あまでうす日記

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「祖父佐々木小太郎半生記」~佐々木小太郎古稀記念口述・村島渚編記「身の上ばなし」より

2023-12-30 09:39:54 | Weblog

 

遥かな昔、遠い所で 第118回

第4話 株が当たった話 その4

 

私の貧乏あずりは、父が隠岐へ逃げた大正元年と翌二年とが最もひどく、三年を境目に下駄屋の方がだんだん順調にいきだして、だいぶん楽になり、四年、五年と大いに株で儲けて株成金といわれるまでになったのである。

 

父については次節で述べるが、大正元年に隠岐へ逃げて四年越して五年には失敗して家へ帰ってきた。この父に対して、私はまだ十分打ち解けることはできなかったけれど、父の代に重なった大変な借金ももはやきれいに返してしまったし、最初差し押さえの封印を解いて貰う時には、随分無理を言ってまけてもらった借金もあるので、そうした向きへは後から改めて挨拶し、どちらへ向いてもアタマのあがらんようなところはなく、帰ってきた父としても肩身の狭い思いをせずに済むように、世話になった人には、十分の上にも十分の感謝をし、親戚、知友、隣近所の人たちにも、私たちのよろこびをともに喜んでもらおうと思い切った大祝いをした。

 

まず一石の餅を一週間かかって搗き、その頃の銘酒「正宗」と「福娘」の樽を二挺買い込み、親族故旧、隣保朋友を交々招き、毎日芸者三四人をあげて、一週間の盛宴を開いた。株券や銀行の預金帳を三宝に載せ、「これだけが私の財産です」とみんなに公然と披露した。

 

私は、決してこんなことを、見栄や自慢でやったのではない。いわんや、さんざん苦しめられた債権者や困った時何の助けもしてくれなかった親類にあてつけでしたのでもない。あの時すげなくされたことは、皆私にとって薬だった。

 

父の道楽が、私を貧窮のどん底に陥れたことも、同じく私への良薬だった。甘やかされずに神の試練を満喫させられたからこそ、私も発奮し、神も助け給うたのである。

かく思う時、今は何もかも感謝であり、その感謝の微衷を表すだけのことをしたのである。

 

この時芸者を大勢呼んだものだから、私は急に芸者にもてるようになり、付きまとわれだした。私は三十三でまだ若かったし、ウカウカするとこの誘惑に陥って、父の二の舞をやりはしないかと、我ながら心配になった。

 

宴会に出たり、人を呼んだり呼ばれたり、押しかけ客もあったりして、酒を用いる機会が非常に多くなって、時間と金銭の浪費がおそろしくなった。かねて何事も波多野翁を目標とし、翁に倣っていけば間違いないと信じていた私は、翁の信仰するキリスト教に心を惹かれていた。

 

翁の受洗したのは、今の私と同じ三十三の年だった。私もここで入信して、シッカリと身を固めようと思い、教会通いを始めた。私は「波多野翁から洗礼を受けたい」と無理をいっていたが、大正七年二月二十三日、翁は突如として脳溢血で急逝されたので、その直後の三月十日、私は丹陽教会牧師、内田正氏から洗礼を受けた。

 

いわば悪魔よけにキリスト教に入ったといえば、いえないこともない。世間からもそう見られたようだが、思えば十二才の時母の眼病を観音様に祈った時から、苦しい時の神頼みに、稲荷様、金毘羅様、座摩神社、北向きのえびす様と、種々雑多の神様、仏様を祈ったものだが、いずれもそれぞれ奇跡的の感応を受け、「祈らば容れられる」という私の幼稚なおすがり信仰が、波多野翁崇拝と結びついて、私をキリスト教に行かせたのであって、結局「行くべき時、行くべきところに行きついた!」のである。

 

これこそ神の御摂理である。今の私は、信ずることによって、いかなる苦痛困難も、必ずみな喜びと感謝に代えて下さる神の御恵みを思い、ますます信仰より信仰へと努めはげみ、取るに足らないこの身ながら、聊かにても神の御栄光を顕わすことに精進して、神と人への奉仕に努力している。

 

「ゆううつ」とか「憂うつ」ならば普通だが「憂鬱」ならば本物の鬱 蝶人

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