新宿K’sシネマで上映中の「中国映画の全貌」シリーズ。日曜夜の回で、ロウ・イエ監督「スプリング・フィーバー」。おととしの公開作品だけど、当時見逃した。その後名画座等でなかなかめぐり合わず、ようやく見ることができた。2009年のカンヌ映画祭脚本賞、2010年キネマ旬報ベストテン9位。今回は2回しか上映がなく、その2回目が昨日なので、旅行翌日で夜はあまり行きたくなかったけど、仕方ない。だから、紹介しても劇場で見る機会はないんだけど、DVDも出てるし、非常に素晴らしい映画だったので書いておきたい。
これは、昔風に言えば「愛の不毛」を描く、南京の5人の男女の関係を描く映画。ラブ・ストーリイであると同時に、「文芸映画」であり、否応なく「政治映画」でもある。この映画は、中国映画史上初の本格的に同性愛を描く映画である。(「覇王別姫」など直接ではないけれど、同性愛的な感情を描く映画はある。また香港でワン・カーウェイの「ブエノスアイレス」は直接の同性愛関係を描くが、舞台がアルゼンチンだった。「スプリング・フィーバー」は現代中国の様子を描いている。)ただし、一般的な映画ではなく、ゲリラ的に作られた映画である。前作「天安門、恋人たち」(2006)で、天安門事件を扱ったため(ではなく、フィルムの品質の問題にされたらしいが)、カンヌ映画祭での上映許可が下りなかった。ロウ・イエ監督は中国での5年間映画製作禁止処分を受けたが、フランスの出資で「スプリング・フィーバー」を作った。中国国内で上映するつもりの映画は、当局の検閲を通過しないと作れない。だから中国では映画製作の自由はないんだけど、国内上映をあきらめれば製作自体が罪に問われたり、撮影中に検閲無許可の撮影を理由に逮捕されたりすることはないらしい。だから「インディペンデント」(個人製作の映画)の映画はかなりたくさん作られている。外国でしか知られていない監督も多い。
夫の浮気を疑う女性教師が探偵に夫の調査を依頼する。その探偵は夫の相手がジャン・チョン青年であることを突き止め、依頼主の妻に知らせる。夫は友人と称して妻を含めて三人の会食を計画する。妻は翌日、ジャンの職場の旅行社に乗り込み、書類をばらまく。これをきっかけに、夫婦の間も、夫とジャンの間も壊れていく。この3人の関係が前半。一方、探偵と恋人リー・ジンにジャンが絡んでくるのが後半。探偵はいつの間にか追跡するジャンに惹かれていき結ばれる。三人はきまぐれに旅行に行き、奇妙な三人旅が始まる。この間にジャンが通う南京のゲイバーのシーン(実際にあるところをロケしたという)、リーが働くコピー商品の縫製工場での工場長との関係(工場は警察の手入れがありつぶれてしまう)などが挿入され、中国社会の巧みなスケッチがなされる。旅行中、リーが酒を買いに行き戻ると、男二人が抱き合っているのを見てしまう。悲しくなったリーは部屋を抜け出る。時間が経ち、ジャンはリーがいないのを心配し探すと、ホテルのカラオケルームで一人で歌っているリーを見つける。二人は理解しあえるか。そこに探偵もやってきて、三人のカラオケ。プ・シューという歌手の「あの花たち」という曲だというが、孤独な魂に寄り添う素晴らしい歌で、心に沁みる。歌はあるがほとんどセリフのない、このカラオケシーンの長回しのカメラが印象的で、素晴らしい。
そのあとどうなるかは書かないことにするが、この映画の中の孤独は相当に重い。それは「一人っ子」の中で同性愛を生きる孤独でもあるだろう。また、検閲がなく自由な脚本で撮れた反面、大型カメラが使えず小型のデジタルカメラでドキュメンタリー的に撮らざるをえないという、この映画の製作事情にもよるだろう。しかし、基本的には都市に生きる若い人間の愛を求める孤独の叫びが世界共通で心を打つと言うことだと思う。
「文芸映画」というのは、この映画が南京で作られた事情に関わる。上海は経済が進み過ぎ、北京は政治が絡む。戦前の中国作家、郁達夫(ユイ・ダーフ、いく・たっぷ)の短編小説にインスパイアされて作られたので、中華民国の首都だった南京で撮影されたという。郁達夫の「春風鎮静の夜」という小説は、高校教科書にも載るものだというが、「こんなやるせなく春風に酔うような夜は、私はいつも明け方まで方々歩き回るのだった」という部分が、この映画の基調低音となっている。この小説の文は随所で引用され、全体に文芸映画的な香りをつけている。ジャンがゲイバーで女装して歌う場面も興味深い。そういう風俗的な関心、文芸風の香り、政治的な暗喩などを含みつつ、孤独な愛の映画として完成度が高い。監督は事前にアメリカ映画「真夜中のカーボーイ」と「マイ・プライベート・アイダホ」を見せたという。どちらも同性愛が出てくるが、孤独な愛の映画だった。なお、中国では福祉制度が遅れていて、老後は子どもに依存する度合いが高いようだが、一人っ子が同性愛だと孫ができない。心ならずも結婚せざるを得ない同性愛者が多いのだとパンフに書かれていた。中国事情を見るという意味でも、オールロケ(ゲリラ撮影)なので興味深い。
