では、具体的に幻燈を購入し音楽幻燈隊が巡業していった行程を
書いていくことにしよう。
1898年(明治31)というから、「日向巡業」の次の年1月末に
幻燈機が手に入っている。この資金も米国からの寄付が中心
らしい。本当に米国にはお世話になります。
さて、巡業が出発するのが、幻燈が手に入って1週間後、
2月5日である。
すでに写真等は集っていたのだろう。まことに段取がはやい。
一緒に作業を進めていた職員は、目の回る忙しさだったと思う。
2月5日、尾道へ向う(鉄道利用)
続いて、船便で愛媛県に渡り、徒歩で高知県まで回る。
当時、鉄道は開通していない。32町村を3ヶ月かけたという。
これは当時、当該地域では相当評判になったであろう。
鉄道もない時代である。行く町や村では、うわさを聞いた人々
が出迎えていたことだろう。
私は巡業といっても、事前に会場の準備などに先発隊を送る
こともかなわぬだろうから、街角や路地などでもやっていた
のだろう。幻燈は夜になれば屋外でも可能だ。ニューシネマ
パラダイスでもそんなシーンがあった。
日本もついこの前まで、学校の校庭で映画会をやっていた
ものだ。それをイメージすればよいのだろう、と思っていた。
ところが、現実はちがっていた。
「職員が事前に出向いた。当初は、キリスト教関係者に協力を
依頼して回ったが、やがて地元の有力者、行政関係者、地元の
新聞社の協力を仰いだ」という、現在のキャンペーンの仕方と
ほぼ同じである。※
これは巡業が進むに従い、巡業の事前準備と巡業内容の技術が
レベルアップしていった結果だと思う。
十次を追っていくと、朝令暮改ということばが浮かぶ。
よいアイデアはどんどん獲り入れ、改良していく企画マンと
しても、当時、群を抜いていたはずである。
この十次を、これから登場する大原孫三郎は、
「十次の事業は、事業の体をなしていない」
といったらしい。
一番、身近な人がいったのだからそうなのだろう。
それでもなお、21世紀の今からの視点で再検討するに値する
ことだと思う。
音楽幻燈隊は大評判になった。四国巡業に続き、5月末から
2ヶ月半をかけて日本海側を回っている。この年の「巡業」は
100回近くに上ったという。交通手段や設備の充実した今日
でも年間100日興行はなかなかできるものではない。
また、日本人がいかに「新しいもの好き」だったかがわかる。
大昔からずーと本当に新しいものが好きだ。好奇心いっぱい
だった。
「新しいものが好きだ日本人史」なんていうのもテーマに
なりそうだ。
※前述の共栄学園短期大学の菊池義昭助教授による資料から
「岡山孤児院物語」に引用されている。
書いていくことにしよう。
1898年(明治31)というから、「日向巡業」の次の年1月末に
幻燈機が手に入っている。この資金も米国からの寄付が中心
らしい。本当に米国にはお世話になります。
さて、巡業が出発するのが、幻燈が手に入って1週間後、
2月5日である。
すでに写真等は集っていたのだろう。まことに段取がはやい。
一緒に作業を進めていた職員は、目の回る忙しさだったと思う。
2月5日、尾道へ向う(鉄道利用)
続いて、船便で愛媛県に渡り、徒歩で高知県まで回る。
当時、鉄道は開通していない。32町村を3ヶ月かけたという。
これは当時、当該地域では相当評判になったであろう。
鉄道もない時代である。行く町や村では、うわさを聞いた人々
が出迎えていたことだろう。
私は巡業といっても、事前に会場の準備などに先発隊を送る
こともかなわぬだろうから、街角や路地などでもやっていた
のだろう。幻燈は夜になれば屋外でも可能だ。ニューシネマ
パラダイスでもそんなシーンがあった。
日本もついこの前まで、学校の校庭で映画会をやっていた
ものだ。それをイメージすればよいのだろう、と思っていた。
ところが、現実はちがっていた。
「職員が事前に出向いた。当初は、キリスト教関係者に協力を
依頼して回ったが、やがて地元の有力者、行政関係者、地元の
新聞社の協力を仰いだ」という、現在のキャンペーンの仕方と
ほぼ同じである。※
これは巡業が進むに従い、巡業の事前準備と巡業内容の技術が
レベルアップしていった結果だと思う。
十次を追っていくと、朝令暮改ということばが浮かぶ。
よいアイデアはどんどん獲り入れ、改良していく企画マンと
しても、当時、群を抜いていたはずである。
この十次を、これから登場する大原孫三郎は、
「十次の事業は、事業の体をなしていない」
といったらしい。
一番、身近な人がいったのだからそうなのだろう。
それでもなお、21世紀の今からの視点で再検討するに値する
ことだと思う。
音楽幻燈隊は大評判になった。四国巡業に続き、5月末から
2ヶ月半をかけて日本海側を回っている。この年の「巡業」は
100回近くに上ったという。交通手段や設備の充実した今日
でも年間100日興行はなかなかできるものではない。
また、日本人がいかに「新しいもの好き」だったかがわかる。
大昔からずーと本当に新しいものが好きだ。好奇心いっぱい
だった。
「新しいものが好きだ日本人史」なんていうのもテーマに
なりそうだ。
※前述の共栄学園短期大学の菊池義昭助教授による資料から
「岡山孤児院物語」に引用されている。