こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

いよいよ大学入試センター試験

2016年01月16日 | 家族のこと

昨日(15日)未明、軽井沢でスキーツアーバスの転落事故があり、大学生14人が亡くなるという大惨事となった。悲しみを言葉で言い表すことはできない。亡くなられた輝かしい将来のあった若者達のご冥福をお祈りし、ご家族にもお悔やみ申し上げます。

 

さて、今日・明日は大学入試センター試験、いよいよ今年の大学受験シーズンの幕開け。私の娘も朝早くから起きだして出かけていったが、会場がずいぶん遠いのでかわいそうだ。私が共通一次試験を受けたときは、都内に住んでいて会場は通っていた高校の近くでとても楽だった。楽すぎて点数が伸びなかったのかもしれないが、会場が自宅から遠いというのは気の毒だ。現役生はせめて、通っている学校の近くにしてくれたらいいのに。

まあ、地方に目を向けたら、それどころではないところもたくさんあるだろう。ずいぶん、不公平な話だ。

 

娘は奇しくもかつて私が描いていたと同じ夢を持っていて、その夢の実現の第一歩が今回の受験となる。

厳しい将来が待っていると思うが、私が果たせなかった夢をぜひ叶えてほしい。といっても、べつに私が薦めた道ではなく、たまたま一緒というだけで、娘の選択を純粋に応援するだけ。

センター試験は二日間。一日目の手応えにとらわれることなく、二日目も頑張ってほしい。

きっと勝って、志望校に受かってほしいと、普通の親として願う。

明日は、天気が崩れるようだが、受験生達にはベストの状態で受けて欲しいものだ。

合格祈願お菓子セットはお隣からの差し入れ

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左義長、出遅れ、ミカンに間に合わず!

2016年01月15日 | 鎌倉暮らし

今日は鎌倉鶴岡八幡宮の左義長(どんどん焼き)の日。寝坊というわけではなかったのだけど、出遅れてしまった。

神事の開始が7時ということで、祝詞の時間が終わる頃に着けばちょうど良いだろう、などと高をくくってゆっくり準備していたらあっという間に7時半。ナイトの散歩をかねて出たのもいけなかった。時すでに遅し。近所の人やカメラの三脚を担いだ人が八幡さまのほうから歩いてくる。「どんどん」という音がかすかに聞こえ、木立から立ち上る白煙がみえる。

 

どんどん焼きは、八幡さまの境内、鶴岡幼稚園の園庭で行われる。その会場に着いたときにはすでに下火。しめ縄が二三段残っているだけで、人もまばら。近くにある小学校、中学校への通学途中の生徒たち数人が、立ち止まって火に向かって手をかざしていた。あとは、義経、静御前らしきコスプレをした男女がいたけど、あれは寒そうだった。

左義長では神事の後、ミカンが振る舞われる。これだけ人が減ってしまっているし、段ボールの空き箱もあったので、もうとっくに配られただろうと、薄々わかっていたが、『もしかしたら、火がすべて消えた後に配るのではないか』などと、淡い期待をもって警備員さんに『もうミカンは・・・?」と尋ねたら、「済みません、もう終わっています。申し訳ありません。」とのお返事。

『まあ、そうだな』と思い直し、ナイトを連れて家に戻った。

煤を浴びることができたので、今年も無病息災でいられるだろう。

 左義長神事についてはここ(4年前の写真)をクリック

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病理医ドラマ、フラジャイル、出来は上々

2016年01月14日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

長瀬智也のようなイケメンが演じると、病理医もサマになる。偏屈だろうが、頑固だろうが、イケメンはなにをやっても許される。許されるといってもテレビドラマとしてで、ドラマの中では病理のことをわかっていない部長に嫌みを言われて苦労しているし、実際の医療業界の中でも病理医には相変わらず逆風が吹いている。

ただ、まあこのドラマのおかげで気持ちだけは長瀬智也になったつもりの病理医が何人かいるのではないか。きのうから放映が始まったフジテレビの医療ドラマ“フラジャイル”、原作のコミックにも忠実で、現役病理医から見て初回は80点といったところ、上出来ではなかろうか。

