尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

グローバル・フェスタ?-「ブルー・シャトー」問題

2012年10月07日 21時53分47秒 | 気になる言葉
 もう終わったんだけど、例年10月の連休に「グローバル・フェスタ」という催しが東京の真ん中、日比谷公園で行われます。主催は実行委員会だけど、共催に外務省やJICAが入って、後援に政府各省が加わるという公的な催しです。まあ日比谷公園でやる催しは大体そうなんだけど、ブースのテントがいっぱいあって回るのが途中で面倒くさくなる。今日ちょっと行ったんですが、たぶんちゃんと回ると知り合いがいるのではないかと思うんですが、晴れて来て暑くなって早々に退散してしまいました。

 で、そのことではなく。いつも思うんだけど、「グローバル・フェスタ」って何だよ、と名前に違和感を持つのです。何で、フェスタなの?
 ネットの辞書で引いてみれば、フェスタ【(イタリア)festa】祭り。祝祭。祭祀(さいし)。祝日。
 「グローバル」は、global[形] 1 全世界の,地球上の,世界的な(以下省略)

 言うまでもなく、グローバルは「英語」。フェスタは「イタリア語」。
 この「違う言語をくっつけて使う」というところに僕の違和感があります。
 「グローバル・フェスティバル」じゃ、なぜダメなのか。というか「地球祭り」じゃダメなの?
 混ぜるから「グローバル」なのかな。外国語を使わないと、趣旨に反するのか?

 僕は外国語を消化して、カタカナで表記していく現代日本語のあり方に反対ではないです。あまりにも訳の判らないのは困りますが。漢字しかない中国よりも、カタカナで表音表記できる日本語表現の方が、欧米の影響を避けられない現代では便利ではないかと思います。しかし、コンピュータを「電脳」とするような漢字表記も捨てがたいのですが。ただ、僕の感覚では、「英語なら全部英語にして欲しい」と思ってしまうのです。

 まあ、漢字の読みにも「重箱読み」「湯桶読み」があるわけで、混ぜこぜが日本語の特徴なのかも

 この問題を意識したのはずいぶん昔で、僕は「ブルー・シャトー問題」と自分で勝手に呼んでいます。そう、ジャッキー吉川とブルーコメッツが1967年に歌ってレコード大賞を受賞した曲ですね。
 子どもだった僕は、皆と一緒に、「森と(ンカツ) 泉に(ンニク) 囲ーまれて(ンプラ)」と歌っていましたね。大学生になって第二外国語でフランス語をやって気づいたけど、「Blue Chateau」って英語とフランス語の混ぜこぜではないですか。「ブルー・キャッスル」ではダメなのか。いや、ダメですね、それは。森と泉に囲まれている古城は、当時の(今も)日本の言語感覚ではフランス語の「シャトー」の方がロマンティックに聞こえるのは確かです。まあ、青はフランス語でも「bleu」ですが、語順が逆になるはずだと思います。この曲の表記は、「Blue Chateau」らしいから、英語で「ブルーな」と言って、そういう「シャトー」だと表現してる感じがしました。

 まあ、一つの考え方としては「ブルー」は日本に定着し日本語化している外来語。「シャトー」も聞かないではないけれど、意味を分からない人は(特に当時は)多かったでしょう。「ブルーなChateau」という題名と考えるわけです。

 このような言葉の例で有名なものに、「フリーター」があります。ドイツ語の「勤労者」を意味する「アルバイター」(Arbeiter)に、日本で英語の「フリー」を付け、さらに略語となったという複雑な「和製造語」です。これは外国語では正式には何と言うのだろうという問い自体が成り立ちません。「正社員」と「アルバイト」という枠組みがない国では、そういう言葉が必要ないので。

