ひめゆりの塔に向う。平和祈念公園から4キロと近い。
気が重い。
車を停めて花を買う。ここは海岸から少し内陸に入っていた。
ひめゆりの塔に献花をする。
塔の前には、学徒たちが自決したり戦死した壕が保存されている。
ひめゆり祈念資料館に入る。
彼女たちが働いた南風原陸軍病院壕の複製を展示していた。
その複製を見ていると年配の女性が近づいて説明を始めた。
最初は聞き取りにくかったが、
「…学徒は5月23日にこの南風原陸軍病院壕を後に南に向った」と
話が始まった。ひめゆり学徒隊の出身学校の方かなと思った。
次の言葉は明瞭だった。「私たち学徒は…」だった。
学徒の方だった。少し頭が混乱した。
まさか「元ひめゆり学徒隊」の人に説明していただけるとは
考えもしなかった。
彼女は友人の遺影の前で、思い出したくもない「地獄」の話を
しているのである。
自宅に帰ってインターネットで検索すると、沖縄で体験学習を
した高校生の文書にヒットした。
元学徒の宮城さんから話を聞いている。内容が同じだった。
私が会った方は宮城さんであった。
元ひめゆり学徒隊は1945年5月23日に南風原陸軍病院壕を後に
したという。
米軍の上陸が4月1日だからもう2ヶ月も猛烈な戦闘をやってきて
いる時期である。死傷した人々は膨大な数にのぼるはずである。
しかし正確な資料はない。
この病院には何名収容されていたかさえわからない。
学徒隊にとって負傷者のためにできることは限られていた。
井戸からの水汲み、手術の手伝い、死体の処理など、絶えず続く
爆撃の中での仕事である。
沖縄本島のように細長い島は、島じゅうどこでも、艦砲射撃の
射程内にある。絶えず爆撃できるわけである。
安全なところはどこにもない。その中で2ヶ月近く従軍していた
彼女たちの心労はどのようなものだったか。
想像の粋を越えている。
彼女たちが南風原陸軍病院壕を後にするということは、
負傷者は歩くことができるものしか連れていくことができないと
いうことだった。
残された重症者は青酸カリを飲むことを強要された。
宮城さんはそれが今でも引っかかっているようだった。
重症の患者も別行動で撤退したと思っていたという話を聞くと、
自分たちだけが撤退したという負い目を今でも感じて
いらっしゃるのだなと思った。
このことを責める人などいるはずはないが。
彼女の心の傷は癒されていない。
せめてここで証言することが、残されたものの使命と考えられて
おられるのだろう。
資料館の次の部屋は生き残った方の証言と、なくなった学徒の
遺影が展示されていた。
遺影には名前、年齢と死亡の日時と場所が書かれている。
これは見るのがつらかった。中には遺影のない方もいらっしゃる。
家にも学校にも写真が残されていなかったのだろう。
すべてがなくなってしまったのである・・。
学徒隊は「ひめゆり」だけではない。男子生徒は「鉄血勤皇隊」と
称され、1780名のうち、890名が戦死した。
ひめゆりを含む「従軍看護婦隊」は479名のうち、189名が戦死した。
5時になった。閉門時間である。資料館を後にした。
門が閉められた。そこへ運転手と見学者が走りこんできた。
見ているとふたたび門は開けられた。
何かほっとした。
ここは若い人が多く来ていた。特に女性が多かった。
これはうれしかった。
若い人は大丈夫だ。
※2002年沖縄の地で
気が重い。
車を停めて花を買う。ここは海岸から少し内陸に入っていた。
ひめゆりの塔に献花をする。
塔の前には、学徒たちが自決したり戦死した壕が保存されている。
ひめゆり祈念資料館に入る。
彼女たちが働いた南風原陸軍病院壕の複製を展示していた。
その複製を見ていると年配の女性が近づいて説明を始めた。
最初は聞き取りにくかったが、
「…学徒は5月23日にこの南風原陸軍病院壕を後に南に向った」と
話が始まった。ひめゆり学徒隊の出身学校の方かなと思った。
次の言葉は明瞭だった。「私たち学徒は…」だった。
学徒の方だった。少し頭が混乱した。
まさか「元ひめゆり学徒隊」の人に説明していただけるとは
考えもしなかった。
彼女は友人の遺影の前で、思い出したくもない「地獄」の話を
しているのである。
自宅に帰ってインターネットで検索すると、沖縄で体験学習を
した高校生の文書にヒットした。
元学徒の宮城さんから話を聞いている。内容が同じだった。
私が会った方は宮城さんであった。
元ひめゆり学徒隊は1945年5月23日に南風原陸軍病院壕を後に
したという。
米軍の上陸が4月1日だからもう2ヶ月も猛烈な戦闘をやってきて
いる時期である。死傷した人々は膨大な数にのぼるはずである。
しかし正確な資料はない。
この病院には何名収容されていたかさえわからない。
学徒隊にとって負傷者のためにできることは限られていた。
井戸からの水汲み、手術の手伝い、死体の処理など、絶えず続く
爆撃の中での仕事である。
沖縄本島のように細長い島は、島じゅうどこでも、艦砲射撃の
射程内にある。絶えず爆撃できるわけである。
安全なところはどこにもない。その中で2ヶ月近く従軍していた
彼女たちの心労はどのようなものだったか。
想像の粋を越えている。
彼女たちが南風原陸軍病院壕を後にするということは、
負傷者は歩くことができるものしか連れていくことができないと
いうことだった。
残された重症者は青酸カリを飲むことを強要された。
宮城さんはそれが今でも引っかかっているようだった。
重症の患者も別行動で撤退したと思っていたという話を聞くと、
自分たちだけが撤退したという負い目を今でも感じて
いらっしゃるのだなと思った。
このことを責める人などいるはずはないが。
彼女の心の傷は癒されていない。
せめてここで証言することが、残されたものの使命と考えられて
おられるのだろう。
資料館の次の部屋は生き残った方の証言と、なくなった学徒の
遺影が展示されていた。
遺影には名前、年齢と死亡の日時と場所が書かれている。
これは見るのがつらかった。中には遺影のない方もいらっしゃる。
家にも学校にも写真が残されていなかったのだろう。
すべてがなくなってしまったのである・・。
学徒隊は「ひめゆり」だけではない。男子生徒は「鉄血勤皇隊」と
称され、1780名のうち、890名が戦死した。
ひめゆりを含む「従軍看護婦隊」は479名のうち、189名が戦死した。
5時になった。閉門時間である。資料館を後にした。
門が閉められた。そこへ運転手と見学者が走りこんできた。
見ているとふたたび門は開けられた。
何かほっとした。
ここは若い人が多く来ていた。特に女性が多かった。
これはうれしかった。
若い人は大丈夫だ。
※2002年沖縄の地で