新書について書くと言いつつ、ずっと書いてない。政治の話題も書きたいことが本当は多いんだけど、なかなか書いていられない。そんな中で、パソコンの遠隔操作で犯罪予告メールを送られた件については、書いておきたいと思う。この問題では4人が逮捕され、大学生が逮捕された事件では、すでに保護観察処分が決定されていた。土曜日に警察や検察の責任者が謝罪に訪れたという。
この事件に見られる捜査のいい加減さ、冤罪の問題については、布川事件の桜井昌司さんがブログで早くから指摘していたが、初めは遠隔操作ウィルスの危険性に皆驚いてしまい、これが大規模な冤罪事件であることを追求していなかった。ようやく最近になって、いろいろ報道が始まってきた。昔から「日本に冤罪はどのくらいあるか」ということが問題になる。無罪になった事件、有罪だったけど再審を求める事件。問題はそれらだけではない。裁判では被告が有罪を認め、弁護士も寛大な判決をとしか言わない事件。そのような事件の中に冤罪が隠れているのである。そのことは富山県の氷見事件が示している。この事件では実刑が確定し、すでに刑務所を出所していた。その後に真犯人が明らかになったのである。現在、国賠訴訟を闘っている。「富山冤罪国賠を支える会」参照。
そういう恐ろしい事情を考えると、果たして冤罪事件がどのくらいあるか、測り知れないものがある。どうしてそういうことになるのだろうか。それは「人質司法」という取り調べを行うからである。この学生の場合、「認めないと少年院」と言われたと告発している。警察は言ってないと主張しているらしいが、もちろん言ってるに違いない。常套手段である。そして、実際に「認めることにした」ことで、「保護観察処分」で済んでいる。「自白」しないと不利になるのである。場合によっては何週間も逮捕され、接見も認められない。それほど重い刑が考えられない事件の場合、一審が始まるまで外に出られないで会社を首になり、家族や友人を失うくらいなら、認めて謝って数日で出た方が「有利」である。数日なら病気で連絡できなかったことにできるし、謝ったことで執行猶予になる可能性が断然大きくなる。弁護士を頼んで裁判で徹底的に争うと、弁護料がかさむうえ、裁判官に「反省してない」と思われ罪が重くなる。裁判官の多くは検察側に近い判断をすることが多いし、最高裁まで争えば10年かかってしまう。
ところで、そういう問題は刑事裁判の冤罪問題に限らないのである。日本では、すべての問題で、「自己主張をすると不利になる」というシステムが出来上がっている。日本では、ではなく、世界のほとんどの国できっとそうだろう。なんでもいいけど、不当な目にあった場合は、自己主張しないで、黙ってガマンして「はい、はい」と上の言うことを聞いて、「おとなしくしてれば、見逃してくれる」のである。どんな問題でもそうで、自分の主張をしないすべを身に付けていかないと、日本社会を渡っていけないのだ。それが司法の場で現れているのが、冤罪という問題。でも冤罪捜査を通して、日本社会が透けて見えてくる。
今回不思議なのは、警察と検察が謝罪したのに、裁判所は何故謝罪しないのかということ。家庭裁判所では、本人が認めて謝罪の意思を見せたので、ほとんど事実に踏み込まず「保護観察」にしたに違いない。今度東電OL殺人事件の再審が始まるわけだが、再審というものは請求人か検察側が求めて、初めて開始するかどうかが決まる。裁判所が自分で開くことができない。しかし、裁判所の決定こそが最終のもので、無実の被告に有罪を宣告したことこそが一番の問題ではないか。その裁判所は再審が開始され無罪を言い渡す時も、謝罪することはほとんどない。(少しはあったが。)今回も裁判所の謝罪は何故ないのか。誰も不思議に思わないのが不思議。
もう一つ、「誤認逮捕」と言われる問題について。「間違って逮捕された」ことが問題だとされている。しかし、「誤認」と「逮捕」は別である。遠隔操作を疑ってなかったんだから、「誤認」されたことはある意味仕方ない。遠隔操作されたパソコンが押収され調べられるのも仕方ない。で、パソコン内に送信の跡が残っていて、それが犯人である証拠だというならば、もう逮捕する必要がないではないか。証拠は万全、警察がパソコンを押収して証拠隠滅の恐れは皆無。そのまま「在宅起訴」すればいい。それを逮捕までするのは、警察、検察の中で、「自白」「動機の解明」で、ストーリイをうまく作る、それこそが捜査だと思い込んでいるわけである。確かに殺人罪などの場合、動機の解明で殺人罪が傷害致死、過失致死、過剰防衛、正当防衛などの可能性がはっきりしてくる場合がある。動機の解明に踏み込んで行く必要も高い。でも今回のような犯罪予告だけの場合、そういうストーリイは被告、弁護側が主張するならともかく、検察側があえて踏み込む必要がどれだけあるだろうか。
これも捜査だけの問題ではない。学校でいじめなどの問題が起こった場合も同じ。会社などでも同じだろう。「自白」があり、「謝罪」があることが、日本では認識の必須の前提なのだ。「私小説風土」、「談合社会」とでも言えばいいだろうか。この鬱陶しさ。きちんと科学的証拠に基づく捜査を行うということは、他分野での「情による不明朗取引」をなくしていくような取り組みと一緒に進める必要がある。