 これも僕は「フリー・ワーカー」ではダメなのか。略語「フリーカー」でいいではないか、と思ったりします。これも一つの解釈は「アルバイト」がすでに日本語化しているとみなすことです。「アルバイター」はなじみがないですが、何となくアルバイトする人の意味だろうとわかるわけです。で、その日本語化した「アルバイト」を「アルバイター」にして、「フリー」を付けて、さらに省略したと。

 こういう言葉に違和感を持つ必要があるのかないのか、自分でも判りませんが、注意してみていると結構あるものです。特にドライブ中に「ラブホテル」の看板を見てると、時々ある。「ホテル・セゾン」とか「クリスタル・シャトー」とかありそうでしょ。

 僕には違和感があるし、何も外務省が言わなくてもいいのでは、と思うわけ。「英語」という表記の問題もあるけれど、今はそれは置き、外国語の国籍混ぜこぜ問題だけ。別にそれほど文化的ナショナリストではないんだけど、できれば「やまとことば」で表現していったほうがいいのではないかという気持ちはあります。僕は「フェスタ」は「まつり」でいいのではないかと思うけど。
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「ライブ」の重要性①-「現場を踏む」こと

2012年10月07日 01時13分53秒 | 若い人へのメッセージ
 若い人向けの話、続き。人は「孤独」も大切である、「本」を読まねばならないという話を書いた。人生には家にこもって本を読みふけるような時間も大事なんではないか。でも永遠に家にいるわけにもいかないし、恋愛小説をいくら読んでも実際の恋愛体験がないのでは意味がない。僕は昔から「書を持って家を出よう」をモットーにしてきた。だから、次には「ライブの重要性」の話。ライブと言うと音楽のコンサート、ライブハウスに行くようなイメージがあるが、ここではもっと広く、「生のもの」という感じで使う。「生」というか「ほんもの」。音楽や演劇に行くのもそうだけど、「絵を美術館に見に行く」も、絵はモノで生きてはいないけど、「本物を実際に見に行く」という意味で、ライブ体験と考える。スポーツも当然ライブ動物園に行くのも「動物のライブショーを見に行く」。皆カネがかかるなあというなら、裁判の傍聴がタダのライブ体験デモや集会もライブである。そういう「現場に身を置く」ことの重要性。(ただし、事件現場を見に行って、テレビカメラに向かって手を振るようなことはなし。樋口祐介「ピース」中公文庫を読むこと。)

 演劇や落語の話は次回回しで、今回はそれ以外の「ライブ」の話。昔、松川事件という冤罪事件で被告人の文集「真実は壁を透して」という本を作った。それを作家の広津和郎が読んで、どうも気にかかる、無実の死刑囚ではないかと思った。そこで面会をしてみて「被告人の目が澄んでいた」と感じた。裁判も傍聴しおかしいと思った。当時は「目を見ただけで有罪無罪が判るのか」と、批判と言うよりむしろカラカイの対象にされたが、中央公論に数年間にわたり「松川裁判」を連載し、裁判のおかしさを追求した。現地調査も行い、幅広い支援運動も広がり、結局無罪判決になる。このように広津を書きたてたのは、間違いなく面会や傍聴と言う「ライブ体験」だったと言える。実際に体を動かして調べるというのは、こうして人生と歴史を変えることもある

 しかし、そういう事例を最初に書くと、人生を変えるような体験が待っているかと思うと気軽に行けなくなってしまうかもしれない。大丈夫である。広津和郎は有名な作家だった。有名でもなんでもない人が集会やデモに参加しても、それっきりで自分で考えないと後は何もない。ただ大学なんかで安易に参加すると、党派的、宗教的なセクトだったりすることもないとは言えない。また商業的な営業でしかなかったということもある。地方から大学に出てきてまだ友人もあまりないなんて時には、「さびしいあなたをねらう企み」も確かにある。そこは注意しておかないといけない。一番大事なことは、配ってるチラシは貰ってもいいけど、怪しい場合はスルーする技術、である。電話も同じ。

