が潜んでいる。

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。本人が嫌いだったらその行為や発言、全てが気に入らないという話。部活動においてある程度の「トップダウン」は必要だと思う。同時に「ボトムアップ」も必要だと思う。組織として何かをやっていくためにはどちらか一方に偏ってしまったら上手くいかなくなる。20年前なら完全な「トップダウン」のみでやっていけたと思う。しかし、いまは時代が違う。更にはそれを感じ取る子供達が違う。子供達を取り巻く保護者が違う。この現実だけは受け止めないといけない。

譲れないものは持ち続けたい。が、もう「指導する」という事がこの世には不要として言われる時代になってしまうのかもしれない。色々な人と色々な話をする。今の現状に染まってしまうのだけは避けたい。自分の感覚さえも鈍ってしまう。「義務」と「権利」。今の時代は「権利」を主張した者が有利に進む話になる。教育現場はサンドバッグ。打たれっぱなしで何も返せない。打たれることに疲れたら病気になって仕事を休むしかない。それくらいの時代だと思っている。

組織。何を大切にしていくのか。しんどい事が多いなと思う。まとまらない。ストレスが多いなと思いますね。
コメント
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