昨夜のことですが、地元の湿原塾という勉強会で話題提供をする機会がありました。
この湿原塾というのは、東大名誉教授の月尾嘉男先生が来釧されるときに集まっては勉強をする会とのことでしたが、年に数回集まって、やはり誰かに話題提供をしてもらっているのだとか。
私が話をするというので、なかには「それでは釧路市の財政ひっ迫状況を説明するのではないか」と思った方もいらしたようで、まあそれでも良かったのですが、今日の演題は「心に火をつけるまちづくり」として、副題は「報徳と生涯学習まちづくり」としました。
日常の中にはさまざまな講演会があって、聴けばなるほど、と思うことも多いし、良い話を聴くことでやるべきことはわかっているはずなのに…
なぜ組織は活性化しないのか?
なぜわがまちは元気にならないのか?
なぜ参加者は増えないのか?
なぜ皆やる気が出ないのか?
なぜわがまちには優れたリーダーが現れて助けてくれないのか…?
ヒントは「誰が西郷隆盛を英雄として育てたか?」という問い。
この問いの答えは、「誰も西郷隆盛を英雄として育ててはいない」ということで、西郷隆盛がある瞬間に(自分がやらなくては)と覚悟を決めたということであるはず。
なにかをきっかけとして、覚悟を決める、迷いを捨てるというように心に火が付いた者だけが英雄となる資格がある、というわけです。
※ ※ ※ ※ ※
しかし簡単に人の心に火は着くものではありません。叱咤激励の言葉だけが空しく響きます。
かつて、そんな白けて荒れてしまった人々を相手に救済のまちづくりをしてことごとく成功させたい人が日本にはいます。それが江戸末期に活躍した二宮尊徳であるわけです。
二宮尊徳は、極貧の百姓として現在の小田原に生まれ、15歳にして両親を亡くして一家離散の憂き目にあいますが、そこから一念発起をして小田原藩で武家の財政を立て直し藩主に認められてゆきました。
そして現在の宇都宮市である桜町領へ復興のために派遣されました。
そこで彼は飢饉と年貢の取り立てに絶望し、すっかり荒れ果ててしまった村民を目の当たりにします。
尊徳先生は、「わが道は荒蕪を開くのを務めとするものだが、その荒蕪にはいくつかの種類がある」と言います。
そして、「だれも手入れをせず荒れ果ててしまった田畑よりも、絶望しやる気をなくし猜疑心といさかいに満ちた、荒れ果てた心こそが一番の損失である」と悟り、この心の荒蕪を開くことこそ自分の道なのだ、と悟ります。
【率先回村】
そのための手段として尊徳先生は率先して「回村」を行いました。
回村とは文字通り村々を見て回ること。それも深夜や未明に村里を巡回しました。叱るでもなく戒めるでもなく、良し悪しや勤惰をいうことを避けて、ただひたすら巡回を続けたのです。
するとやがてそれに気が付くものが出てきて、村民の間に戒めやうかうかしていられないぞという気持ちが生じてきて、やがていさかいの声が聞こえなくなった、と言います。
つまりリーダーとして率先して現場を見て回り、「見ているぞ」という姿を示し続けることで、一人一人の心の中で(これでいいのか)という自問自答が発せられ、それがやがてやらねば、という気持ちに変化をさせていくきっかけになったのです。
リーダーというものは他人任せにせず、自分自身の目で現場を見て回り最前線で辛い思いをしている人たちにその姿を見せて、「気にかけているよ」という姿勢を見せなくてはいけないということ。
そしてそうしなければ、現場の人たちの心は荒れ果ててゆくし、口先だけではそれを止めることはできないという真理がここにはあるのです。
【以徳報徳】
尊徳先生のやり方は、藩主忠真候によって「そちのやり方は論語にいう『以徳報徳』、徳をもって徳に報いるというものであるな」と称賛され、以来自分の道を「報徳仕法」と呼ぶようになったと伝えられています。
意気に感じるということもあって、日本人には通じやすいやり方であるのかもしれません。
現場を見ることがいかに大事かが分かるお話でもあります。今の政権の皆さんは現場を見てくれているのかな。その姿勢が問われているんだけど。
この湿原塾というのは、東大名誉教授の月尾嘉男先生が来釧されるときに集まっては勉強をする会とのことでしたが、年に数回集まって、やはり誰かに話題提供をしてもらっているのだとか。
私が話をするというので、なかには「それでは釧路市の財政ひっ迫状況を説明するのではないか」と思った方もいらしたようで、まあそれでも良かったのですが、今日の演題は「心に火をつけるまちづくり」として、副題は「報徳と生涯学習まちづくり」としました。
日常の中にはさまざまな講演会があって、聴けばなるほど、と思うことも多いし、良い話を聴くことでやるべきことはわかっているはずなのに…
なぜ組織は活性化しないのか?
