昨日の春の嵐には、驚きました!
深夜、何時だったかは 分かりません。
物凄い雷と雨音で目が覚めました…
その日は、昼間も強風であっちこっちと大変だったようで、私はといえば、17日~19日まで、富士温泉病院に初めて行ってきました。
そのお話は、後日また書きます。
ただ、行って良かった! が 素直な感想です。
暑さ寒さも彼岸まで。
私は、季節の変わり目で、体調を崩しました。
富士温泉病院と温泉に沢山入って? で、いままでの疲れが、どっーと出てしまったようです。
お彼岸中なのに、お墓参りも行けず…
昨日までゴロゴロと寝ていました。
やっと今日は少し元気が出ました。
お彼岸期間中なので、今日は「日本人の宗教意識考」の記事をご紹介します。
{日本人の宗教意識考}
佐々木 宏幹(駒澤大名誉教授)
■「拝む」内容とは
日本人の約80%が正月の初詣とお盆の墓参りに出かける。そして初 詣では多くの人が拝む神(仏)の名前も性格、役割も知らずに祈りかつ願っているようだ。
それでは人々が拝む(祈願する)内容とはなんであろうか。詳しく調べれば千差万別の実態が浮かび上がってこようが、神社が出している祈願についての知らせ(広告)を見ると、人々のおおよその祈願内容が読み取れる。
京都の例では「商売繁盛・開運厄除・家内安全」(下鴨神社)、「厄除開運・必勝祈願」(石清水八幡宮)、「家内安全・開運厄除」(平安神宮)などがある。
この広告から、人々の神々への祈願内容が主に「開運厄除」の語で示されるものであることがわかる。「開運厄除」あるいは「厄除開運」、これこそが人々の宗教的ニーズであることを神社は、経験的に承知しているからこの広告を出すのである。この点は祈祷寺院と称される仏教寺院についてもほぼ同様であると思う。
「厄」は災厄であり、苦しみ、災いの現象である。その大小を問わず人は厄を完全に避けることはできない。
個人的には病気や事故など、社会的には戦争や不景気・倒産など、自然的には地震、津波など、厄現象は人間史そのものであると言っていい。
そして人間(人類)の文化・文明史は概してこの厄現象への対処の仕方であったとも言えよう。自然科学を含む諸科学はその典型である。なかでもこの国は世界有数の科学国であり、そのお陰で他国に比較して生活は富み、世界一の長寿国になった。
結果として厄は減少したか。ノーである。次々に新型の厄が出現しているからである。年々増加する年頭の「開運厄除」の願いは、その一つの証拠ではないか。
■「開運」とは
「厄除」は厄払いとも言い、「厄」を払(祓)いよけることであるが、厄と並んで重要なのが「運」である。
「幸運」 「不運」 「悲運」 などの言葉がメディアに出ない日はない。
「運」は「回ってくる吉凶の現象であり、幸・不幸ね世の中の動きなどを支配する人知・人力の及ばないなりゆき」を意味する。
現代の人々は日常生活に生起する事柄を合理的に捉え、これに対処しようとする。対処の仕方が好調であるとき、人々は安心し「運」がいいと思う。ところが「運」は時に転変する。
生活がやっと軌道に乗った途端に夫または妻が癌に冒され、お先真っ暗になるということがある。また母が将来を託した一人息子(娘)が、いつ不慮の事故に遭い還らぬ人になるかわからない。
逆に気慰みに街角で手に入れた一枚の宝くじが、一瞬にして巨億の富に化すこともある。「人生はわからないことだらけ」の経験的事実を言語化してのが 「運」であるとも言えよう。
「運」が「人知・人力の及ばないなりゆき」であるとすると、このなりゆきを善い方向に転じさせるには当然人知・人力を超えたものの助けを借りなければならない。「開運」の願いである。
かくして「厄除」と「開運」を願って人々は人知・人力を超えたもの、「神仏」の下に雲集するのである。
■神仏とは
さきに日本人の多くは、神や仏の名前も正体も知らずに拝みかつ祈っているのではないかと記した。その際「日本人のすべては」とはしなかった。
人々の中には神と仏を峻別し、いずれかに「信仰的に」関わっている人が現にいるからである。その種の人々にとっては運や厄に振り回される者は、低俗な宗教意識の持ち主と映るかもしれない。
にもかかわらずデータ的には、宗教を信じないと表白している80%の人々が神仏に開運厄除の願いをこめているのも事実である。こういう人々にとって神仏はどう意識されているのであろうか。
端的には西行法師が詠んだとされる
「何事の おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」
の「何事」が人々の宗教意識を考える上で、大きな示唆を与えてくれるように思う。
興味深い内容でした。
私は、ちょつぴり 宗教心があります。何が起こっても…
慌てず騒がず…平常心!
指針を定めて、人生50年以上生きて来ましたが、やっぱり!?
一生懸命、誠実に 生きる だけなのかも… って思っています。