生きているということ自体、自分が高いところにいる、すなわちポジティブな状態にあるといえる。
生きていることに対して死は、逆というよりは、生物にとって活動性の最も低い状態もしくは無。
そして、人間は、自分がどう死ぬかということを知ることはできない。
私自身、この一瞬あとに、事故にあって死ぬかもしれないし、誰かに殺されてしまうかもしれない。それほど急なことでなくとも、来年の健康診断で手の施しようのない病気が、いきなり明らかになって余命幾ばくも無いことがわかるかもしれない。
そして、最後の最後まで、自分が死ぬ瞬間のことはわからない。医療技術の進歩により、延命処置などがとられるようになって、様相は以前とはやや異なる部分もあるだろうが、私は、臓器提供意思表示カードを持っているので、脳死判定さえ下ればさっさと延命処置は打ち切られるはずだ。尊厳死についても、議論が進んでいけば、死に方もある程度選べるようになるかもしれない。少なくとも病院で死ぬ場合、死に方に注文をつけることができるなど、幸せなことだ。
いずれにせよ、死ぬ瞬間のことなど、わからないのだから生きるしかない。
生きているということ自体がポジティブな状態であるのならば、ネガティブな感情、というのはそもそも存在しないことになる。
ああ、人生ダメだダメだ、もう死にたい。
などと、嘆きながら生きているようでは、「生きているだけで、良いじゃないか、贅沢な」という声が、墓石の下から聞こえてきてしまう。
人は死に向かって生きているけど、いつ死ぬかを知ることはできない。
生きていることそのものがポジティブなことであるのなら、生きているかぎりはポジティブな気持ちでいたい。
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生きていることに対して死は、逆というよりは、生物にとって活動性の最も低い状態もしくは無。
そして、人間は、自分がどう死ぬかということを知ることはできない。
私自身、この一瞬あとに、事故にあって死ぬかもしれないし、誰かに殺されてしまうかもしれない。それほど急なことでなくとも、来年の健康診断で手の施しようのない病気が、いきなり明らかになって余命幾ばくも無いことがわかるかもしれない。
そして、最後の最後まで、自分が死ぬ瞬間のことはわからない。医療技術の進歩により、延命処置などがとられるようになって、様相は以前とはやや異なる部分もあるだろうが、私は、臓器提供意思表示カードを持っているので、脳死判定さえ下ればさっさと延命処置は打ち切られるはずだ。尊厳死についても、議論が進んでいけば、死に方もある程度選べるようになるかもしれない。少なくとも病院で死ぬ場合、死に方に注文をつけることができるなど、幸せなことだ。
いずれにせよ、死ぬ瞬間のことなど、わからないのだから生きるしかない。
生きているということ自体がポジティブな状態であるのならば、ネガティブな感情、というのはそもそも存在しないことになる。
ああ、人生ダメだダメだ、もう死にたい。
などと、嘆きながら生きているようでは、「生きているだけで、良いじゃないか、贅沢な」という声が、墓石の下から聞こえてきてしまう。
人は死に向かって生きているけど、いつ死ぬかを知ることはできない。
生きていることそのものがポジティブなことであるのなら、生きているかぎりはポジティブな気持ちでいたい。
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