これまでにも病理医が主役または準主役のテレビドラマはあった。よく覚えているのは白い巨塔の大河内教授(第一作:加藤嘉、第二作:品川徹)、ナイトホスピタル(仲間由紀恵が元病理医、ユンソナが韓国出身の病理医)の二作。チームバチスタは原作とかけ離れた内容に呆れてテレビドラマはほとんど見なかったので病理医がいたようだがよく覚えていない。どれも比較的良心的に病理医を捉えてくれているけど、華がなかった。だから、イケメン病理医と美人病理研修医が出ているだけで華があってドラマが面白くなっている。

ドラマに出てくるような、あそこまで能力の低い臨床医はさすがに今の世の中いないと思うけど、威張ってばかりの臨床医は少なくない。人のことを下に見ようとする臨床医も多くて、病理医の事を何かと馬鹿にする医者もいないこともないが、デフォルメしすぎのようにも思う。そういう臨床医って、どこかで病理医にコンプレックス持っているわけで、かえって可哀相な存在なのだ。だから、病理医の存在を隠したがる臨床医はもちろんたくさんいるが優秀な臨床医は病理医に対して十分な敬意を払ってくれる。長く病理医をやっているとやっぱり超弩級のトンデモ医者に出くわすこともあって、病理をやっていて面白いと思えるような年になってきた。

 

気になる点もいくつか。まず病理医が定時に帰ることが出来る、なんていうのは大ウソで、迅速診断の予約があれば夜中まで手術に付き合うし、帰ろうとしたところで解剖の依頼が来ることも珍しくない。完全予約制ではないので、常に緊張している。いつまでたっても標本が片付くことはない。実際、コミックでも思いっきり残業している。

あと、舌を噛みそうな難しい診断名(線維形成性小細胞腫瘍:desmoplastic small round cell tumor, DSRCTとか、神経内分泌腫瘍)を使うものだから、少々イントネーションが違ったり、発音で区切るところが違ったりしていたのはチョット減点。病理の先生がちゃんと指導しないと、せっかくのドラマが台無し。長瀬智也も武井咲も診断名を覚えるのは大変だろうけど、がんばって欲しい。

それにしてもコマーシャルが多すぎる。一時間ちょっとの放映時間のうち、4割はCMだったのではなかろうか。ずっと観ていたのでストーリーはなんとか追えたけど、あんまり多かったので何のCMだか忘れてしまった。サブリミナル効果を狙ったのかもしれないが、これでは逆効果ではないかとフジテレビに言いたい。

 武井咲、頑張れ

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ゴミ出しは集めるところから

2016年01月13日 | 日々思うこと、考えること

ようやく寒の内らしい気温になってきた。昨日、横浜東京に初雪が舞ったらしいが、白いものを見ていないのでなんとも言えない。平年よりずいぶん遅いらしいが、いつまでたっても寒くならないのは心配だから、寒いのは嫌だが、暖冬はもっと心配になるのであきらめる。

ゴミ集積所というのがあるが、今週はわが家がそれを管理する当番。カラスよけとか、缶・ビン入れを用意したり、それらの後片付けをする。月曜日は燃えるゴミの日、成人の日で休みということもあって、たまにはと私がカラスよけの網を出しに行った。だが、タッチの差で休みというのに早起きしてゴミ出しに来た人がいて先に網を出されてしまった。ついでに犬を散歩に連れて行こうとしたのがいけなかった、首輪をつけている時間が命取りとなったようだった。

そのまま散歩して家に戻ってから、そのことを妻にぼやきながら、家中の燃える(正しくは燃やせる)ゴミを集めてまわった。鎌倉市も最近ゴミ袋が有料化されて、ゴミはできる限り潰して小さくして出さないと損をすることになる。だから、私もがんばって小さく潰しながら家中のゴミを集めて回った。おかげで、わが家からどんなゴミが出ているのかとか、回収に危ないものはないかとか、普段気がつかずに済ませていることがいかに多いかがわかった。

