「これ、読んで、意見を聞かせてくれない?」と、高3の息子が、小論文の試験対策の過去問を持ってきた。
テーマは、臓器移植。
およそヒトから採取される臓器のすべてに触れる病理医、一度は移植医療に関わる組織の診断を行ったことはある。私も、臓器移植についてはよく考える。
そこで、息子からの宿題だが、あれこれ考えてみたが、結論は出なかった。
結論が出ないような問題だから、個々のしっかりした考えが必要になるのだろうが、それにしても絶対にぶれないかと言われたら難しい。
「臓器くじ」が、その文章のテーマで、賛成、反対の立場から考えを述べよ、のような話だった。
*「臓器くじ」は以下のような社会制度を指す。(ウィキペディアより)
1. 公平なくじで健康な人をランダムに一人選び、殺す。
2. その人の臓器を全て取り出し、臓器移植が必要な人々に配る。
私は、前々から、「なぜ人を殺してはいけないか」の理由として、「自分がしてほしくないことを人にしてはいけないから。」と考えている。
だから、殺される、ということは、自分がされたくないことだから、殺されてはいけないし、他人を殺してもいけない。だから、健康な人は基本的に殺されてはならない。
だから、「臓器くじ」は、私の基本的スタンスの中では否定されるべき問題であった。
ところがここで、自分が臓器移植を必要とする立場になったら、この考えを持ち続けていられるか、という問題が生じる。
今は、だいたい健康なので、そのようなことを考えないが、いくら丁寧に生きていても体のそこここにガタは生じてくるものだ。肝臓、腎臓、そして心臓。
こういった臓器を健康なものと取り替えれば、生き延びることができる。となったら、私はどうするか。
人間は、自己保存本能がある。というか、遺伝子が生き延びるようにそう命じているので、私自身、臓器移植が必要な状況に置かれたら、移植を希望するかもしれない。
そうすると、その臓器は”誰かから貰うしかない”ということになる。その”誰か”は誰か。そして、その方法は?
私が誰かに与えるかもしれない、という状況が生じたら、どうするか。
殺されないまでにしても、腎臓の片方、肝臓の一部、といった片方ある臓器、再生してくる臓器は取り出せば人に使ってもらうことできる。これらの臓器に限って言えば、「臓器くじ」も可能だ。
日本で盛んに行われているのは、この、腎臓、肝臓といった臓器の生体からの移植だ。親子間、夫婦間がほとんどだと思うが、まったく血縁関係のない人への臓器提供ができるか。
献血は、血液という体の一部の提供だが、これについては見返りは無いものとなっている。
昔は、献血手帳を何冊手に入れて、などということがあった。
血液は、採取が簡単なので、このようなことも可能だが、腎臓、肝臓に「臓器くじ」制度が導入されたらどうするか。これは、無い話ではない。
移植医療の歴史は、人間の医療倫理感の歴史でもあるように思う。だが、遠い未来には、iPS細胞のようなものから、臓器もしくはその一部が再生できるようになるかもしれない。そうすると、移植医療というのは過渡期的な医療として消え去っていくだろう。
結局のところ、息子の質問に答えてあげることはできそうにない。
変化し続ける医療というものに、一つの答えを与えることはできないからだ。
人は、医療というものに何を求めて進んでいくのだろうか。
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