尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

追悼・丸谷才一

2012年10月14日 22時54分16秒 | 追悼
 この前追悼を書いたばかりの大滝秀治は、昨年の文化功労者に選ばれていた。今回追悼を書く丸谷才一は昨年の文化勲章受章者だった。「かろうじて間に合った」と言うべきなのか。他に昨年選ばれた人に、加賀乙彦さんや山口昌男さんがいる。(五百旗頭眞さんや毛里和子さんもいる。)加賀さんは6日の死刑廃止集会で元気な姿を見たばかり。

 丸谷才一という人は「小説家」と思われている。確かに僕も小説を一番読んでるとは思うけど、本質は批評家であり、また翻訳家だったのではないか。僕は中学時代に突然「純文学」にめざめたときがあり、三島由紀夫、大江健三郎なんかを読み始めてしまった。その頃芥川賞を受けた丸谷才一、大庭みな子、庄司薫、清岡卓行、古井由吉なんかの名前は、とても親しい感じで覚えた。でも、庄司薫の赤頭巾ちゃんシリーズを除き、ほとんど読んでない。「若い人向け」ではなかったからである。70年代後半になると、中上健次、村上龍、三田誠広など若い作家が芥川賞を取ることも増えていくのだが。

 丸谷才一の小説を初めて読んだのは、大学時代に書評を見て短編集の「横しぐれ」を読んだときである。面白かったので、文庫の「年の残り」を読んだ。芥川賞を取った表題作より、「思想と無思想の間」という現代の「知識人」の生態を面白おかしく風刺した小説がやたらと面白かった。付き合った彼女の父が、思想的オポチュニストとして名高い人物だったという設定である。当時は清水幾太郎という人が有名で、戦時中は国策に沿い、戦後は「進歩的文化人」の代表となり、60年安保の時は「世界」に「今こそ国会へ」という檄文を書いた。その後「転向」し、左翼批判をするようになり、最後は日本の核武装論を書いていた。まあ、そういう今は右翼の、思想的変動をくり返してきた人物が、よりによって若き知識人の「義父」になったら…。彼女はいいけど、父親が不評で自分の「出世」にも問題ありそう…という風俗喜劇みたいな、思想小説みたいな面白さ

 丸谷才一はこの「風俗喜劇みたいな思想小説」である長編小説をいくつか書いた。最初は71年の「たった一人の反乱」で大評判になった。そのことは知ってたけど、高校生が読みたいと思う本ではなかったので、読んだのはだいぶ後。そうしたら同時代批評である風俗喜劇部分がかなり色あせていたように感じた。刊行当時は題名が流行語になったけど。その後の「裏声で歌へ君が代」(82)は台湾独立運動、「女ざかり」(93)は新聞社の女性論説委員、「輝く日の宮」(03)は女性の源氏物語研究者を描いて、全部同時代的に読んできた。読めば面白い。いずれも風俗喜劇であり思想小説である。昨年も「持ち重りする薔薇の花」という長編を出したということだが、そんなに評判にならなくて読んでない。でも時間が経つと、これらの小説群も、どうも忘れられていないだろうか。「裏声」はもう文庫にないし、「女ざかり」は大ベストセラーになったけど、現代日本文学の必読書として評価が定着しているとは言えないと思う。(「女ざかり」は大林宣彦監督、吉永小百合主演で映画化されたが、丸谷、大林、吉永の取り合わせは全くの大失敗だった。)

 丸谷のこういう小説は、日本の「私小説」的な風土を嫌い、ヨーロッパの社会小説を目指したものである。19世紀のイギリス、フランス、ロシアなどで書かれた大小説は、社会、思想、風俗を描き切り今でも素晴らしい迫力で迫ってくる。でも、日本では作家の貧乏自慢や性の悩みに悶え苦しむような「自我」を描く小説がありがたがられて、「大人」が出てこないではないかというわけである。だから日本の実社会では、小説は共産主義なんかと同じく、若いときにはかぶれることもあるが、いつか抜け出て大人になると必要なくなるもんだと思われてきた。小説なんて若いときしか読まないものだったのだ。まさに「小説」(小さく説く)だった。丸谷はそれを超えた、大人の知的世界に読まれうるノヴェルを目指したのだろう。それは確かに成功したとも言えるが、それでも現代日本の全体をとらえる小説にはならなかったと僕は思う。評判になった長編も、東京の知的スノッブの世界を背景にして存在していた感じがする。

 僕はそれらの長編よりも、「横しぐれ」「樹影譚」のような短編の方がいいと思う。小説の中の批評性が面白いと思う。大体、この人は批評の方が面白い。「後鳥羽院」がもしかしたら最高傑作ではないか。でも大評判になった「忠臣蔵とか何か」(84)は頂けない。あれは論証ではなく、ほとんどフィクション。あれで賞を取れるなんて、文芸批評は実証性が要らないのかと僕は驚いた。それはともかく、長編は10年にいっぺんだけど、批評、エッセイのような文章はずっと多い。そちらの方が残っていくのかもしれない。そして翻訳。何と言ってもジョイスの「ユリシーズ」なんだろうけど、グレアム・グリーンの「ブライトン・ロック」、ジェローム・K・ジェロームの「ボートの三人男」などを評価する人もいるだろう。翻訳家であり、元は英文学者であるが、そういう英文学の伝統を受けて、日本の小説を書いた。今でも長編は読んで面白いとは思うが、その透徹した批評性こそが一番印象的だった。同時代の作家として一番すくなわけではなかったけれど、次の大長編ではどういう世界を舞台にして知的な喜劇を展開してくれるのだろうかとはよく思ってきた。「女ざかり」を読み返すとどうなんでしょうねバブル崩壊期の社会を批評したとして、いずれは大きく評価されるのかもしれない。
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串田和美の「K.ファウスト」