 「ライブ」になると他人との関係も生じるので、危ない場合もないわけではないということである。ただし、心配し過ぎると何もできないそれより大きな問題はお金である。何をするにせよ、カネがかかる。最低、交通費はかかる。じゃあ近所の公園まで散歩するのではダメか。それでいいんだけど、それは「ライブ体験」ではなくて、「プチ旅行」と考えたい。「旅のすすめ」はまた別に書くので、その時に。そこで「ライブ体験」という場合、通学・通勤定期がある場合は、それを利用して行けるところを見つけてみようということが基本。僕の場合、学生の時は上野で乗り換えていたので、動物園や博物館にはよく行った。落ち込んでいるときのおススメは、動物園の猿山と国立博物館の仏像コーナー。たまに仏像、ちゃんと見ると心慰められますよ。絶対おススメ。

 それよりなんで「生」を聞く意味があるのだろう。演劇はまあ見るなら生で見るのが普通だが、音楽なんかは普通はCDや携帯プレーヤーで聞く。またはテレビ、ラジオで聞く。洋の東西、歌手の名前は何百人と知ってるけど、生で聞いたことがある人はとても少ないはずである。それを生で聞くというのは、確かに貴重でファンならぜひ聞きたい。そう思う人は多いから、カネは高いしチケットは取れない。それに人気コンサートや演劇は事前にチケットを買っておくことが多いけど、当日の出来は保証されていない。映画なんかだと評判を聞いてから見に行くことができる。それなのになんで行くのか。いや、行かない人も多いわけだけど、僕は何回かは若いときに是非行くべきだと思う

 はっきり言って、その最大の理由は「自己満足体験」だと思う。たまには高い旅館、ホテルに泊まってみるとか、そういうことも大事なんではないか。読書だって、よく判らなくてもドストエフスキーとか挑戦してみた方がいいのと同じ。まずは「自己満足」を求めないと。だから話題のコンサートや演劇を、特にファンでもないけど有名だから高いお金を出しても行ってみようかなというノリも大事だろう。それが何になるかと思う人はやめた方がいいでもその分人生が貧しくならないか。確かに見て時間とカネの損だったと思う時もある。そういうことにこだわってるなら行かない方がいい。「人生にはムダ金が必要」ということを学ぶのも大事。

 それと「伝説を目撃する」ということ。何十年もかけた「人生への投資」である。僕の若い頃は「(古今亭)志ん生がどうこう」「(尾上菊五郎)六代目はどうこう」というような人が結構いた。僕が生で知ってるはずがない。誰かを見てるとそれだけで威張れる時代がそのうちくるのである。そう思って、売れるかもしれないアイドルに通えばいいけど、時の流れに中に消えてしまうかもしれない。わからない。若いときは好きなものしか見ない。僕も紅テントや黒テントは何度も見てるが、杉村春子も森繁久弥も生で見なかった。お金が高いとはいえ、見ようと思えば見れただろう。みんないつか亡くなるし、自分も年を取ると知ってはいたけど、実感がなかった。誰とは言わないが、今のうちに聞いておいた方がいい人は多い。

 外国人の場合は機会が限られているので、かえって見に行く気になりやすい。僕はカラヤンもカール・ベームも行った。行ったからと言って、もう忘れてしまったけど、まあ「聞いたという体験」に「自己満足」できるということだ。また、マザー・テレサの講演会も聞いた。そういう機会を逃さないことが重要だと思う。でもそういう「超大物」の場合は、クラシックでもポピュラーでも、あるいは講演会なんかでも「発見」はないことが多い。

 「生」を聞くことにすごく強い思い入れを持っていると、詰まらなかったり判らなかったりすると、ガッカリ度が高い。イチローも見に行ったけど、見たときに活躍するとは限らない。スポーツの場合はテレビの方が大きくて判りやすいかもしれない。そういうガッカリ体験も含めて、「ライブの面白さ」。何でも見たり聞いたりする好奇心が一番大事。ただ、演劇や落語は他に是非見て置いた方がいい理由がある。それは次回。
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