この前追悼を書いたばかりの大滝秀治は、昨年の文化功労者に選ばれていた。今回追悼を書く丸谷才一は昨年の文化勲章受章者だった。「かろうじて間に合った」と言うべきなのか。他に昨年選ばれた人に、加賀乙彦さんや山口昌男さんがいる。(五百旗頭眞さんや毛里和子さんもいる。)加賀さんは6日の死刑廃止集会で元気な姿を見たばかり。
丸谷才一という人は「小説家」と思われている。確かに僕も小説を一番読んでるとは思うけど、本質は批評家であり、また翻訳家だったのではないか。僕は中学時代に突然「純文学」にめざめたときがあり、三島由紀夫、大江健三郎なんかを読み始めてしまった。その頃芥川賞を受けた丸谷才一、大庭みな子、庄司薫、清岡卓行、古井由吉なんかの名前は、とても親しい感じで覚えた。でも、庄司薫の赤頭巾ちゃんシリーズを除き、ほとんど読んでない。「若い人向け」ではなかったからである。70年代後半になると、中上健次、村上龍、三田誠広など若い作家が芥川賞を取ることも増えていくのだが。
丸谷才一の小説を初めて読んだのは、大学時代に書評を見て短編集の「横しぐれ」を読んだときである。面白かったので、文庫の「年の残り」を読んだ。芥川賞を取った表題作より、「思想と無思想の間」という現代の「知識人」の生態を面白おかしく風刺した小説がやたらと面白かった。付き合った彼女の父が、思想的オポチュニストとして名高い人物だったという設定である。当時は清水幾太郎という人が有名で、戦時中は国策に沿い、戦後は「進歩的文化人」の代表となり、60年安保の時は「世界」に「今こそ国会へ」という檄文を書いた。その後「転向」し、左翼批判をするようになり、最後は日本の核武装論を書いていた。まあ、そういう今は右翼の、思想的変動をくり返してきた人物が、よりによって若き知識人の「義父」になったら…。彼女はいいけど、父親が不評で自分の「出世」にも問題ありそう…という風俗喜劇みたいな、思想小説みたいな面白さ。
丸谷才一はこの「風俗喜劇みたいな思想小説」である長編小説をいくつか書いた。最初は71年の「たった一人の反乱」で大評判になった。そのことは知ってたけど、高校生が読みたいと思う本ではなかったので、読んだのはだいぶ後。そうしたら同時代批評である風俗喜劇部分がかなり色あせていたように感じた。刊行当時は題名が流行語になったけど。その後の「裏声で歌へ君が代」(82)は台湾独立運動、「女ざかり」(93)は新聞社の女性論説委員、「輝く日の宮」(03)は女性の源氏物語研究者を描いて、全部同時代的に読んできた。読めば面白い。いずれも風俗喜劇であり思想小説である。昨年も「持ち重りする薔薇の花」という長編を出したということだが、そんなに評判にならなくて読んでない。でも時間が経つと、これらの小説群も、どうも忘れられていないだろうか。「裏声」はもう文庫にないし、「女ざかり」は大ベストセラーになったけど、現代日本文学の必読書として評価が定着しているとは言えないと思う。(「女ざかり」は大林宣彦監督、吉永小百合主演で映画化されたが、丸谷、大林、吉永の取り合わせは全くの大失敗だった。)
丸谷のこういう小説は、日本の「私小説」的な風土を嫌い、ヨーロッパの社会小説を目指したものである。19世紀のイギリス、フランス、ロシアなどで書かれた大小説は、社会、思想、風俗を描き切り今でも素晴らしい迫力で迫ってくる。でも、日本では作家の貧乏自慢や性の悩みに悶え苦しむような「自我」を描く小説がありがたがられて、「大人」が出てこないではないかというわけである。だから日本の実社会では、小説は共産主義なんかと同じく、若いときにはかぶれることもあるが、いつか抜け出て大人になると必要なくなるもんだと思われてきた。小説なんて若いときしか読まないものだったのだ。まさに「小説」(小さく説く)だった。丸谷はそれを超えた、大人の知的世界に読まれうるノヴェルを目指したのだろう。それは確かに成功したとも言えるが、それでも現代日本の全体をとらえる小説にはならなかったと僕は思う。評判になった長編も、東京の知的スノッブの世界を背景にして存在していた感じがする。
僕はそれらの長編よりも、「横しぐれ」「樹影譚」のような短編の方がいいと思う。小説の中の批評性が面白いと思う。大体、この人は批評の方が面白い。「後鳥羽院」がもしかしたら最高傑作ではないか。でも大評判になった「忠臣蔵とか何か」(84)は頂けない。あれは論証ではなく、ほとんどフィクション。あれで賞を取れるなんて、文芸批評は実証性が要らないのかと僕は驚いた。それはともかく、長編は10年にいっぺんだけど、批評、エッセイのような文章はずっと多い。そちらの方が残っていくのかもしれない。そして翻訳。何と言ってもジョイスの「ユリシーズ」なんだろうけど、グレアム・グリーンの「ブライトン・ロック」、ジェローム・K・ジェロームの「ボートの三人男」などを評価する人もいるだろう。翻訳家であり、元は英文学者であるが、そういう英文学の伝統を受けて、日本の小説を書いた。今でも長編は読んで面白いとは思うが、その透徹した批評性こそが一番印象的だった。同時代の作家として一番すくなわけではなかったけれど、次の大長編ではどういう世界を舞台にして知的な喜劇を展開してくれるのだろうかとはよく思ってきた。「女ざかり」を読み返すとどうなんでしょうね。バブル崩壊期の社会を批評したとして、いずれは大きく評価されるのかもしれない。
