遥かな昔、遠い所で 第117回
第4話 株が当たった話 その3
この時翁は、右の宥座の器の訓に次いで、「積極と消極」ということについて教えられた。この言葉は当時一般の人にはまだ耳うとい、いわば知識人に使われていた新語といったようなもので、翁はこの新語解説にことよせて、私に処世の要諦を説いたのである。
「積極」については、「自分に確信があったら、冒険と思われるようなことでも、勇気を奮ってドンドンやれ!」と説かれたものだ。この時私の持っていた七拾八株は主として在来の旧株ばかりで、少数の優先株が交っていた程度だったが、この頃はすでに郡是はつぶれない、きっとよくなる、という確信と、私の財力にも多少の余裕が出てきた関係から、引き続き優先株買いに狂奔することができたのである。
それがためには随分剣の刃を渡るような冒険もやったものだ。津山の武蔵野旅館に泊まった時も、最初百円のチップと偽装札束を預けていちおう大尽風を吹かせてみたものの、着替えの時、旅館が蒔絵の美しい衣装箱に入れて出したのは、黄八丈のドテラにコリコリした縮緬の兵児帯、私の脱いだのは袖口の切れかけた袷にヨレヨレの木綿の帯! それを女中が丁寧に畳んで衣装箱に納める時には、私は冷や汗が出た。
そんなことから偽装札束のトリックがばれはしないかと、毎日気が気でならなかった。時々金庫から偽装札束包みを出してもらって、大きくしたり、小さくしたりして預け替えた。
金のやりくりには格別苦心したもので、店で使っていた二三人の若者を、津山、綾部間を往復させて株の売り買い、その他金策を機敏にやらせたもので、丹波紀文はついに化けの皮を現さずに最後までやりおおせて、まず存分に儲けたものだ。
それもこれも若さのさせたことではあるが、一は私の波多野ビイキ、郡是ビイキのさせたわざ、なお波多野翁積極の教えに刺激され、元気づけられたことも多く、やはりこの時も何ものかが乗り移っていたような気がする。
こんなわけで私は、案外早く貧乏あずりから脱することができて世間が明るくなり、私自身にも元気が出、青年仲間からも立てられて、その頃選挙の取り締まりが苛酷で、町の高倉平兵衛氏などが選挙違反で検挙された時、義憤に燃えて私が急先鋒になり、年長者で声望のある医師吉川五六氏を会長とし、町内青年の幹部を糾合して大いに官憲の横暴を鳴らし、間もなく今度は郡是応援の町民大会を開き、これには大島実太郎氏のごとき名士も同調し、波多野翁も演壇に立って声涙共に下る感謝の演説をされたもので、これが優先株の引き受けを容易にして、郡是の危機を救う上に役立ったものである。
これが二日会の発端となり、この二日会は今日も続いて市民の健全かつ有力なる世論機関となっている。数奇な運命に弄ばれ、しばしば逆境に苛まれつつも、まんざらすくんでばかりもいず、私は私なりに青年時代にふさわしい血の気の多い思い出もある。
大谷や藤井について語りつつ我亡き後の未来を語る 蝶人