昔、ある人と話した時、「俺も、ゴミ出しぐらいはやってるよ」と言われたが、家中のゴミを集めているかと聞いたらそれはしていなかった。「奥さんが集めて玄関まで運んで来た袋を集積所まで持っていくだけでは足りませんよ」、と言ったらその人、バツの悪そうな顔をしていた。

かといって、私にしても普段、家のことはすべて妻に任せきり、ゴミ出しは休みの日に思い出したようにしているだけなので、大したことは言えない。

 ご近所付き合いもあるわけで

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死出の旅立ちのお手伝い(5/5)よりよい死を模索する医療

2016年01月12日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

樹木希林が小川に横たわる、宝島社の企業広告に触発されて書き始めたこのシリーズ、始めてみたら難しい問題で、このままでは収拾がつかなくなってしまうので、今回いったんまとめて終わらせる。

ところで、企業広告を出した宝島社の意図は何だったのだろう、以下に引用しておく、(宝島社 企業広告2016年)

日本の平均寿命は年々更新され、今や世界一。
いかに長く生きるかばかりに注目し、
いかに死ぬかという視点が抜け落ちているように思います。
いかに死ぬかは、いかに生きるかと同じであり、
それゆえ、個人の考え方、死生観がもっと尊重されてもいいのではないか、
という視点から、問いかけています。

「生きるのも日常、死んでいくのも日常」
ご出演いただきました樹木希林さんの言葉です。
「死というのは悪いことではない。それは当たり前にやってくるもので、
自分が生きたいように死んでいきたい。最後は、もろとも宇宙の塵になりて。
そんな気持ちでいるんです。」
死について考えることで、どう生きるかを考える。
若い世代も含めた多くの人々の、きっかけになればと思っています。

医療の中で絶対的 なタブーであった“死"、現代社会ではこれがタブーではなくなってきている。超高齢化社会の到来により医療費には限界が迫り、すべての人がじゃぶじゃ ぶと医療費を使うことのできる時代ではない。限られた医療費を分け合いながら“死んでいく”ことが求められる。現代社会では、生きるために死を考えなくて はならない。そして医療者はそのことを常に考えながら仕事をしていかなくてはいけない。

だから、これからの社会で死を語ること、考えることはタブーであってはいけなくなる。

すべての医療者は患者の命を巡って死神と切り結んできたが、これからは手を結んでいくことも必要になる。そして医療者のなかで、生と死の両側を診ることのできる存在は病理医以外にはいない。それが病理医に課せられたミッションなのだ。

そして、病理医が行なうことができる医療とは、良く死ぬことを模索していく医療の一つかもしれない。そして、病理解剖はその可能性を開くものだ。

 

病理医が病理解剖をコロ健なりに5つにまとめてみたい。

1.病理解剖とは、病気で亡くなられた方のおおもととなった病気(主病変)に対する診断、治療の検討とそれ以外の病気(副病変)の検索、さらに直接の死因となった病態を解明すること。

2.病理解剖の目的は、病気の評価だけではなく、亡くなった方が受けた治療、生きていた時の生活の質、それらがバランスの取れたものだったかの評価も検討すること。

3.病理解剖を行うときの要件。病理解剖は病理医が行い(これは法律で決まっている)、臨床経過を把握している臨床医が立ち会って、適宜ディスカッションしながら、介助者(主に臨床検査技師)の助けを得ながら進める。

4.病理解剖診断を行う際には、肉眼所見、電子顕微鏡による検査を含めた顕微鏡検査を行ない、これに各種のタンパク診断(免疫染色)、遺伝子診断を合わせて病気の診断を行う。さらに治療経過を臨床医と検討して、治療行為の質的診断も行う。

5.病理解剖診断の報告では臨床医への報告とは別に、病理外来などを通じて遺族にもわかるような報告を必要に応じて行うことができるよう準備をしておく。

 

なお、一般の方への病理解剖の説明が日本病理学会のホームページに掲載されているので、興味のある方は是非、ご一読ください。

市民の皆さまへ「病理解剖について」(by 日本病理学会)

 

 なお、病理解剖にかかる費用はすべて医療機関の持ち出しだ。だからお金の取れる外科病理診断で忙しい病理医は解剖をしたがらないし、医療機関も病理解剖は不採算行為と考える。
儲けにならない病理解剖を取り巻く環境は厳しい。