この事件に見られる捜査のいい加減さ、冤罪の問題については、布川事件の桜井昌司さんがブログで早くから指摘していたが、初めは遠隔操作ウィルスの危険性に皆驚いてしまい、これが大規模な冤罪事件であることを追求していなかった。ようやく最近になって、いろいろ報道が始まってきた。昔から「日本に冤罪はどのくらいあるか」ということが問題になる。無罪になった事件、有罪だったけど再審を求める事件。問題はそれらだけではない。裁判では被告が有罪を認め、弁護士も寛大な判決をとしか言わない事件。そのような事件の中に冤罪が隠れているのである。そのことは富山県の氷見事件が示している。この事件では実刑が確定し、すでに刑務所を出所していた。その後に真犯人が明らかになったのである。現在、国賠訴訟を闘っている。「富山冤罪国賠を支える会」参照。
そういう恐ろしい事情を考えると、果たして冤罪事件がどのくらいあるか、測り知れないものがある。どうしてそういうことになるのだろうか。それは「人質司法」という取り調べを行うからである。この学生の場合、「認めないと少年院」と言われたと告発している。警察は言ってないと主張しているらしいが、もちろん言ってるに違いない。常套手段である。そして、実際に「認めることにした」ことで、「保護観察処分」で済んでいる。「自白」しないと不利になるのである。場合によっては何週間も逮捕され、接見も認められない。それほど重い刑が考えられない事件の場合、一審が始まるまで外に出られないで会社を首になり、家族や友人を失うくらいなら、認めて謝って数日で出た方が「有利」である。数日なら病気で連絡できなかったことにできるし、謝ったことで執行猶予になる可能性が断然大きくなる。弁護士を頼んで裁判で徹底的に争うと、弁護料がかさむうえ、裁判官に「反省してない」と思われ罪が重くなる。裁判官の多くは検察側に近い判断をすることが多いし、最高裁まで争えば10年かかってしまう。
ところで、そういう問題は刑事裁判の冤罪問題に限らないのである。日本では、すべての問題で、「自己主張をすると不利になる」というシステムが出来上がっている。日本では、ではなく、世界のほとんどの国できっとそうだろう。なんでもいいけど、不当な目にあった場合は、自己主張しないで、黙ってガマンして「はい、はい」と上の言うことを聞いて、「おとなしくしてれば、見逃してくれる」のである。どんな問題でもそうで、自分の主張をしないすべを身に付けていかないと、日本社会を渡っていけないのだ。それが司法の場で現れているのが、冤罪という問題。でも冤罪捜査を通して、日本社会が透けて見えてくる。
今回不思議なのは、警察と検察が謝罪したのに、裁判所は何故謝罪しないのかということ。家庭裁判所では、本人が認めて謝罪の意思を見せたので、ほとんど事実に踏み込まず「保護観察」にしたに違いない。今度東電OL殺人事件の再審が始まるわけだが、再審というものは請求人か検察側が求めて、初めて開始するかどうかが決まる。裁判所が自分で開くことができない。しかし、裁判所の決定こそが最終のもので、無実の被告に有罪を宣告したことこそが一番の問題ではないか。その裁判所は再審が開始され無罪を言い渡す時も、謝罪することはほとんどない。(少しはあったが。)今回も裁判所の謝罪は何故ないのか。誰も不思議に思わないのが不思議。
もう一つ、「誤認逮捕」と言われる問題について。「間違って逮捕された」ことが問題だとされている。しかし、「誤認」と「逮捕」は別である。遠隔操作を疑ってなかったんだから、「誤認」されたことはある意味仕方ない。遠隔操作されたパソコンが押収され調べられるのも仕方ない。で、パソコン内に送信の跡が残っていて、それが犯人である証拠だというならば、もう逮捕する必要がないではないか。証拠は万全、警察がパソコンを押収して証拠隠滅の恐れは皆無。そのまま「在宅起訴」すればいい。それを逮捕までするのは、警察、検察の中で、「自白」「動機の解明」で、ストーリイをうまく作る、それこそが捜査だと思い込んでいるわけである。確かに殺人罪などの場合、動機の解明で殺人罪が傷害致死、過失致死、過剰防衛、正当防衛などの可能性がはっきりしてくる場合がある。動機の解明に踏み込んで行く必要も高い。でも今回のような犯罪予告だけの場合、そういうストーリイは被告、弁護側が主張するならともかく、検察側があえて踏み込む必要がどれだけあるだろうか。
これも捜査だけの問題ではない。学校でいじめなどの問題が起こった場合も同じ。会社などでも同じだろう。「自白」があり、「謝罪」があることが、日本では認識の必須の前提なのだ。「私小説風土」、「談合社会」とでも言えばいいだろうか。この鬱陶しさ。きちんと科学的証拠に基づく捜査を行うということは、他分野での「情による不明朗取引」をなくしていくような取り組みと一緒に進める必要がある。