岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

ブログ上で、勉強会のレジュメの構成を考えてみる。やや長文です。

2010-07-10 12:26:09 | 地域包括支援センター


岡山の社会福祉史で取り上げてみたいと思っているのは、まず明治期です。
それ以前の社会福祉史を語る知識は私にはないことと、
明治以来の社会福祉の流れはそれまでと全く違った形で発展していったこと、が明治を語りたい理由です。

しかし幕末における岡山各藩の動向が、明治期の社会福祉の流れに大きな影響を与えたことも確かです。
ご存じのような岡山は幕藩時代には、備前、備中、美作の3藩に分かれていました。
備前は岡山、備中は高梁、美作は津山が藩主の城下町です。

幕末には、備前岡山藩は官軍でしたが、備中高梁藩は藩主が老中職に就いていたため幕軍です。
そのため、明治に入ってから、勝ち組の岡山市が優遇されることになります。
例えば学校の認可などは岡山や津山が優先されます。
高梁は最後に認可されます。
明らかに差別がありました。

このことが社会福祉の歴史にも少なからぬ影響を与えます。
それは当時の有為な青年たちの立身出世の目指し方に現れます。

幕軍=賊軍に属した人々の子弟は、「末は大臣か、大将か」という出世の道は閉ざされました。
東北の若者や西南の役に敗れた南九州の若者は苦悩します。

では彼らはどのようにして身を立てようとしたか。

典型的な例が石井十次です。
石井十次は、宮崎高鍋の下級武士の子です。
西南戦争で賊軍となります。
「末は大臣か、大将か」という出世の道は閉ざされました。
そして目指したのは医師です。

当時、医学校があったのは岡山だったのです。
そこで彼は船で岡山を目指します。

もちろん身寄りはいませんから岡山での寄宿先が必要です。
転がり込んだ先はカソリックの教会です。
教会は受洗を条件に受け入れたようです。

当時、医学もキリスト教も最先端の知識でした。
医学やキリスト教という最先端の知識や情報を吸収することは
「敗れた人々の子弟」が関わることのできる数少ない出世の道だったと思われます。

さて、西洋医学とキリスト教ですが、同時に岡山の持ち込まれます。
アメリカの伝道団体「アメリカンボード」が拠点のある関西から西進するための街として岡山を選び、
宣教師を岡山に送ったのです。
その中に医師も含まれ、岡山に西洋医学が持ち込まれます。
今の岡山大学医学部の前身にあたる医学校に西洋医学を教授したのは宣教師でした。

その宣教師は岡山市だけにとどまらず、市外にも医療活動と布教を進めます。

その典型的な例が高梁です。
宣教師は医療活動と布教に高梁を訪れるようになるのですが、その受け入れ先として、女性が活躍します。
この「新しい女性たち」は、明治初年に岡山に遊学し、裁縫などの技術の習得をしています。
その岡山での生活の中で、キリスト教会に通うようになります。
当時の教会員の写真をみると女性が圧倒的です。
キリスト教は、「神の前では人は平等」という思想ですから、当時の女性には大変魅力的だったことでしょう。

そして、高梁に帰った彼女が学校を創設して行くことになります。
ここに教会と教育がひとつになって進んでいきます。
高梁教会と順正女学校です。

この高梁から生まれた社会事業家が留岡幸助です。
彼は二重の差別を受けることになります。
まず士族からの差別、そしてキリスト教徒としての差別。
高梁でのキリスト教の興隆は人々の反感を買うこととなり、日本キリスト教史に残る迫害を受けます。
留岡幸助も高梁に住むことができなくなります。

結果的には、この迫害が後の留岡幸助をつくることになるのです。

岡山4聖人という言葉があります。

石井十次、留岡幸助、山室軍平、ぺティ・アリス・アダムスの4人です。
石井十次の岡山孤児院
留岡幸助の家庭学校(感化教育)
山室軍平の救世軍(禁酒、娼妓自由廃業)
ぺティ・アリス・アダムス(セツルメント)
と救済事業の内容は異なりますが、このことが多彩なネットワーク形成に繋がります。

岡山県に住む社会福祉に携わる人間として
この4人を核としたネットワークを学ぶことが、どれだけ「心の糧」になるかわかりません。

※写真はノートルダム聖心大学。学校の前身は明治19年に遡りますが、
ノートルダム修道院の修道女が運営に関わるのは大正末期です。
理念的な意味での開学はこの時期と思われます。

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
早く続きが読みたいです (Maa-chan)
2010-07-11 00:59:13
 岡山4聖人(そこに済世顧問制度を含め)については,「社会福祉原論」というあたりで学習する「基礎的」な部分ですが,実はそのあたりを私たちソーシャルワーカーは知らなすぎるのではないか,と思っています。

 石井十次の「岡山孤児院12則」であったり,留岡幸助の「流汗鍛錬」や夫婦小舎等,もう一度きちんと学ぶことはソーシャルワークの「倫理や価値」を考えていく上でも大切なことのように思えてなりません。

 続きを楽しみにしています。
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近代岡山県社会事業史 (岩清水)
2010-07-11 08:26:26
Maa-chanさん
コメントありがとうございます。
実は岡山県全体の大まかな社会事業史の
把握できていない部分が多いのです。
参考文献としては、「近代岡山県社会事業史」
守屋茂 昭和35年刊に尽きます。
県立図書館でも他によい文献は見当たらなかったですね。
860ページにおよぶ大著ですが、少しずつ読みたいと思います。
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