明日からまた通常どおりに

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すみません、解剖のまとめはもう少し待って下さい

2016年01月11日 | 日々思うこと、考えること

病理解剖のこと、今日まとめようと思っていたのだけど、残念ながらできなかった。

というのも、そもそもまとめようというテーマが大きすぎるということがあるのだけど、それ以上にいろいろとあったということがある。

個人的、というとなんだかおかしな言い方だけど、あれこれしなくてはいけないことがあってそれに半日以上かかわってしまった。

散歩に行くのを待たせていたナイトを連れて出かけたら、鎌倉市内はすごい人出。

買い物があって、私とナイトは店の外で待つのだが、とにかくどの店も混んでいて会計もなかなか済まないのか、なかなか妻は戻ってこない。

といった調子で、これまたあっという間。家に帰り着くまで2時間ぐらいかかってしまった。

それでも、裏道を歩いて何とかなったほうで、昨日の人出はもっとすごかったようだ。

昨日、一昨日と研究会で鎌倉にいなかったのは良かったのか。

というような訳で、家に帰り着いたらヘトヘト。

病理解剖のこともまとまらなかった。

なんとか、明日には頑張ってまとめます。

 よく聞く言い訳

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死出の旅立ちのお手伝い(4/5)コロ健が考える病理解剖

2016年01月10日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

今回のシリーズは、あくまでもコロ健という1人の中年病理医が、自分が残りの病理医人生を歩んでいく上で考えることであり、日本の病理医の標準的な考えではないことを断わっておく。「フラジャイル」の岸京一郎とももちろん違う。

 

さて、病理解剖については、すでに“病院で死ぬことと病理解剖”と題し、6年前に4回に分けて書いている。そのことを書いたきっかけは、入院中だった義父の突然の死だった。この時の記事を読み返すと、私の病理解剖に対する考え方は、まだ、「病理解剖とは病気の原因を明らかにすることで、医療・医学の向上に資するためにおこなうべきもの」にとどまっていた。

今回、病理医として、改めて病理解剖というものがあくまでも科学的で、客観的な作業でなくてはならないものだと考えた。これは日常の生検診断、組織診断と同じことだが、死の質向上という観点からは少し違ってくる。

これとは別に、病理外来のようなところで病理医に求められることもある。それは臨床家としての病理医であり、臨床医が説明できない解剖の所見とか、手術所見を診断した病理医がわかりやすく患者さんとか、その家族に説明することだ。あの時の私も、遺族としての私が病理医としての私に、義父の死に至る経過を説明してもらえなかったことが心残りだったのではないかと思う。だからこそ、病理解剖の客観性をきちんと担保し、病理解剖のシステムや目的を明確にしていく必要がある。

明日、最後に、そのためにコロ健は病理解剖のあり方を5つにまとめてみたい。

 

 

 研究会で、息切れしてしまいました

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例の話は明日から

2016年01月09日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

今日、明日は病理関係の研究会があり、いろんな病理医と話す機会があった。病理診断がメインの会で、解剖に触れる話題は一つか二つ、とても"病理解剖"の話しをするような雰囲気では無くて、その話はしなかった。

 

ここで思ったのは、「やっぱり病理医も千差万別、種々雑多」いろんな人がいるということだった。病理解剖に対する考え方も一様ではないだろう。

今日の研究会、臨床医も参加していて、いろいろ意見を言っていた。そこで、臨床医とは根本的に疾患へのアプローチ方法が違うのだと思い知らされた。どちらの立ち位置がいいとか悪いとかではない、考え方が違うのだ。

病理医は頑ななまでに形態像にこだわるし、臨床医は始めに臨床診断ありき。もちろん、私は病理医なので、思考パターンは病理医だけど、これが果たして正しい方法なのかは解らない。ただこれしかできないし、こうでなくてはいけないのだ。

というようなことがあり、研究会でも疲れてしまったので、病理解剖の話は明日からにする。

もちろん明日も研究会はあるのだけど、今日感じた驚きは落ち着いているだろう。それにしても、病理医と臨床医、トレーニング方法が違うだけで、これほど疾患のとらえ方が違ってしまうとは。

