岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

【濃尾大震災】孤児救済と財政① 石井十次 その九

2005-02-14 09:43:28 | 石井十次
☆今週は旅にでます。で、土曜まで更新できません。
岡山に寄れたらと思っています。ちょっと資料不足です。
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私はこの文章を書くために年表として、講談社の「日本全史」を
使っている。
ページ数は1270ページで、1ページ4段A4変形サイズである。
明治時代だけで100ページになる。大変な量であるが、
社会福祉関係で何ページになるか、調べてみた。
小さな記事ばかりで、ページ換算で1.1ページとなった。
全体の1%強ということか。明治期の社会福祉を知るということ
の困難さがわかるというものだ。

さて、十次の濃尾大震災での活動を書き進めよう。
前回、十次のすばやい行動を書いたが、それを支える人材と
資金が必要である。人材については書き進めてきているが、
資金はどのように集めていたのだろうか。
実は岡山孤児院の財政について、詳しく研究されている人が
いる。共栄学園短期大学の菊池義昭助教授である。
参考にさせていただいた数字は多い。

ところで、岡山孤児院の財政は、ほとんど寄付によって
成り立っていることは前にも書いたが、寄付の集る前の段階で
は、若き十次夫婦が、夜を徹して働き、それでも増え続ける
借金に耐えていたということを知っておく必要がある。
そのような状況を見聞きした地元の人々、教会関係の人々が
支援の輪を広げるのである。

支援者の名前を挙げれば、大変な数となる。煩雑になるので、
2名のみ書いておきたい。
安部磯雄:岡山教会2代目牧師、同志社で新島襄より洗礼を
受ける。野球界にも貢献。早慶戦の生みの親。のちに
社会主義者として名を残す。
ジェイムス・ペティー:27歳で岡山に宣教のために訪れる。
以来30年を岡山で過ごす、十次のよき理解者。
十次のとって「世界への扉」の役割を果たしたと思われる。

この二人は、結果的ではあるが、十次の社会事業の広報を
担当したことになる。十次の事業を知った人々は、
自分たちにできる唯一のことが寄付であることを理解していた。
特に、ペティーの祖国である米国は、共助の考えがチャリティ
に生きており、寄付は社会的義務といってもよかった。
ペティーは、所属するアメリカン・ボート(布教団体)の
機関紙を通じて国内外の欧米人に岡山孤児院の存在とそ
の意義を知らしめた。
安部は、日本人に「基督教新聞」を使って十次の事業を伝えた。

1889年(明治22)の11月には、150円(月当り)の金額に
なっている。これは米3000kg(1円=20kg)分にあたる。
大変な金額である。
この内、半分は国外からの寄付である。ネットワークができて
いたにちがいない。

まだ、濃尾大震災前ながら、孤児は100名。有給職員は8名と
なっていた。孤児院設立から2年後のことである。
明らかに、社会的要請があったといえるだろう。

1891年(明治22)、濃尾大震災が起きると、救済活動をはじめ、
孤児の救援、移送、収容と莫大は経費がかかったと思われる。
また、名古屋の孤児院を維持することにも資金が必要だった。
十次は、この事態にいかに対応していったのか。
現在なら、国家の責任においてなされるべき事業を一個人を
中心に、市井の人だけで進めているのである。
本当にすごいことをしていると思う。



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