北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

一丁目一番地

2005-12-26 23:25:32 | Weblog
 道内は各地で暴風雪が吹き荒れています。山形ではJRの事故もあって大変です。関係者の皆さんの活躍に敬意を表します。

 今日は
■我々のビジョン です

【我々のビジョン】
 道内もJRのダイヤが乱れて運休が相次ぎ、職場の同僚も出張ができなかった。まったく一度荒れ狂うと、大いなる自然の前に人間の力などは無力なことを感じさせる。

 しかし日本の自然の良いところは、雨が降っても必ず晴れ、晴れていても必ず雨が降ることだ。「万物は流転する」と古代ギリシャの哲学者は言ったけれど、同じ状態はいつまでも続かないものだ。

 そうして人間は、あるときは自然の力に逆らうような社会を作り上げ、もし自然が人間社会を破壊するようなことがあればまた黙々とした作業を続けていつの間にか元に戻してしまうのだ。

 物の有様が変わらない状態を「平衡状態」と言うのだが、前者の「押しても引いても変わらない」という状態は静的平衡と呼ばれ、後者の「一旦変わってもまた元に戻る」という状態は動的平衡と呼ばれ、区別されるべき事柄だ。

 社会の秩序は誰かの力によってこっそり保たれている。それはお掃除のおばちゃんだったり、増水の時に寝ないで堤防を見回っている建設業の人達や消防団の青年だったりするのである。

    ※    ※    ※    ※

 我々が人間の社会に生きるということは、一定の秩序のなかにいることを善と考えるということだと思う。日本人は良く自然の風情を好むと思われているが、そのことと秩序を大切にしないこととは明らかに違う。

 考えてみれば、北海道の開発ということは明治以来様々な時代の要請に応える形で未開の原野に人間の力を加えて人間の秩序を拡大し続けてきた歴史なのだ。農業にしてもダムにしても道路にしても川の整備にしても、一人では何も出来ない人間が集まって力を合わせて少しずつ少しずつ形を変えてきた歴史の積み重ねなのだ。

 我が組織はそのような自然に手を入れることを仕事として存在してきたのであって、私は我々のビジョンは、社会を先人よりも少しずつ良い「秩序あるもの」として作り上げ、できあがったものは秩序ある状態に管理し続けることだと思うのだ。

 ビジョンを共有できているということは、この「手をかける」ということにある種の美学を感じることなのではなかろうか。

 今日上司が中国出張から帰ってきて土産話を聞かせてくれた。「中国の都市部では確かに凄まじい勢いで道路を中心に社会インフラができあがっているが、中国社会には良好にメンテナンスをするという気持ちがあまり感じられない」ということだった。作ったものに愛情を込めて手をかけるという気持ちが薄い社会の未来は決して明るいとは言えないだろう。

 我々自身も、恩恵を受けている身の回りのインフラに感謝をしつつ手をかけて手入れをするという気持ちを持つことが背筋の伸びた組織人としての誇りの様に思う。だからこそ、家の回りの雪かきや手入れを面倒に思うような集団になっちゃあいかんのだ、と考えるのは私だけだろうか。

 我々の一丁目一番地(もっとも大事な事柄)は何なのだと思いますか。
コメント (2)
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