あと、病理医はおだやかな人が多いけど、臨床医の中には、現場で色々頑張っているとあんな風になっちゃうのかな?と思えるような、自己主張の強い人がいる。ごく一部の医者だろうけど。

 話の続きは明日から

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寒中見舞い―解剖の話はいったんお休み

2016年01月08日 | 日々思うこと、考えること

寒中見舞い、申し上げます。
いつもこのブログをお読み下さりありがとうございます。喪中のため、新年のご挨拶をしませんでしたので、改めてご挨拶させていただきます。本年もよろしくお願いします。


さて、樹木希林がオフィーリアに扮した宝島社の企業広告をきっかけとして、病理解剖のあり方について考えていたのだけど、あと二回でまとめるのが難しくなってきてしまった。五回で終わらせる予定を十回、二十回にしてもいいのだけどそんなことしたら、これが病理解剖のブログになってしまうし、奥が深いテーマであって、いったいいつになったら終わるのかわからない。やっぱり、あと二回で一応まとめたいのだけど、考えのほうがまとまらないので、今日は一休み。

こんなことを考えているうちにも、サウジアラビアとイランが断交し、北朝鮮では水爆の実験が行われ、フランスでは再びテロ(未遂)があった。日本でも悲しい事件や事故が起きているけれども、国内に限って言えば何とか安全は保たれている。北朝鮮の核兵器開発は怖いが、それを除けば安全というのは、まずまずか、それともやっぱり油断は禁物か。

 



寒の入りで、実際少し寒さが厳しくなってきた。私も少々背中がぞくぞくする。今週末はあまり休めないので、余計に体調管理には気をつけようと思う。 みなさまも、どうぞご自愛下さい。

 再開は明日か明後日か

 

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死出の旅立ちのお手伝い(3/5)病理解剖と医療監査

2016年01月07日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

今日も昨日の続きで、病理解剖について。

私が模索したい病理解剖とは、医療過誤を暴こうとか、同僚医師の能力を評価しようなどということではない。そもそも医師も看護師も臨床検査技師も薬剤師も、医療に携わる者の誰も患者の症状を増悪させようとなんて思っていない。性善説に立つことが、医療従事者相互のあり方だし、そうでなくてはチーム医療は立ち行かない。なお、医療過誤、医療事故が疑われる症例については、医療事故調査制度に委ねられるべきだ。この制度における病理医の役割について考えるのは別の機会にゆずり、ここでは通常の病理解剖について考える。

私がまだ駆け出しの頃、今でも尊敬している先輩病理医が「医療監査(Medical audit)」という言葉を教えてくれた。医療監査という言葉を大ざっぱに言えば、医療施設そのものをチェックするような作業で、診療報酬不正請求とか、医療安全体制の不備とか、人員の不正配置などが無いかを調査する。事務方を中心に、看護部門、検査部門などのコメディカル部門が対応することが多い。院長とか副院長とかといった病院幹部を除くと、これらに医者がタッチすることは少ない。最近でこそ、医療事故防止とか感染対策とかに医者が加わるようになったが、長らく医者はこういったことには疎かった。病院で医者は仕事さえ、すなわち、勉強さえしていればいいというようなもので、勉強好きが多い医者にはちょうどいい。ある意味気楽なのだが、何かあった時に責任をとるのは医者だし、近視眼的に勉強ばかりしていると、社会常識すら失ってしまう。結局なんでもやらなくてはいけなくなってしまうので、なかなか難しい。

それはさておき、その先輩病理医が言っていたのが、患者さんに施している治療が最適なものであるかの判断は病理医にしかできないということだった。病理医による医療レベルの監査の必要性、その先輩はそんなことが言いたかったのではないかと私はそのとき思った。

病理医による医療監査のための材料はもちろん、生検診断、手術組織診断および病理解剖だが、生検診断、手術組織診断といった外科病理診断はすでにルーチン化され、技術は確立されている。