なぜわがまちは元気にならないのか?
なぜ参加者は増えないのか?
なぜ皆やる気が出ないのか?
なぜわがまちには優れたリーダーが現れて助けてくれないのか…?
ヒントは「誰が西郷隆盛を英雄として育てたか?」という問い。
この問いの答えは、「誰も西郷隆盛を英雄として育ててはいない」ということで、西郷隆盛がある瞬間に(自分がやらなくては)と覚悟を決めたということであるはず。
なにかをきっかけとして、覚悟を決める、迷いを捨てるというように心に火が付いた者だけが英雄となる資格がある、というわけです。
※ ※ ※ ※ ※
しかし簡単に人の心に火は着くものではありません。叱咤激励の言葉だけが空しく響きます。
かつて、そんな白けて荒れてしまった人々を相手に救済のまちづくりをしてことごとく成功させたい人が日本にはいます。それが江戸末期に活躍した二宮尊徳であるわけです。
二宮尊徳は、極貧の百姓として現在の小田原に生まれ、15歳にして両親を亡くして一家離散の憂き目にあいますが、そこから一念発起をして小田原藩で武家の財政を立て直し藩主に認められてゆきました。
そして現在の宇都宮市である桜町領へ復興のために派遣されました。
そこで彼は飢饉と年貢の取り立てに絶望し、すっかり荒れ果ててしまった村民を目の当たりにします。
尊徳先生は、「わが道は荒蕪を開くのを務めとするものだが、その荒蕪にはいくつかの種類がある」と言います。
そして、「だれも手入れをせず荒れ果ててしまった田畑よりも、絶望しやる気をなくし猜疑心といさかいに満ちた、荒れ果てた心こそが一番の損失である」と悟り、この心の荒蕪を開くことこそ自分の道なのだ、と悟ります。
【率先回村】
そのための手段として尊徳先生は率先して「回村」を行いました。
回村とは文字通り村々を見て回ること。それも深夜や未明に村里を巡回しました。叱るでもなく戒めるでもなく、良し悪しや勤惰をいうことを避けて、ただひたすら巡回を続けたのです。
するとやがてそれに気が付くものが出てきて、村民の間に戒めやうかうかしていられないぞという気持ちが生じてきて、やがていさかいの声が聞こえなくなった、と言います。
つまりリーダーとして率先して現場を見て回り、「見ているぞ」という姿を示し続けることで、一人一人の心の中で(これでいいのか)という自問自答が発せられ、それがやがてやらねば、という気持ちに変化をさせていくきっかけになったのです。
リーダーというものは他人任せにせず、自分自身の目で現場を見て回り最前線で辛い思いをしている人たちにその姿を見せて、「気にかけているよ」という姿勢を見せなくてはいけないということ。
そしてそうしなければ、現場の人たちの心は荒れ果ててゆくし、口先だけではそれを止めることはできないという真理がここにはあるのです。
【以徳報徳】
尊徳先生のやり方は、藩主忠真候によって「そちのやり方は論語にいう『以徳報徳』、徳をもって徳に報いるというものであるな」と称賛され、以来自分の道を「報徳仕法」と呼ぶようになったと伝えられています。
意気に感じるということもあって、日本人には通じやすいやり方であるのかもしれません。
現場を見ることがいかに大事かが分かるお話でもあります。今の政権の皆さんは現場を見てくれているのかな。その姿勢が問われているんだけど。