昨日は「芸能」について書いていたが、
その代表であるみのもんたについて書こう。
みのもんたこそテレビの申し子と言っても差支えがない。
昼の番組から朝の番組に進出して政治家との会話が増えている。
ズバッというのだが政治はそうはいかないものだ。
強く言って「どう?」というのは愛嬌ですむのか。
みのもんたの特技がシールはがしなのはだれでも知っているが、
これが意外と難しい。
あと人生相談しかり。間と話術には長けている。
もちろんそれが芸人たる所以だが、これが受けるのなら
小泉も同様だ。
この辺りも見ておく必要があるが、後継者にそのような芸はないから
あまり深く考えなくてもいいのだろう。
もちろん、だれでも政治を語るのは悪いことではない。
政治に興味を持つことも悪いことではない。
逆に利点も多くなっている。政治が身近になった。
みのもんたも小泉と変わらないのだ。
これは政治の芸能化には違いない。
しかし政治は人の命のやり取りをする場でもある。
そのことと「芸能」との関係はどうなのか。
政治が「芸能化」するとなにが起こるのか。
何を得て、何を失うのか。
人生すべて芸能さ、という人生観もあるだろう。
しかし決定的に違うのは、「芸能」は面白い。
「政治」はややこしい。
どう考えても面白くない。
面白くない上に「命のやりとり」までする。
この「政治」をどのように取り入れるかという点で
テレビ局は、小泉と同じく「シンプル」な言葉と
行動で面白おかしく作ってみた。
それが意外とうまくいく。
少しハイカラにいうとショーにした。
そう小泉は彼の性格そのままに政治をショーにした。
それもアメリカ的だ。
そしてテレビの力とテレビの芸能を手にした。
そしてみのもんたである。
この芸能そのものの男は、芸能の切り口を使い、テレビ界を
牛耳っている。人生後期に際立ってきている。
これは芸人には珍しいタイプだ。
そう政治家と近い。
テレビもそれだけ年輪を重ねてきたともいえる。
小泉政治も終わるが、みのもんたには退陣はない。
これから長く残り続ければ、後世に影響を残すのは
みのもんたかも知れない。
ならば2週間といわず休息をとればいい。
その代表であるみのもんたについて書こう。
みのもんたこそテレビの申し子と言っても差支えがない。
昼の番組から朝の番組に進出して政治家との会話が増えている。
ズバッというのだが政治はそうはいかないものだ。
強く言って「どう?」というのは愛嬌ですむのか。
みのもんたの特技がシールはがしなのはだれでも知っているが、
これが意外と難しい。
あと人生相談しかり。間と話術には長けている。
もちろんそれが芸人たる所以だが、これが受けるのなら
小泉も同様だ。
この辺りも見ておく必要があるが、後継者にそのような芸はないから
あまり深く考えなくてもいいのだろう。
もちろん、だれでも政治を語るのは悪いことではない。
政治に興味を持つことも悪いことではない。
逆に利点も多くなっている。政治が身近になった。
みのもんたも小泉と変わらないのだ。
これは政治の芸能化には違いない。
しかし政治は人の命のやり取りをする場でもある。
そのことと「芸能」との関係はどうなのか。
政治が「芸能化」するとなにが起こるのか。
何を得て、何を失うのか。
人生すべて芸能さ、という人生観もあるだろう。
しかし決定的に違うのは、「芸能」は面白い。
「政治」はややこしい。
どう考えても面白くない。
面白くない上に「命のやりとり」までする。
この「政治」をどのように取り入れるかという点で
テレビ局は、小泉と同じく「シンプル」な言葉と
行動で面白おかしく作ってみた。
それが意外とうまくいく。
少しハイカラにいうとショーにした。
そう小泉は彼の性格そのままに政治をショーにした。
それもアメリカ的だ。
そしてテレビの力とテレビの芸能を手にした。
そしてみのもんたである。
この芸能そのものの男は、芸能の切り口を使い、テレビ界を
牛耳っている。人生後期に際立ってきている。
これは芸人には珍しいタイプだ。
そう政治家と近い。
テレビもそれだけ年輪を重ねてきたともいえる。
小泉政治も終わるが、みのもんたには退陣はない。
これから長く残り続ければ、後世に影響を残すのは
みのもんたかも知れない。
ならば2週間といわず休息をとればいい。