10月6日(土)、東京・四谷区民ホールで、「響かせあおう 死刑廃止の声」という集会・今年のパネル・ディスカッションは「原発を考え、死刑を考える」。神田香織、山本太郎、安田好弘、白石草(しらいし・はじめ)
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この集会を紹介しておいたが、参加して非常に面白かった。これほど興味深い会も久しぶりだったかも。白石草さんが外国の電波事情を紹介して、諸外国では公共放送の電波回線を市民に開放した「市民チャンネル」がある、そういう国がたくさんあると言っていた。反原発デモをテレビが報じないというような問題意識だけではダメで、報道させればいいのではなく、「われらのチャンネル」を作り出すということが大事なのか。「市民運動」を始めたばかりの山本太郎さんの話も刺激的。原発事故により、日本国民は皆死刑囚の状態と言っていた。僕が前からよく言っているけど、問題は「国家を相対化する」ことではないかと思う。
集会後半は、「死刑囚の表現」をめぐる公開選評会。連続企業爆破事件で死刑判決が確定した(再審請求中)大道寺将司さんの母、大道寺幸子さんが亡くなった時(2004年)、その残された基金で死刑囚の再審援助や文芸、絵画作品の募集が行われてきた。今年で第8回で、死刑廃止集会では獄中からの絵画(驚くべき才能を示す絵が多い)がよく展示されている。選考委員は、池田浩士(ドイツ文学者)、加賀乙彦(作家)、香山リカ(精神科医・評論家)、川村湊(文芸評論家)、北川フラム(アートディレクター)、坂上香(映像ジャーナリスト)、太田昌国(民族問題研究・編集者)。(順番、肩書はパンフによる。)この顔触れはすごい。坂上氏は欠席だったが、高齢の加賀さんも元気に発言していた。加賀乙彦氏は作家であるが、精神科医として東京拘置所で死刑囚の調査を行ったことでも知られている。死刑廃止集会で何回か話は聞いているが、この集会では欠席の年もあった。この顔触れはすごいとしか言いようがない。この選評会を聞けただけで貴重な体験だった。
世界には死刑廃止国の方が圧倒的に多い。ほとんど中国とイランと北朝鮮と日本とインドなんかしか死刑を執行している国がなくなってきている。韓国は事実上の廃止国。モンゴルは正式な廃止国。そういう実情を思うにつけ、「死刑問題」を「ビッグ・イシュー」にする必要を感じる。僕は案外、「死刑廃止論者」が隠れキリシタンのごとく存在しているのではないかと思っているのだが。
(以下は紹介時(10.2)に書いたまま。)
6月4日に就任して10月1日に退任した滝実(まこと)法務大臣が、内閣改造で退任する直前の9月27日に死刑執行を行ったのには、驚いた。「虚を突かれた」と言ってもいい。鳩山邦夫元法相じゃあるまいし、8月3日に執行があったばかりなのに、翌月にまた死刑執行をするとは…。しかも、6月の改造で就任した羽田国交相や森本防衛相は再任されているのに、滝法相だけは高齢を理由に再任を自ら辞退したと新聞で報道されていた。これでは、「死刑執行にためにだけ数か月大臣にしてもらいました」という感じではないか。野田内閣が死刑を廃止する方針はないこと。去年は執行がなかったが、小川元法相が再開し、滝法相が続いた。今さら「民主党内閣での死刑執行」には驚かないが、退任を心に決めていたなら、後任に任せるというのが「僕の考える常識」である。
滝前法相は、「国民は死刑廃止を求めていない」「死刑を廃止した国は、冤罪死刑などの事例がきっかけになっている」「再審にあたる理由がないかどうかは慎重に判断している」などということを発言したと思う。