丸谷才一という人は「小説家」と思われている。確かに僕も小説を一番読んでるとは思うけど、本質は批評家であり、また翻訳家だったのではないか。僕は中学時代に突然「純文学」にめざめたときがあり、三島由紀夫、大江健三郎なんかを読み始めてしまった。その頃芥川賞を受けた丸谷才一、大庭みな子、庄司薫、清岡卓行、古井由吉なんかの名前は、とても親しい感じで覚えた。でも、庄司薫の赤頭巾ちゃんシリーズを除き、ほとんど読んでない。「若い人向け」ではなかったからである。70年代後半になると、中上健次、村上龍、三田誠広など若い作家が芥川賞を取ることも増えていくのだが。
丸谷才一の小説を初めて読んだのは、大学時代に書評を見て短編集の「横しぐれ」を読んだときである。面白かったので、文庫の「年の残り」を読んだ。芥川賞を取った表題作より、「思想と無思想の間」という現代の「知識人」の生態を面白おかしく風刺した小説がやたらと面白かった。付き合った彼女の父が、思想的オポチュニストとして名高い人物だったという設定である。当時は清水幾太郎という人が有名で、戦時中は国策に沿い、戦後は「進歩的文化人」の代表となり、60年安保の時は「世界」に「今こそ国会へ」という檄文を書いた。その後「転向」し、左翼批判をするようになり、最後は日本の核武装論を書いていた。まあ、そういう今は右翼の、思想的変動をくり返してきた人物が、よりによって若き知識人の「義父」になったら…。彼女はいいけど、父親が不評で自分の「出世」にも問題ありそう…という風俗喜劇みたいな、思想小説みたいな面白さ。
丸谷才一はこの「風俗喜劇みたいな思想小説」である長編小説をいくつか書いた。最初は71年の「たった一人の反乱」で大評判になった。そのことは知ってたけど、高校生が読みたいと思う本ではなかったので、読んだのはだいぶ後。そうしたら同時代批評である風俗喜劇部分がかなり色あせていたように感じた。刊行当時は題名が流行語になったけど。その後の「裏声で歌へ君が代」(82)は台湾独立運動、「女ざかり」(93)は新聞社の女性論説委員、「輝く日の宮」(03)は女性の源氏物語研究者を描いて、全部同時代的に読んできた。読めば面白い。いずれも風俗喜劇であり思想小説である。昨年も「持ち重りする薔薇の花」という長編を出したということだが、そんなに評判にならなくて読んでない。でも時間が経つと、これらの小説群も、どうも忘れられていないだろうか。「裏声」はもう文庫にないし、「女ざかり」は大ベストセラーになったけど、現代日本文学の必読書として評価が定着しているとは言えないと思う。(「女ざかり」は大林宣彦監督、吉永小百合主演で映画化されたが、丸谷、大林、吉永の取り合わせは全くの大失敗だった。)
丸谷のこういう小説は、日本の「私小説」的な風土を嫌い、ヨーロッパの社会小説を目指したものである。19世紀のイギリス、フランス、ロシアなどで書かれた大小説は、社会、思想、風俗を描き切り今でも素晴らしい迫力で迫ってくる。でも、日本では作家の貧乏自慢や性の悩みに悶え苦しむような「自我」を描く小説がありがたがられて、「大人」が出てこないではないかというわけである。だから日本の実社会では、小説は共産主義なんかと同じく、若いときにはかぶれることもあるが、いつか抜け出て大人になると必要なくなるもんだと思われてきた。小説なんて若いときしか読まないものだったのだ。まさに「小説」(小さく説く)だった。丸谷はそれを超えた、大人の知的世界に読まれうるノヴェルを目指したのだろう。それは確かに成功したとも言えるが、それでも現代日本の全体をとらえる小説にはならなかったと僕は思う。評判になった長編も、東京の知的スノッブの世界を背景にして存在していた感じがする。
僕はそれらの長編よりも、「横しぐれ」「樹影譚」のような短編の方がいいと思う。小説の中の批評性が面白いと思う。大体、この人は批評の方が面白い。「後鳥羽院」がもしかしたら最高傑作ではないか。でも大評判になった「忠臣蔵とか何か」(84)は頂けない。あれは論証ではなく、ほとんどフィクション。あれで賞を取れるなんて、文芸批評は実証性が要らないのかと僕は驚いた。それはともかく、長編は10年にいっぺんだけど、批評、エッセイのような文章はずっと多い。そちらの方が残っていくのかもしれない。そして翻訳。何と言ってもジョイスの「ユリシーズ」なんだろうけど、グレアム・グリーンの「ブライトン・ロック」、ジェローム・K・ジェロームの「ボートの三人男」などを評価する人もいるだろう。翻訳家であり、元は英文学者であるが、そういう英文学の伝統を受けて、日本の小説を書いた。今でも長編は読んで面白いとは思うが、その透徹した批評性こそが一番印象的だった。同時代の作家として一番すくなわけではなかったけれど、次の大長編ではどういう世界を舞台にして知的な喜劇を展開してくれるのだろうかとはよく思ってきた。「女ざかり」を読み返すとどうなんでしょうね。バブル崩壊期の社会を批評したとして、いずれは大きく評価されるのかもしれない。