福西志計子と木村静はともに、備中高梁の生まれである。
福西志計子(1847~1893)は、藩士の一人娘として生まれ
養子を迎えた。
木村静(1837~1900)も士族の生まれで、本家に嫁ぐが
寡婦となる。
ともに1875年(明治8年)、岡山の裁縫伝道所に向う。
時代は明治に移っており士族には厳しい時代である。
自活しなければならなかった。
福西の場合は自活の必要はなかったかもしれないが、向学の
志が強かったと思われる。そのように推測するのは、隣家は、
幕末に名を残す山田方谷(※1)宅で、福西は彼に漢学を
学んでいることにある。もちろん漢学だけではないだろう。
多くのことを学んだことであろう。
岡山への学びの旅は二人に裁縫以外にも実りをもたらした。
それがキリスト教だった。
この時期、すでに岡山に宣教師が来ていたのか。
なかなか興味が深いところである。
同志社の創始者新島襄が帰国したのが1874年(1明治7年)
である。
1876年(明治9年)には金森通倫(2月6日号掲載)が受洗
している。彼女たちは、なんらかの形でキリスト教に接触
したのだろう。金森の話を岡山で聴いていたのではない
だろうか。(明治12年には米国宣教師が初めて来岡している)
福西と木村は、明治9年に岡山の裁縫伝道所を卒業して、
高梁の紅工場(二人の帰郷で裁縫所になる)の教師となる。
その後、キリスト教婦人会をつくる。
高梁にも宣教師が訪れ始める頃である。
福西と木村は、岡山で知ったキリスト教を、高梁で学ぶこと
になる。その頃の高梁の話は、留岡幸助(2月9日号掲載)の
自伝にも出てくる。
明治13年のある時、町を歩いて居りますと友達の一人が、
「おい西洋から軍談講釈師が来そうじゃ聴きにいかぬか」と
いうことで聴きにいくと、この講釈師が、神様の前では士族
の魂も町人の魂も同じ値打ちという。いい教えだと思っている
と後でそれがヤソだとわかった。
この宣教師はベリーといい、岡山医学校の講師も勤めている。
週3日の授業で週末の休みが2日あった(※2)。
高梁まで岡山から12里であるから、土曜に終日歩いて高梁
に着き、夜に講義をしていたと思われる。同行した日本人が
金森であった。ベリーは日本語がうまくなく一言だけ話して、
後は金森が継いだという。
その講義の場に福西と木村も居たことは間違いない。
ところで高梁は、キリスト教に厳しい土地柄であった。
藩主の坂倉公の先祖は、遥か昔のことではあるが島原の乱で
討ち死にしており、キリスト教を忌み嫌っていた。
その高梁に、キリスト教婦人会を作ったのだから大変で
ある。二人は教師不適格者として、追い出されてしまう。
そのことにくじける二人ではなかった。
1881年(明治14年)に私立順正女学校を設立する。
高梁教会とのつながりも強く、高梁教会付属女学校という
感じだったと考えられる。この順正女学校こそ、中四国で
初めての女学校という栄誉をになうのである。
高梁教会が設立した年に、3人は同時に受洗している。
1882年(明治15年)のことである。
しかし、教会や順正女学校への妨害は激しく、大きな岩石で
教会が壊されたり、冠婚葬祭への参加は許されず、娘を嫁に
出すこともできなかった。
幸助は迫害のため町を脱出するしかなく、岡山教会を経て、
四国の今治まで逃げている。
高梁に留まった福西と木村は、生徒集めにも苦労するが、
それを伝え聴いた(と思われる)炭谷小梅は、前述のごとく
石井品子(2月20日号掲載)を京都から、岡山に戻し、
すぐさま順正女学校に入学させる。
生徒は中四国から集ったという。もちろん、地元からは
集らないので教会が呼びかけて高梁に送ることになった
のだろう。そうでなければ、キリスト教の女学校が当時の
高梁で育つはずがない。
そして、福西と木村のふたりだからこそ励ましあうことで
乗り切れた。
これを神の導きと、二人は信じたことだろう。
福西は、「順正の父」と呼ばれ、木村は「順正の母」と
呼ばれた。そのような性格だったのだろう。
二人の刺繍が残っているが、福西は「虎」、木村は「花」を
題材にしている。
わかりやすいといえば、本当にわかりやすい。
順正女学校はやがて、順正高等女学校となり、今の高梁高校へ
とつながっていく。
確かな礎となった二人であった。
並大抵の努力ではなかったと思う。
※1山田方谷 幕末の政治家、財政家、教育者。河井継之助が
学んだ藩政改革の師と言われている。