ところが、病理解剖についてはまだまだ活用しきれてはいないと思う。これまでの病理解剖は病気の本質を突き止めていくことが目的だったけれども、その新たな活用法の一つとして死の質の評価に用いることはできないだろうか。

医療の質の評価というのは、すでに行われている。例えば、がん治療であれば、治療法の選択に始まり、終末期にいたっては、在宅にするかなどだ。 だがその評価は、患者やその家族からの聴き取りが主であり、多少医療者の意見が加わる程度だろう。こういった研究は有意義なものだが、アンケート主体の研究は客観性にかけたものとなってしまう危険性がある。ここに病理解剖という客観的評価を加えたらどうだろう。

 具体的方法はいくらでも考えられるだろうが、大切なことは病理医がその研究をコントロールするということだ。当事者、すなわち患者やその家族、現場の医療者、特に臨床医が結果に関わるようではいけない。病理医が主体となって、病理解剖を通じて死への道程を評価し、それをこれから死んでいく人の死に方にフィードバックする。そういったことはできないだろうか。

 でも、こんなことをすると病理医の仕事がまた増えてしまう。ただでさえ人手不足の病理医に余計な負担をかけないでやる方法はあるだろうか。

 具体化は可能か

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死出の旅立ちのお手伝い(2/5)適切な医療評価の必要性

2016年01月06日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

昨日の続き。



病理医による病理解剖の目的は、病気で亡くなられた方の、おおもととなった病気(主病変)の検討とそれ以外の病気(副病変)の検索、および直接死因となった病気の解明だ。 

例えば、肺癌の患者さんであれば、癌に対して行った治療がどの程度効果があったかを調べることが第一の目的となる。

だが、癌は良く治療されていたのに、別の病気が直接死因となって亡くなってしまうことは少なくない。

例えばそれは、抗癌剤による免疫力の低下による感染症だったり、予期せぬ心筋梗塞だったり、消化管出血だったりする。

そんな複雑な病態を検討するのが病理解剖の目的だが、私が考える医療者としての病理医が行うべき病理解剖のあり方はこれとは少し違う。

違うというと語弊があるが、これまで行ってきた病理解剖は、生かすための医療技術の進歩により必要最低限のものとなっており、これからはさらにもう一段階進んだ病理解剖を考えるべきだと思うのだ。


今や多くの人が病院で死ぬけれど、果たして皆上手に死んでいるのだろうか。

医療過誤による死はあってはならないが、そうでないにしても、無用な延命治療や過剰医療は無かったかとか、より費用のかからない代替医療は無かったかとか、などを評価することはまだまだなされていないように思う。

医療資源は限られているし、わが国の社会保障制度は破たん寸前だ。


「あの人(故人)も、大病院で高名な先生に診ていただいて死んだのだから本望でしょう。」と言ったところで、大先生の診断の主診断までで、あとは世界共通となりつつあるプロトコルに従って治療する。

今後、エビデンスに依拠した治療法以外の“独特(オリジナル)の”治療法というものは無くなり、治療法は治療ロボットが示してくれるようになる。

基本的な疾患の治療に対しては“さじ加減”という言葉は減っていくだろう。

だが、生身の患者さんに接する現場は違う。

現場では想定していなかったことが次々と起こる。

それに大先生が指示した無理な治療のために却って余命が短くなるということだってありうる。

ぎりぎりまで闘ったら、次は上手に死ぬことを考える人がいてもおかしくない。

新薬にしても製薬会社は資本主義的存在であり、新薬開発こそが製薬会社の存在意義のひとつであることを忘れてはいけない。


生活の質、すなわちクオリティーオブライフ(Quality of life:QOL)の向上は生きている人すべてが持つ権利だ。

健康の人も、病気の人も等しく持っている。

万策尽き、これ以上の回復の望みがないような人に対し、家族や医療者の勝手な考えでいたずらに延命治療を行うことは許さないことだ。

安楽死は定義の問題があって、容易に制度化することはできそうにないが、終末期医療はずっと前から始まっている。

終末期医療の結果を評価することはあまり行われていないが、このような“緩やかな死”が”上手な死に方であったか”を評価するための病理解剖があってもいいのではないかと思う。

