
他者を傷つけるということに関しても考えなくてはならない。
このことは、もちろん許されないことである。
それでも、人は他者を傷つける。
そして、そのことが正当化されることはまずない。
他者を傷つけたものの多く(一部例外はある)は、意識,無意識の違いはあるが
悔やむ日々を送っている。
当然、自己正当化はできるものではない。
では他者を傷つけるということを正当化されることがあるのか。
ご存知のように数多くある。
ほとんどの場合は、国家権力(法)からの要請だ。
その場合には壁(心理的抵抗)が低くなる。
例えば、職業でいえば軍人。死刑執行の刑務官(今の法務大臣の下では大変だろう)。
警察官。間接的だが裁判官。そして裁判員。
(裁判員制度では、私自身が他者を間接的に傷つける可能性がある)
軍隊では、人々を殺傷することが任務の中にある。
そこでは、本来人間にあるはずである殺人抑制の高い壁がなくなっている。
ただ単に命令されるから他者を攻撃できるかといえば、無理がある。
法の力だけでは、人は自らを正当化できない。
そのために「正義」という言葉が利用される。
しかし当事者である人間の内面では、「正義」とはいえ、人間の本性に反する行為
が受け入れられないはずだ。
元裁判官が自らの判決に生涯悩んでいるとも聞く。真摯な裁判官なら当然だろう。
戦争から帰ってきた人々が、今もなお当時の行為を語り始める。
60年間口を閉ざしていた自らの体験を赤裸々に語る。
正当化された殺人も、許されるざる行為だったと。
「正義」としても他者を傷つけてしまえば、加害者の内面は苦悩から免れることは
ないと思わなくてはならない。
秋葉原事件の加害者が、これから自らの犯行を反省することになるだろうが、
そこには、本来彼が持っているはずの利他愛の後押しがあるはずだ。
しかし、そのようにならないかもしれない。
反省しないケースも現実にある。
なぜ、反省しないか。
これは、さまざまな原因が考えられる。
このことを考えていくことは、人間の脳の器質にも関わってくることなので
今の私には手に負えない。
例えば、池田小事件。T死刑囚は今は刑場の露となっているが、判決当時、
彼の精神鑑定について新聞に掲載されていた。
鑑定人自身が、「鑑定できない」とお手あげ状態だった。
しかし人格障害であり事件当時には精神障害はなかったと書いてあった。
Tの口からは、最後まで被害者や遺族への謝罪のことばはなかった。
それは、謝罪の意味がわからないことでもあっただろう。
Tには、脳に器質的な変異があったのではないかという意見もある。
日本では、精神鑑定の採用も裁判官の裁量といってもいい。
最近も鑑定を否定していた判決があった。
このあたりのことも裁判員制度になると危惧されることである。
裁判員に精神鑑定ということが、きちんと理解できるのだろうかと。
もちろん、私にその自信はない。
写真はアジサイぽくないアジサイです。
このことは、もちろん許されないことである。
それでも、人は他者を傷つける。
そして、そのことが正当化されることはまずない。
他者を傷つけたものの多く(一部例外はある)は、意識,無意識の違いはあるが
悔やむ日々を送っている。
当然、自己正当化はできるものではない。
では他者を傷つけるということを正当化されることがあるのか。
ご存知のように数多くある。
ほとんどの場合は、国家権力(法)からの要請だ。
その場合には壁(心理的抵抗)が低くなる。
例えば、職業でいえば軍人。死刑執行の刑務官(今の法務大臣の下では大変だろう)。
警察官。間接的だが裁判官。そして裁判員。
(裁判員制度では、私自身が他者を間接的に傷つける可能性がある)
軍隊では、人々を殺傷することが任務の中にある。
そこでは、本来人間にあるはずである殺人抑制の高い壁がなくなっている。
ただ単に命令されるから他者を攻撃できるかといえば、無理がある。
法の力だけでは、人は自らを正当化できない。
そのために「正義」という言葉が利用される。
しかし当事者である人間の内面では、「正義」とはいえ、人間の本性に反する行為
が受け入れられないはずだ。
元裁判官が自らの判決に生涯悩んでいるとも聞く。真摯な裁判官なら当然だろう。
戦争から帰ってきた人々が、今もなお当時の行為を語り始める。
60年間口を閉ざしていた自らの体験を赤裸々に語る。
正当化された殺人も、許されるざる行為だったと。
「正義」としても他者を傷つけてしまえば、加害者の内面は苦悩から免れることは
ないと思わなくてはならない。
秋葉原事件の加害者が、これから自らの犯行を反省することになるだろうが、
そこには、本来彼が持っているはずの利他愛の後押しがあるはずだ。
しかし、そのようにならないかもしれない。
反省しないケースも現実にある。
なぜ、反省しないか。
これは、さまざまな原因が考えられる。
このことを考えていくことは、人間の脳の器質にも関わってくることなので
今の私には手に負えない。
例えば、池田小事件。T死刑囚は今は刑場の露となっているが、判決当時、
彼の精神鑑定について新聞に掲載されていた。
鑑定人自身が、「鑑定できない」とお手あげ状態だった。
しかし人格障害であり事件当時には精神障害はなかったと書いてあった。
Tの口からは、最後まで被害者や遺族への謝罪のことばはなかった。
それは、謝罪の意味がわからないことでもあっただろう。
Tには、脳に器質的な変異があったのではないかという意見もある。
日本では、精神鑑定の採用も裁判官の裁量といってもいい。
最近も鑑定を否定していた判決があった。
このあたりのことも裁判員制度になると危惧されることである。
裁判員に精神鑑定ということが、きちんと理解できるのだろうかと。
もちろん、私にその自信はない。
写真はアジサイぽくないアジサイです。
正当化はできないでしょうが、有罪にもできない、という事件は多いとおもいます。
秋葉原事件については、わたしが裁判員ならば、加藤容疑者は現時点では無罪とします。せいぜい、懲役数年(強制労働)、執行猶予付きです。
コメントありがとうございます。
これからは、「もし私が裁判員なら」という
問いかけが私たちに科せられますね。
現時点の判決も私にはできません。
新たな「重み」を背負ったと思っています。
6月11日、貴ブログでは
「沈黙してはならない」と書かれた。
その後、
6/13 6/13(2度目)6/14 6/18 そしてこの6/21
と、記事は続き
古井戸氏のコメントがあった。
一つの事柄を
つきつめて考え抜く強靭な思考力というか精神性に感服しつつ
私も毎回拝読しつつ重い事件として受けとめました。私も答えを持っていないです。
*古井戸氏に近いです。
かっては有為な青年であっただろう一人の人間の能力を社会を育てることに失敗した
と受けとめてもいます。
加藤博史『福祉哲学』は、
悪戦苦闘中ですが
この問題への貴ブログの受けとめ方の深さを思うと
私もいたずらにその論理(の難解さ)を問うのではなく、その底に広がる思想と格闘すべきだと
今になって自省しています。
先生の真摯な姿勢に、毎回、感服しております。私も日々親との葛藤や社会問題に向き合いながら、心の支えを探しているように思います。先人の思想を学ぶときには、自分自身に対する励まし探しがあるようにも思います。加藤先生の文章には、ご自身への支えとともに日本の社会福祉の思想的支えを確立したいという意思が感じられます。研究者がお互いに切磋琢磨し、多様な目的のために尽くす姿勢は尊いと思います。これからもよろしくお願いします。