※2山陽新聞120年史による。
福西志計子(1847~1893)は、藩士の一人娘として生まれ
養子を迎えた。
木村静(1837~1900)も士族の生まれで、本家に嫁ぐが
寡婦となる。
ともに1875年(明治8年)、岡山の裁縫伝道所に向う。
時代は明治に移っており士族には厳しい時代である。
自活しなければならなかった。
福西の場合は自活の必要はなかったかもしれないが、向学の
志が強かったと思われる。そのように推測するのは、隣家は、
幕末に名を残す山田方谷(※1)宅で、福西は彼に漢学を
学んでいることにある。もちろん漢学だけではないだろう。
多くのことを学んだことであろう。
岡山への学びの旅は二人に裁縫以外にも実りをもたらした。
それがキリスト教だった。
この時期、すでに岡山に宣教師が来ていたのか。
なかなか興味が深いところである。
同志社の創始者新島襄が帰国したのが1874年(1明治7年)
である。
1876年(明治9年)には金森通倫(2月6日号掲載)が受洗
している。彼女たちは、なんらかの形でキリスト教に接触
したのだろう。金森の話を岡山で聴いていたのではない
だろうか。(明治12年には米国宣教師が初めて来岡している)
福西と木村は、明治9年に岡山の裁縫伝道所を卒業して、
高梁の紅工場(二人の帰郷で裁縫所になる)の教師となる。
その後、キリスト教婦人会をつくる。
高梁にも宣教師が訪れ始める頃である。
福西と木村は、岡山で知ったキリスト教を、高梁で学ぶこと
になる。その頃の高梁の話は、留岡幸助(2月9日号掲載)の
自伝にも出てくる。
明治13年のある時、町を歩いて居りますと友達の一人が、
「おい西洋から軍談講釈師が来そうじゃ聴きにいかぬか」と
いうことで聴きにいくと、この講釈師が、神様の前では士族
の魂も町人の魂も同じ値打ちという。いい教えだと思っている
と後でそれがヤソだとわかった。
この宣教師はベリーといい、岡山医学校の講師も勤めている。
週3日の授業で週末の休みが2日あった(※2)。
高梁まで岡山から12里であるから、土曜に終日歩いて高梁
に着き、夜に講義をしていたと思われる。同行した日本人が
金森であった。ベリーは日本語がうまくなく一言だけ話して、
後は金森が継いだという。
その講義の場に福西と木村も居たことは間違いない。
ところで高梁は、キリスト教に厳しい土地柄であった。
藩主の坂倉公の先祖は、遥か昔のことではあるが島原の乱で
討ち死にしており、キリスト教を忌み嫌っていた。
その高梁に、キリスト教婦人会を作ったのだから大変で
ある。二人は教師不適格者として、追い出されてしまう。
そのことにくじける二人ではなかった。
1881年(明治14年)に私立順正女学校を設立する。
高梁教会とのつながりも強く、高梁教会付属女学校という
感じだったと考えられる。この順正女学校こそ、中四国で
初めての女学校という栄誉をになうのである。
高梁教会が設立した年に、3人は同時に受洗している。
1882年(明治15年)のことである。
しかし、教会や順正女学校への妨害は激しく、大きな岩石で
教会が壊されたり、冠婚葬祭への参加は許されず、娘を嫁に
出すこともできなかった。
幸助は迫害のため町を脱出するしかなく、岡山教会を経て、
四国の今治まで逃げている。
高梁に留まった福西と木村は、生徒集めにも苦労するが、
それを伝え聴いた(と思われる)炭谷小梅は、前述のごとく
石井品子(2月20日号掲載)を京都から、岡山に戻し、
すぐさま順正女学校に入学させる。
生徒は中四国から集ったという。もちろん、地元からは
集らないので教会が呼びかけて高梁に送ることになった
のだろう。そうでなければ、キリスト教の女学校が当時の
高梁で育つはずがない。
そして、福西と木村のふたりだからこそ励ましあうことで
乗り切れた。
これを神の導きと、二人は信じたことだろう。
福西は、「順正の父」と呼ばれ、木村は「順正の母」と
呼ばれた。そのような性格だったのだろう。
二人の刺繍が残っているが、福西は「虎」、木村は「花」を
題材にしている。
わかりやすいといえば、本当にわかりやすい。
順正女学校はやがて、順正高等女学校となり、今の高梁高校へ
とつながっていく。
確かな礎となった二人であった。
並大抵の努力ではなかったと思う。
※1山田方谷 幕末の政治家、財政家、教育者。河井継之助が
学んだ藩政改革の師と言われている。
※2山陽新聞120年史による。