 ではどうしたらいいのだろう

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死出の旅立ちのお手伝い(1/5)上手に死ぬということ

2016年01月05日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

朝刊に、宝島社の企業広告が載っていた。
川に横たわる樹木希林、横に「死ぬときぐらい 好きにさせてよ」

その見出しの下には、

「人は必ず死ぬというのに 長生きを叶える技術ばかりが進化して なんとまあ死ににくい時代になったことでしょう

死を疎むことなく、死を焦ることもなく、ひとつひとつの欲を手放して、身じまいをしていきたいと思うのです

人は死ねば宇宙の塵芥 せめて美しく輝く塵になりたい それが私の最後の欲なのです」とある。

生きるのが難しいのは昔から誰もが感じてきたことだが、死ぬこともそれほど容易ではない。

だが、上手に死んでいく技術は医療技術に比べて進歩していない。

そんなことが言いたいのだろうか。


私は病理医としての仕事、すなわち病理解剖を通じて多くの人の死出の旅立ちのお手伝いを行ってきた。

癌とか、心筋梗塞とか、敗血症とか、中には病気の本態を突き止めることができなかった症例もあるけれど、その都度いろいろな死の原因を考えてきた。

そして、その結果を病理解剖診断として、現場の医療にフィードバックし、さらには臨床医とともにもっと広く医学界にフィードバックして、生きている人の役に立ててきた。

そのおかげ、すなわち死者の生きた軌跡のおかげで生きる技術は進歩してきたといえる。

死は不可逆的な事象であり、死者が蘇ることはない。

だが、時計の針を戻すことができないのは生者も同じ。

死ぬために生まれてきたのだと考えたら、上手に生きるのを考えるのと同じく、上手に死ぬことも考えたい。

画像診断の精度が上がって、病理解剖不要をいう医者もいるが、果たしてそうだろうか。

それならそれでいいが、それ以上に病理医に求められるものが実はあるような気がする。

それは、医療者としての病理医にできることが、生きるための医学の進歩への貢献とともに、上手に死ぬことができたか(抗癌剤の治療効果判定とかではなく)、というような判断を行うことかもしれない。
では、具体的にはどんなことをしていったらいいのだろう。

続きは明日また考えたい。


余計な仕事か?

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仕事始めは穏やかに

2016年01月04日 | 日々思うこと、考えること

今日が私の仕事始め。今朝も夜明けは美しく、金星と三日月が良く見えた。

明日が仕事始めというところもあるからか、横須賀線の混雑はそれほどでもなかった。

朝、寝坊しないか心配だったが、しっかりいつも通りに目が覚めた。10年以上続いた習慣というのはすごいものだ。
ラジオもテレビニュースも休み前と同じいつもの月曜日の朝の番組を流している。見聞きするうち、あっという間に通常モードに戻る。



病院までの歩きもいつも通り。いつも通る神社に、今年もよい一年でありますようにと、ごあいさつ。

あれ?今年も、とは。過ぎてみれば、去年もまんざらではなかったか。

無病息災であれば、それで十分。



さすがに仕事は勝手に片付いているということはなかった。
メールの処理をやりながら、目につくものから順に片付けていったら、あっという間に一日が過ぎた。

何はともあれ、穏やかな仕事始めの日となった。

昼間はあたたかかったようだけど、やはり帰りは寒かった。

 今年も歩こう

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天神さまに初詣

2016年01月03日 | 家族のこと

穏やかな三が日が過ぎ、明日から仕事再開。暦通りに休みがとれ、疲れもずいぶんとれた。

暦通りといっても、クリスマス休暇でどんと2,3週間休むわけでもなく、年休すら十分消化せず、日本人は祝日が無ければ休めない。これでは、体はともかく、心は疲れてしまう。

ともあれ、近所のパン屋さんは今日開店。こちらも働き者だ。

さっそく犬の散歩がてらパンを買いにいった。出かけたのは朝8時頃だったのだけど、初詣の人が多い。鎌倉には9時から車が入って来れなくなるので、それに間に合うよう滑り込んできたであろう車も多い。