これが僕には納得できないのである。僕も「今すぐ日本で死刑を廃止する環境にない」という判断をしている。日本でさえそうなのだから、中国やイランで死刑が廃止される日は限りなく遠いだろう。僕が、あるいは死刑廃止運動が求めているのは、「死刑執行をとりあえず停止し、死刑の実態、世界の廃止状況などをじっくり調べて、国民的に議論すること」である。それなくして、裁判員制度で死刑を国民が判断する制度を作ってしまった日本政府の責務ではないのか。法務官僚は、日本が永遠に死刑を存置できると考えているのだろうか。世界の状況を知ってるだろうに。別に世界がどうなろうが知ったことではないというのでは困る。「世界で死刑廃止が主流になってきているのは、それなりに理由がある」「だからじっくり調べて議論しよう」。これがどうして実現できないのか。
「再審の理由はない」というのもおかしい。死刑囚の確定死刑判決がなくなるのは、再審だけではない。再審の可否は裁判所が判断するが、もう一つ「恩赦」というものがあるではないか。これは「行政権」の権限である。こっちを検討するのが、まず法相の責務である。「死刑囚の恩赦」はしばらく行われていないから、みんな忘れているかもしれない。でも現憲法下で数件の前例がある。それぞれ特別の事情があった。再審請求(裁判が間違ってたからやり直せ)と恩赦請願(裁判は正しかったけど、何とぞ恩恵を)とは考え方で正反対である。だから原則的には、両方同時にはできない。(法で禁止されているわけではないが。)だから、恩赦を求めて却下されるとすぐ執行の可能性が高く、恩赦請願に踏み切れない死刑囚が多いと思われる。しかし、事件以来長い時間も経ち、恩赦を検討してもいい場合は相当多いのではないか。
世界にも日本にも問題が多い。「日本は自由で豊かな国になったけれど、世界には戦争や飢餓に苦しむ子供たちや言論の自由がない国が今もある」と僕は昔思った。今も基本はそうだけど、でもそういう日本に「無実の死刑囚」が一杯いた。それを知って僕はビックリして、そのことを忘れずに日本という国を考えたいと思ってきた。確かに死刑囚の大部分は許されざる犯罪を犯した。でも、ノルウェーのように「最高刑が21年」という国が存在する。その違うところは何なのか。日本という「国のかたち」を考えるときに、「日本は死刑制度がある国」というのは、絶対に忘れてはいけないことだと思う。今、死刑について本格的に書く余裕はないけど、とりあえず集会の紹介とともに。
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この集会を紹介しておいたが、参加して非常に面白かった。これほど興味深い会も久しぶりだったかも。白石草さんが外国の電波事情を紹介して、諸外国では公共放送の電波回線を市民に開放した「市民チャンネル」がある、そういう国がたくさんあると言っていた。反原発デモをテレビが報じないというような問題意識だけではダメで、報道させればいいのではなく、「われらのチャンネル」を作り出すということが大事なのか。「市民運動」を始めたばかりの山本太郎さんの話も刺激的。原発事故により、日本国民は皆死刑囚の状態と言っていた。僕が前からよく言っているけど、問題は「国家を相対化する」ことではないかと思う。
集会後半は、「死刑囚の表現」をめぐる公開選評会。連続企業爆破事件で死刑判決が確定した(再審請求中)大道寺将司さんの母、大道寺幸子さんが亡くなった時(2004年)、その残された基金で死刑囚の再審援助や文芸、絵画作品の募集が行われてきた。今年で第8回で、死刑廃止集会では獄中からの絵画(驚くべき才能を示す絵が多い)がよく展示されている。選考委員は、池田浩士(ドイツ文学者)、加賀乙彦(作家)、香山リカ(精神科医・評論家)、川村湊(文芸評論家)、北川フラム(アートディレクター)、坂上香(映像ジャーナリスト)、太田昌国(民族問題研究・編集者)。(順番、肩書はパンフによる。)この顔触れはすごい。坂上氏は欠席だったが、高齢の加賀さんも元気に発言していた。加賀乙彦氏は作家であるが、精神科医として東京拘置所で死刑囚の調査を行ったことでも知られている。死刑廃止集会で何回か話は聞いているが、この集会では欠席の年もあった。この顔触れはすごいとしか言いようがない。この選評会を聞けただけで貴重な体験だった。
