岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

【火の玉宣教師】炭谷小梅    石井十次 その31

2005-03-22 11:44:34 | 石井十次
30話を超えた。そこで約束の十次の回りにいた女性に
ついて書いていきたいと思う。

十次は、姉妹に囲まれて育ったことからか、女性に対する
接し方が自然である。このことがまた多くの女性に囲まれる
ことにつながる。
明治の初期は女性にとっても受難期であり、また未来が拓け
ようとする時でもあった。キリスト教に近づいた女性は、
その平等思想に惹かれたようである。

男性においても、平等思想は魅力的だった。留岡幸助も
「すべての人は神の前に平等だ」という説教を聞き、
道を見出している。
当時の教会も現在と同じで、女性の比率が高かった。
家の外の集会や寄り合いで、女性が多いということ自体が
珍しいことである。

また十次の多くの集合写真でも女性の数の方が多い。
これは、この時代には女性が社会進出をする場合に拠り所に
なったのが、キリスト教だったといえるのではないか。
そのことの例として何人かの女性について書いてみたいと思う。

第一に取り上げた女性は「炭谷小梅」である。

炭谷小梅は、岡山野田屋町生まれ 岡山孤児院のあった
同門田屋敷において永眠した。根っからの備前の人だった。
1850年生まれだから十次より15才年上である。
幼少の折、父母に死別、苦労して育ち、芸者になったのち、
中川横太郎※に囲われたが、明治13年受洗し神戸伝道学校で
学ぶ。火の玉のような婦人宣教師である。

半生を書いただけで数奇な運命とわかるが、やがて明治17年
十次の受洗式で十次と知り合い心身両面で支えた。
小梅の強い宗教心は、迷い悩む十次を文字通り叱咤激励し、
米国宣教師であるペティー氏とともに岡山孤児院を導いて
いった。

十次の妻である品子が、信仰に暗いと知るや、修業先である
京都の機織から岡山へ戻し、すぐに備中高梁の順正女学校に
向わせる。そして高梁教会での受洗へと導く。
やがて品子は十次を助けるために岡山に戻ってくるが、
小梅の家から紡績工場へ通い、働きに働いて十次の負債を
返却してしまう。
一方、寄る辺ない十次は、岡山医学校の校長宅に小梅の
勧めで間借りし孤児院の経営を食うや食わずで続ける。
この5年間で、十次と品子は半年の同居しか出来ていない。

小梅は、岡山孤児院だけにかかわったわけではない。
全国を歩き伝道を続ける。
街中でも、車中でも誰彼なく伝道をする。十次はそれを
見習い、今日は車中で、今日はどこそこで伝道したと日誌に
書いている。
また自身の信仰の浅さを小梅に話すことも多く、何かに
悩めば、小梅宅を訪問した。2日と置かずという間隔である。
まさにお姉さんだったのである。
この時期には実の姉2人はすでに死去している。

小梅は座談の名手だったと言われた。その話を一端が、
炭谷小梅姉追懐録に入っている。十次夫婦との交わりが
語られており、当時の有り様が目に浮かぶようである。

この人なかりせば、と思うと彼女の偉大さの一片がわかる
ように思う。


※岡山県史に残る興味深い人物。県政や教育における貢献は
特筆に価いする。岡山城のお堀端に大きな記念碑が、後輩に
よって建てられている。岡山の西郷と呼ばれていたことからも
氏の雰囲気が想像できる。


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