昨日から二泊三日で、叔母がはじめての介護施設へショート
スティに行きました。あまり、やはり気が進まないようで不服そうな
顔をみせました、が、致しかたがありません。
新しい施設は、5年前に開所したそうで立派できれいでホテルの
ようでした。全40室(ショート用、特養は120室)すべてユニット型の
個室です。お値段も今まで使用していたところの3倍です。
叔母が馴染んでくれるのか?心配で気が気ではなく、様子を
ケアマネに聞いてもらいました。なんとか大丈夫のようで安心しま
した。そんなことを考えて、今朝いつもの読経の御勤めをしていると
何故か母の事を思い出し声がかすれ‥涙が出ました。
昨日の新聞記事が、とても良かったのでご紹介します。
『いまだに母が一番の先生』 俳優 藤岡弘
戦争中、妊娠中の母は松山市の病院にいましたが、医師に突然
「ここを出ます」と言って医師を振り切って退院したそうです。その夜
松山に大空襲があって病院は全焼。駐在所の警察官だった父が
翌日、母を死なせたと焼け跡で呆然としていると、医師に前日に病
院を出たと言われびっくり。母は実家の愛媛県西条にいて無事でし
た。母の直感にその後も何度か命を救われているんですよ。父は
武道家でもあり、母はお茶・お花・裁縫・お琴を駐在所で地元の娘さ
んたちに教えていました。一見細くて優しい。でも、これと思った事
以外は、がんとして男が束になっても凛としてはねつけていました。
僕は子供のころは体が弱く恥ずかしがり屋で、いじめられっ子でし
た。父は丈夫にしなければと、僕に武道を教えてくれたのです。見よ
う見真似で徐々に覚え体も丈夫になりました。小学5年のころ上級生
数人によってたかってやられ、我慢できなくなって一番強い子をやっ
つけた。無我夢中で身に付けていた武道が自然と出たんだと思いま
す。けれど、その子のダメージがひどくて母と父に知られてしまった。
父は何も言いませんでした。母は僕に正座させ物凄い剣幕で
「あなたが、これ以上人様にご迷惑を掛けることをするなら、お母さん
があなたの命をちょうだいします。それでよろしいですか」と厳しくしか
りました。言い訳しようとすると「ならぬものはなりません」涙を流す。
本気の母の目を見て、謝りました。そのときのの母が僕の中で一番
怖い母。今でも何かやろうとすると、その母の姿が浮かびます。
高校生のころ映像の世界に夢を感じ、俳優になりたくて18歳で上京
しました。想像以上に厳しく3、4日何も食べられないとか四苦八苦し
ましたけど、母の事を思うと頑張れました。仮面ライダーに出演する
前の25歳、母を呼び寄せました。母の実家は裕福で嫁入り道具に
多くの着物を持たせていました。母は私に生活力のないことを分かっ
ていて、その着物を質に入れたり売ったりして僕を支えてくれました。
残っているのは数枚。それでも母は「役に立った」と喜んでいます。
母は90代半ばまで「料理が楽しいんだ」と言って僕の食事を作って
いました。足が弱くなってからは、自宅の階段を上がるのを僕が手伝
おうとすると「甘えさせないで。ここを上がっていくのが私の運動にな
るんだから」と。
母は今、百一歳に向っていますけれど、気丈さ、凛とした姿は貫い
ていて、今も化粧をしています。人に頼るという気持ちを持たず、自分
で出来る間は自分でやる。その気力がすごい。あきらめないことも含
め、いまだに母が私の一番の先生なんです。この気丈さ、気力、見習いたい! がんばろう!