これは、昔風に言えば「愛の不毛」を描く、南京の5人の男女の関係を描く映画。ラブ・ストーリイであると同時に、「文芸映画」であり、否応なく「政治映画」でもある。この映画は、中国映画史上初の本格的に同性愛を描く映画である。(「覇王別姫」など直接ではないけれど、同性愛的な感情を描く映画はある。また香港でワン・カーウェイの「ブエノスアイレス」は直接の同性愛関係を描くが、舞台がアルゼンチンだった。「スプリング・フィーバー」は現代中国の様子を描いている。)ただし、一般的な映画ではなく、ゲリラ的に作られた映画である。前作「天安門、恋人たち」(2006)で、天安門事件を扱ったため(ではなく、フィルムの品質の問題にされたらしいが)、カンヌ映画祭での上映許可が下りなかった。ロウ・イエ監督は中国での5年間映画製作禁止処分を受けたが、フランスの出資で「スプリング・フィーバー」を作った。中国国内で上映するつもりの映画は、当局の検閲を通過しないと作れない。だから中国では映画製作の自由はないんだけど、国内上映をあきらめれば製作自体が罪に問われたり、撮影中に検閲無許可の撮影を理由に逮捕されたりすることはないらしい。だから「インディペンデント」(個人製作の映画)の映画はかなりたくさん作られている。外国でしか知られていない監督も多い。
夫の浮気を疑う女性教師が探偵に夫の調査を依頼する。その探偵は夫の相手がジャン・チョン青年であることを突き止め、依頼主の妻に知らせる。夫は友人と称して妻を含めて三人の会食を計画する。妻は翌日、ジャンの職場の旅行社に乗り込み、書類をばらまく。これをきっかけに、夫婦の間も、夫とジャンの間も壊れていく。この3人の関係が前半。一方、探偵と恋人リー・ジンにジャンが絡んでくるのが後半。探偵はいつの間にか追跡するジャンに惹かれていき結ばれる。三人はきまぐれに旅行に行き、奇妙な三人旅が始まる。この間にジャンが通う南京のゲイバーのシーン(実際にあるところをロケしたという)、リーが働くコピー商品の縫製工場での工場長との関係(工場は警察の手入れがありつぶれてしまう)などが挿入され、中国社会の巧みなスケッチがなされる。旅行中、リーが酒を買いに行き戻ると、男二人が抱き合っているのを見てしまう。悲しくなったリーは部屋を抜け出る。時間が経ち、ジャンはリーがいないのを心配し探すと、ホテルのカラオケルームで一人で歌っているリーを見つける。二人は理解しあえるか。そこに探偵もやってきて、三人のカラオケ。プ・シューという歌手の「あの花たち」という曲だというが、孤独な魂に寄り添う素晴らしい歌で、心に沁みる。歌はあるがほとんどセリフのない、このカラオケシーンの長回しのカメラが印象的で、素晴らしい。
そのあとどうなるかは書かないことにするが、この映画の中の孤独は相当に重い。それは「一人っ子」の中で同性愛を生きる孤独でもあるだろう。また、検閲がなく自由な脚本で撮れた反面、大型カメラが使えず小型のデジタルカメラでドキュメンタリー的に撮らざるをえないという、この映画の製作事情にもよるだろう。しかし、基本的には都市に生きる若い人間の愛を求める孤独の叫びが世界共通で心を打つと言うことだと思う。
「文芸映画」というのは、この映画が南京で作られた事情に関わる。上海は経済が進み過ぎ、北京は政治が絡む。戦前の中国作家、郁達夫(ユイ・ダーフ、いく・たっぷ)の短編小説にインスパイアされて作られたので、中華民国の首都だった南京で撮影されたという。郁達夫の「春風鎮静の夜」という小説は、高校教科書にも載るものだというが、「こんなやるせなく春風に酔うような夜は、私はいつも明け方まで方々歩き回るのだった」という部分が、この映画の基調低音となっている。この小説の文は随所で引用され、全体に文芸映画的な香りをつけている。ジャンがゲイバーで女装して歌う場面も興味深い。そういう風俗的な関心、文芸風の香り、政治的な暗喩などを含みつつ、孤独な愛の映画として完成度が高い。監督は事前にアメリカ映画「真夜中のカーボーイ」と「マイ・プライベート・アイダホ」を見せたという。どちらも同性愛が出てくるが、孤独な愛の映画だった。なお、中国では福祉制度が遅れていて、老後は子どもに依存する度合いが高いようだが、一人っ子が同性愛だと孫ができない。心ならずも結婚せざるを得ない同性愛者が多いのだとパンフに書かれていた。中国事情を見るという意味でも、オールロケ(ゲリラ撮影)なので興味深い。