言葉の問題。東京新聞10月10日、毎日放送が被災地を長期取材した映画「生き抜く 南三陸町 人々の一年」を作ったという記事。映画は13日からポレポレ東中野で上映。
その中で見出しで「ナレーションなく、空気感はテレビ以上」とある。本文中には「ナレーションがストーリーを導くテレビの手法をやめ、集中して見ていただくことで被災地の空気感をテレビ以上に出せる」。
この「空気感」という言葉を最近は多く聞くようになった。これに違和感がある。この言葉は最近使われるようになったと見えて、変換しようと思っても一度ではできない。「新明解国語辞典」にも出ていない。「空気」が付く言葉では「空気銃」「空気伝染」「空気ポンプ」「空気枕」が載っているのみ。「空気」の意味を見ると、①地球上の大部分の生物がそれを吸って生きている気体 ②その場の人たちを支配する志向のあり方(雰囲気) の2つ。
②の用例としては、「歩み寄りのーが生まれる」「分離独立の-が高まる」「保守的なーが強い」「譲歩するーがかもしだされる」「気まずいーが漂う」「-の読めない人」が挙げられている。やっぱりちょっと変。
では「空気感」をインターネットで検索してみると、ウィキペディアにあって「空気感(くうきかん)とは芸術表現に用いられる形容の一つ。そのものが直接的に表現されていなくても、間接的な情報のみで存在することが示唆されている様子を表す。写真表現で用いられる場合は、二次元である写真がまるで立体のように見えることを指す。(後略)」
もともとは写真なんかで使われた「芸術用語」=「業界用語」だったということがわかる。現実を映像で切り取って二次的表現として作り上げるときには、「どのように見えるか」という観点が欠かせない。そこで写真やテレビ、映画なんかでは、「現場の状況をいかにリアルに伝えるか」の言葉として「空気感」が使われるのだと思う。でも、被災地の映像を見る我々は、「どのようにすればリアルに見えるかの技術」などは別に見る必要はない。知りたいのは被災地の「現実の状況」である。それはすべてを描くことはできない。だから製作責任者(監督)が、自分の目で見て自分で編集した表現を見ることになる。それは「被災地の空気感」ではなく、「被災地の空気」を伝えるものでなくてはいけない。
それは「新明解」の②の意味の「空気」である。でも、最近「空気感」という言葉がよく使われる。何故かというと、僕が思うに二つある。昔も簡単に写真は撮っていたが、今の方が動画を一般の人が撮る機会が増えた。それもパソコンで編集することが容易になった。「現実」がどう映像に写し撮られるかに関心が高くなっているのだろう。だから、「この場の空気」と言えば済むところを「空気感」という。誰かが携帯かデジカメで写真か動画を撮っているのであろう。皆が集まる場で。
もう一つが、「空気」は見えないものだったけど、「今は見える」ということだ。現実の空気は見えないから、見えないもののたとえに使われたわけだ。でも、見えなかった雰囲気というものが、今は「見えなければいけないもの」とされてしまった。その場その場で変わっていくから、「空気」「風」と言われたものが、「一度決まってしまったらもう動かない」。その場の雰囲気で決まるのではなく、誰かを排除するという場合は、もうすでに決まっていてそれに従うしかない。「空気」が流動物ではなく固体化してきたのである。町のあちこちに監視カメラがあるような、そういう状況に合わせて、「空気」が読むべきテキストとして眼前にあるようになった。だから、「空気」だけで「感じるもの」に決まっていたものが、今ではさらに「空気感」と言って、あえて「空気というものを感じるという意味を表す言葉」を作らなければいけないようになったのではないか。
一方、「目線」という不思議な言葉が最近は一般的に使われている。これも本来は「業界用語」である。これは「新明解」にも載っていて、
①(舞台、映画撮影などで)演技者やモデルなどの目の向いている方向・位置・目の角度など。[俗に「視線」の意でも用いられるが、「目線」は目の動きに応じて顔も動かす点が異なる。]
