札幌から富良野にバスで移動する場合には、三笠市から
山越えするのが近い。
三笠市は、炭鉱の街として有名だが、空知集治監跡があることでも
知られている。
この街をバスで通過するときには、ガイドさんから、集治監についての
話を聞くことがある。
集治監とは監獄のことである。集治監には1000人以上の受刑者が
収監されていた。この集治監は1882年開設~1901年廃監というから
明治時代の話である。
当時、北海道には多くの労働力を必要としていた。
そのため、受刑者を道路建設や炭鉱の採炭に従事させたが、その労働は
過酷さを極めた。
これはさまざまな資料に書かれている。
ガイドさんからは、あまりに過酷な扱いに教誨師から
監獄側が抗議を受け、以後はそのようなことがなくなったとの説明があった。
が、どうも腑に落ちなかった。
教誨師からの抗議程度で国が簡単に処遇を改めるとは思えない。
この件はおいおい調べていきたい。
(留岡幸助は教誨師の経験から家庭学校の必要性を感じた。
石井十次は、仏教者が関わっていた受刑者の更正にも取り組んだが、
その困難さに本格的に取り組めないままだった)
また懲罰の話も聞いた。
受刑者は看守とともにチームに分けられ、労働を競ったという。
最も作業の遅いチームには懲罰があったという。
ガイドさんは、案内の人にどのような懲罰ですかと聞いた。
「とても口では言えません」というのが返事だったという。
懲罰の恐怖心に突き動かされて、受刑者は命を削っていったのだろう。
北海道には、同じような過酷な労働に、屯田兵(受刑者と同じ検束労働)、
タコ部屋、中国や朝鮮からの強制労働があった。
過酷な労働に気候の厳しさが加わり、死者の数もおびただしかった。
もちろん「塀の中」には人権などなかった。
「塀の中」のことなど、ごく一部の人以外は世間から気にもとめられて
いなかった。
気にも留めない?
なぜか?
なぜ人間を人間として扱わないのか。
日本の「塀の中」の扱いは、いまだに問題視されている。
「塀の中」には多くの障がい者がいるということが今、明らかになってきた。
実はハンセン病患者、中国残留邦人も、「塀の中」にいるのと同じだった。
日本人の、この人々のへ無視または冷酷な扱いはどのような考えによるもの
なのか。いや感情のレベルか。
目に見えなければないことになるのか。
さて、社会福祉の源流を見たいと考えている私にとって、
「塀の中」の社会福祉はどうなっているのかも課題だ。
「塀の中」に社会福祉はなかったのか。
宗教者による取り組みは確かにあった。
教誨師の説教に、自らもキリスト者になって伝道して歩いた元受刑者の方も
いる。
また、仏教徒による関わりも特筆されなければならない。
では他はどうか。
慰問に訪れる人もおられる。
しかし私にはこの点の知識もほとんどない。
もっとも弱者と思わなくてはならない人々にどんな「社会福祉」が
あったのだろうか。
この社会福祉の源流も探していきたい。
山越えするのが近い。
三笠市は、炭鉱の街として有名だが、空知集治監跡があることでも
知られている。
この街をバスで通過するときには、ガイドさんから、集治監についての
話を聞くことがある。
集治監とは監獄のことである。集治監には1000人以上の受刑者が
収監されていた。この集治監は1882年開設~1901年廃監というから
明治時代の話である。
当時、北海道には多くの労働力を必要としていた。
そのため、受刑者を道路建設や炭鉱の採炭に従事させたが、その労働は
過酷さを極めた。
これはさまざまな資料に書かれている。
ガイドさんからは、あまりに過酷な扱いに教誨師から
監獄側が抗議を受け、以後はそのようなことがなくなったとの説明があった。
が、どうも腑に落ちなかった。
教誨師からの抗議程度で国が簡単に処遇を改めるとは思えない。
この件はおいおい調べていきたい。
(留岡幸助は教誨師の経験から家庭学校の必要性を感じた。
石井十次は、仏教者が関わっていた受刑者の更正にも取り組んだが、
その困難さに本格的に取り組めないままだった)
また懲罰の話も聞いた。
受刑者は看守とともにチームに分けられ、労働を競ったという。
最も作業の遅いチームには懲罰があったという。
ガイドさんは、案内の人にどのような懲罰ですかと聞いた。
「とても口では言えません」というのが返事だったという。
懲罰の恐怖心に突き動かされて、受刑者は命を削っていったのだろう。
北海道には、同じような過酷な労働に、屯田兵(受刑者と同じ検束労働)、
タコ部屋、中国や朝鮮からの強制労働があった。
過酷な労働に気候の厳しさが加わり、死者の数もおびただしかった。
もちろん「塀の中」には人権などなかった。
「塀の中」のことなど、ごく一部の人以外は世間から気にもとめられて
いなかった。
気にも留めない?
なぜか?
なぜ人間を人間として扱わないのか。
日本の「塀の中」の扱いは、いまだに問題視されている。
「塀の中」には多くの障がい者がいるということが今、明らかになってきた。
実はハンセン病患者、中国残留邦人も、「塀の中」にいるのと同じだった。
日本人の、この人々のへ無視または冷酷な扱いはどのような考えによるもの
なのか。いや感情のレベルか。
目に見えなければないことになるのか。
さて、社会福祉の源流を見たいと考えている私にとって、
「塀の中」の社会福祉はどうなっているのかも課題だ。
「塀の中」に社会福祉はなかったのか。
宗教者による取り組みは確かにあった。
教誨師の説教に、自らもキリスト者になって伝道して歩いた元受刑者の方も
いる。
また、仏教徒による関わりも特筆されなければならない。
では他はどうか。
慰問に訪れる人もおられる。
しかし私にはこの点の知識もほとんどない。
もっとも弱者と思わなくてはならない人々にどんな「社会福祉」が
あったのだろうか。
この社会福祉の源流も探していきたい。
札幌から北へJRで1時間のところに
当別という町がある。
そこから北へ2駅くらい行くと
「月形」につく。
そこに「空知」と同じ趣旨の監獄があり
いまは当時の面影を残した博物館として公開されている。
そのことがあって
懐かしく拝読しました。
当時、月形の方へは、
2度訪問した。
明治の頃の監獄の体系が説明されてあった。
司馬遼太郎の紀行にも
この月形の監獄跡のことが書いてありました。
玄関の石の台が囚人たちの何万回かの足の重さで磨り減っていることを司馬さんは書いている。
ぜひ見学したいと思っていました。
私も司馬遼太郎の「北海道の諸道」を読みました。資料を読んでいるときにこの本が書棚にあることに気がつきました。
さすがに文章がうまくて引き込まれてしまいました。
北海道はじっくりと回りたいなと思っていますが。
「廃仏毀釈」について調べていますが、鹿児島の徹底ぶりは斉彬公の指示のようですね。
まさにテレビドラマと重なって、興味深いと思います。