今年は新年のお祝いはしないものの、受験勉強の娘をおいて、東京の両親のところに挨拶に出かけた。

息子の大学受験のときにご利益があったので、娘にもということで、帰りに湯島天神にお参り。

正月3日の夕刻。明日から仕事という日なのに、まだまだ入場制限があるほどの混雑で驚いた。

お参りしたのは、勉強中のご本人に代わり、私と妻と息子。大学生の息子も、妹思いで文句一ついわずに30分近く並んでいた。

娘には是非頑張ってほしいものだと、三人三様にお願いした。

それにしても、ずいぶん多くの受験生が来ていた。これが一月三日の夕刻、三が日ではどれほどの人出だったのだろうか。

あとは、自分を信じるのみ

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読みたい本はまだまだたくさん・・・2015年12月の読書記録

2016年01月02日 | 読書、映画、音楽、美術

作品の中で、村上春樹が村上龍のことに言及していたので、初村上龍となった。村上春樹にしてもノルウェイの森はまだ読んでいないし。読みたい本を挙げるときりがない。

今年はどれほど読めるかわからないけど、良い本を多く読みたい。でも、それ以外にも病理の本も読まなくちゃいけないし、論文もあれこれ読まなくてはいけない。そして、アウトプットも。

2015年12月の読書メーター
読んだ本の数:4冊
読んだページ数:840ページ
ナイス数:119ナイス

鏡の法則 人生のどんな問題も解決する魔法のルール鏡の法則 人生のどんな問題も解決する魔法のルール感想
本棚を整理していたら出て来た本。途中まで読んで、再読だと思い出した。9年ほど前の本で、自尊心を高めるための本、という感じだ。人のことを悪く言う、悪く感じるということが自分をダメにしてしまっているということを気づかせる話。実際、ここまで頑張って、それほどのものが得られるか?
読了日:12月31日 著者:野口嘉則

 


まろ、ん?―大掴源氏物語まろ、ん?―大掴源氏物語感想
先日、林望版の源氏物語を半年近くかけて読み終えたが、こちらは一晩で読破。といっても、とても丁寧に描かれているから物足りなさは感じない。登場人物は表情豊か。装束、風景も本文通り(といっても、私は現代語訳しか読んでいないけれど)。小泉吉宏版源氏物語絵巻といったところ。それにしても、一体なんで、まろとその一族の男はみな栗で、頭中将とその一族の男が空豆(?)なのかわからなかったが、その意図が分かった時はなるほどなと。紫の上、明石の入道、浮舟のこともう少し詳しく描いてほしかった。輝日宮の帖で藤壺とのこと腑に落ちた。
読了日:12月29日 著者:小泉吉宏


新装版 限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)新装版 限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)感想
40年前の19歳の麻薬中毒体験記。脈絡のない少し靄のかかったような表現が延々と続いて、読むのに骨が折れた。読んでいて十分に嫌な気持ちになれました。だけどこれが危険ドラッグで交通事故を起こして人を殺した19歳の体験記だとしたらどうだろう。この頃は、こうやって廃人になっていく若者がいたのかと、思い出させてくれる昔話。麻薬中毒者の話に普遍性は無い。自分が中学校に上がったころというのはまだまだ戦後だったなと、改めて感じる。ドアーズ、ストーンズ、フロイド。ビートルズではパンチが足りなかったか、健康的だったのか。
読了日:12月24日 著者:村上龍


職業としての小説家 (Switch library)職業としての小説家 (Switch library)感想
小説を書くことが大好きなだけの人の、素直な気持ちが綴られている。村上春樹だからこそ自分の思いを余すところなく書くことができるのだろうが、彼にしてもずいぶん手を入れて良い文章、まるで彼の小説のよう、に仕上げている。彼の小説を読んでいるような気すらしてしまうのは、文体だけではなく、完成度の高さにもよるだろう。読書好きだったこと、20代のことにはあまり触れていないが、それでも彼について人が知りたかったことは村上自身も語りたかったことだったと判る。小説を書くことに対して真面目でいたい、そんな思いが伝わってきた。
読了日:12月3日 著者:村上春樹

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