2012年10月14日 14時15分54秒 | 演劇
 とても楽しいお芝居を観た。けれども東京ではもう上演終了。世田谷パブリックシアターの「K.ファウスト」。6日~14日公演で、この後19~21に松本市民芸術館で公演。


 13日(土)は僕が関わっている福祉作業所が東京馬主協会の補助金を得られることになったので、その目録贈呈式で東京競馬場に行ってきた。普通の競馬を見る門ではない事業所門から入って馬主会館へ。そういうとことがあるのである。式はすぐ終わったけど、そのあと、競馬場の来賓席へ行ってお弁当を食べた。そういうところがあるとは聞いていたけれど、すごくきれいで広い場所。写真はFacebookに載せた。

 それで時間がうまく合わないんだけど、夜に世田谷パブリックシアターへ。これは木曜の朝日新聞劇評欄を見てから行く気になった。今当日券を何とか入手してみたい演劇がいくつかあるが、この芝居はその中に入っていなかった。割合安くチケットを入手できたので早速行った。串田和美が作ったこの芝居、とても面白かった。今までに一番感動したのが井上ひさしの「イーハトーボの劇列車」だとこの前書いたけど、一番面白かったお芝居は間違いなく「上海バンスキング」。そのあといくつかは見てるけど、コクーン歌舞伎は全く見てない。渋谷の東急文化村そのものにほとんど行ってない。ル・シネマで映画を見たことも、たぶん21世紀になってから一度もないと思う。(ユーロスペースに行くときトイレだけ利用しててすみません。)

 ということで、しばらく串田和美を見てなかったんだけど。感想はほとんど劇評につきている。
 「串田が絶望と希望、苦みを込めて我が人生、我が世界を、サーカスのリンクのような舞台でカーニバル風に展開する。」
 「演出と美術も担当する串田は、サーカス、大道芸、生音楽、夢の視覚化、歌舞伎手法と、培ってきた方法を総動員する。」
 「ああ、串田は、長い演劇人生をかけて、こういう舞台を作りたかったのだ、と得心させる。」

 ファウストは笹野高史悪魔メフィストフェレスが串田和美道化役に小日向文世。主にこの3人で展開する。が、冒頭に生音楽(アコーディオンのCOBAが素晴らしい)、サーカス(フランス初めヨーロッパ人をオーディションで採用)の空中ブランコが出てきて、目と心を奪ってしまう。空中ブランコは本当に素晴らしく、人生の夢と飛翔、揺れる心そのものでもあるだろうけど、サーカスの祝祭的な演劇空間が皆の心をとらえる。

 笹野高史は最近いろいろ出ているが、映画「天地明察」では老学者を印象的に演じていた。1948年生まれで老け役ばかりやっている。この芝居でも最初は高齢のファウスト博士だが、悪魔に魂を売ってエステに行くと(このエステ場面が傑作)、みるみる若くなって本当に若返ったかに見えるのが驚き。体を張った体技も披露していて、笹野の若さに驚いた。串田は悪魔役を遊び人風に演じて楽しい。最後、ファウスト博士の時間が無くなると悪魔の勝利かと思うと、悪魔は人間が作り出したとお互いがお互いであったという結末

 人間が永遠を欲する、錬金術を求めるというのは、現代で言えば、永久エネルギーであったはずの「核燃料サイクル技術」ではないか。人間は理想を追い求め、ついに核兵器を手にしてしまった。高齢化社会にあふれるアンチ・エイジングのブーム。ファウスト伝説に込められた現代への意味は大きいと改めて考えさせられた。そのようなすごく重いテーマを裏に潜めているとも思うけど、あくまでも楽しく、祝祭的なファンタジーであり、西洋縁日のような舞台。見ていた観客も大満足だったことは、長い拍手とカーテンコールが示しているだろう。

 なお、舞台には直接関係ないが、最近映画や演劇に行くと、観客の中に着帽のまま見ている人がいる。昨日は僕の真ん前がそうで、見渡してみたら6人くらいいた。また映画でも背にもたれないで、前の席にもたれてみている人がいる。困ったもんだ。まあ、頭髪もわざと突き出すようにボサボサにしてる人もいて、そういう場合は帽子でもかぶってもらう方がいいが、普通は頭髪に帽子が乗る分、後ろの席からは見にくさが増す。昨日の人は、かゆいから頭を掻くのはまあ仕方ないが、普通は頭に手を持って行って掻くところ、手を固定させておいて頭の方を動かすという不思議な人だった。
コメント (3)
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