世界には死刑廃止国の方が圧倒的に多い。ほとんど中国とイランと北朝鮮と日本とインドなんかしか死刑を執行している国がなくなってきている。韓国は事実上の廃止国。モンゴルは正式な廃止国。そういう実情を思うにつけ、「死刑問題」を「ビッグ・イシュー」にする必要を感じる。僕は案外、「死刑廃止論者」が隠れキリシタンのごとく存在しているのではないかと思っているのだが。
(以下は紹介時(10.2)に書いたまま。)
6月4日に就任して10月1日に退任した滝実(まこと)法務大臣が、内閣改造で退任する直前の9月27日に死刑執行を行ったのには、驚いた。「虚を突かれた」と言ってもいい。鳩山邦夫元法相じゃあるまいし、8月3日に執行があったばかりなのに、翌月にまた死刑執行をするとは…。しかも、6月の改造で就任した羽田国交相や森本防衛相は再任されているのに、滝法相だけは高齢を理由に再任を自ら辞退したと新聞で報道されていた。これでは、「死刑執行にためにだけ数か月大臣にしてもらいました」という感じではないか。野田内閣が死刑を廃止する方針はないこと。去年は執行がなかったが、小川元法相が再開し、滝法相が続いた。今さら「民主党内閣での死刑執行」には驚かないが、退任を心に決めていたなら、後任に任せるというのが「僕の考える常識」である。
滝前法相は、「国民は死刑廃止を求めていない」「死刑を廃止した国は、冤罪死刑などの事例がきっかけになっている」「再審にあたる理由がないかどうかは慎重に判断している」などということを発言したと思う。
これが僕には納得できないのである。僕も「今すぐ日本で死刑を廃止する環境にない」という判断をしている。日本でさえそうなのだから、中国やイランで死刑が廃止される日は限りなく遠いだろう。僕が、あるいは死刑廃止運動が求めているのは、「死刑執行をとりあえず停止し、死刑の実態、世界の廃止状況などをじっくり調べて、国民的に議論すること」である。それなくして、裁判員制度で死刑を国民が判断する制度を作ってしまった日本政府の責務ではないのか。法務官僚は、日本が永遠に死刑を存置できると考えているのだろうか。世界の状況を知ってるだろうに。別に世界がどうなろうが知ったことではないというのでは困る。「世界で死刑廃止が主流になってきているのは、それなりに理由がある」「だからじっくり調べて議論しよう」。これがどうして実現できないのか。
「再審の理由はない」というのもおかしい。死刑囚の確定死刑判決がなくなるのは、再審だけではない。再審の可否は裁判所が判断するが、もう一つ「恩赦」というものがあるではないか。これは「行政権」の権限である。こっちを検討するのが、まず法相の責務である。「死刑囚の恩赦」はしばらく行われていないから、みんな忘れているかもしれない。でも現憲法下で数件の前例がある。それぞれ特別の事情があった。再審請求(裁判が間違ってたからやり直せ)と恩赦請願(裁判は正しかったけど、何とぞ恩恵を)とは考え方で正反対である。だから原則的には、両方同時にはできない。(法で禁止されているわけではないが。)だから、恩赦を求めて却下されるとすぐ執行の可能性が高く、恩赦請願に踏み切れない死刑囚が多いと思われる。しかし、事件以来長い時間も経ち、恩赦を検討してもいい場合は相当多いのではないか。
世界にも日本にも問題が多い。「日本は自由で豊かな国になったけれど、世界には戦争や飢餓に苦しむ子供たちや言論の自由がない国が今もある」と僕は昔思った。今も基本はそうだけど、でもそういう日本に「無実の死刑囚」が一杯いた。それを知って僕はビックリして、そのことを忘れずに日本という国を考えたいと思ってきた。確かに死刑囚の大部分は許されざる犯罪を犯した。でも、ノルウェーのように「最高刑が21年」という国が存在する。その違うところは何なのか。日本という「国のかたち」を考えるときに、「日本は死刑制度がある国」というのは、絶対に忘れてはいけないことだと思う。今、死刑について本格的に書く余裕はないけど、とりあえず集会の紹介とともに。