②ものの見方やとらえ方。「上から[=相手を立場が下だと見くだしたような]-」「子どものーで見る」
このように、元は映画や演劇の用語だが、それがテレビを通して一般化して行ったのだと思う。だから、その元々の使い方から、「目の動きで演技する」=「受け取られ方を気にして、本心ではないけど、そう見せる」と言うようなニュアンスが出てくる。悪役は本当に悪人なのではなく、演技で目を剥いたりする表現をして、大げさに悪党ぶりを印象づける。その時の観客やカメラを意識した目の動きが「目線」だから、「目線」という言葉を使うと、この「見られていることを意識した動き」という感じが残るわけである。政治家が国民受けするような言葉を発するときも、見聞きする側が「本心ではなく受け狙いだろう」などと思っているから、「国民目線の政治」などと言う表現が普通になってしまったのではないか。
検察審査会が小沢一郎氏を「強制起訴」=「二度目の起訴相当決議」を行った時も、その理由の中に「市民目線」という言葉が出てきて、僕はビックリしてしまった。この「強制起訴制度」そのものも、「裁判で決着をつける方がいい」という考え方で作られているらしい。でも政治家でも有力財界人でも、国民を起訴するときの基準は同じようなもの(証拠により有罪が完全に証明されると考えられる場合)でなければおかしい。初めから制度が「受け狙い」的なものだった。だからだろうか、「市民目線」で納得できないという言葉が出てくるのだろうと思う。
ではなんと言えばいいのか。「きっちりとして動かぬ基準で物事を見る」という意味で使うなら、「視点」ということになるだろう。昔は「視座」などと言う言葉をよく使った人もいる。変換したら一度で出たから、今も生き残っているのだろう。「民衆的視座」とか「底辺からの視座」とか言ったけど、別に「視点」と同じではないかと僕は思っていた。物事を自分なりの見方で焦点を合わせようとするときの基準は「視点」ではないか。これも近代ヨーロッパの絵画表現の「遠近法」的な用語だと思うが。「一つの視点」からはもう世界は見えて来ない、自分の「目線」で気になる範囲を切り取るしかないんだと言われるかもしれない。まあ、そういう意味で「近代」が崩れて、「自分がどう見られるか」しか意味がない時代が来たのかもしれない。でも、僕は「目線」ではなく、「視点」を使いたい。
その中で見出しで「ナレーションなく、空気感はテレビ以上」とある。本文中には「ナレーションがストーリーを導くテレビの手法をやめ、集中して見ていただくことで被災地の空気感をテレビ以上に出せる」。
この「空気感」という言葉を最近は多く聞くようになった。これに違和感がある。この言葉は最近使われるようになったと見えて、変換しようと思っても一度ではできない。「新明解国語辞典」にも出ていない。「空気」が付く言葉では「空気銃」「空気伝染」「空気ポンプ」「空気枕」が載っているのみ。「空気」の意味を見ると、①地球上の大部分の生物がそれを吸って生きている気体 ②その場の人たちを支配する志向のあり方(雰囲気) の2つ。
②の用例としては、「歩み寄りのーが生まれる」「分離独立の-が高まる」「保守的なーが強い」「譲歩するーがかもしだされる」「気まずいーが漂う」「-の読めない人」が挙げられている。やっぱりちょっと変。
では「空気感」をインターネットで検索してみると、ウィキペディアにあって「空気感(くうきかん)とは芸術表現に用いられる形容の一つ。そのものが直接的に表現されていなくても、間接的な情報のみで存在することが示唆されている様子を表す。写真表現で用いられる場合は、二次元である写真がまるで立体のように見えることを指す。(後略)」
もともとは写真なんかで使われた「芸術用語」=「業界用語」だったということがわかる。現実を映像で切り取って二次的表現として作り上げるときには、「どのように見えるか」という観点が欠かせない。そこで写真やテレビ、映画なんかでは、「現場の状況をいかにリアルに伝えるか」の言葉として「空気感」が使われるのだと思う。でも、被災地の映像を見る我々は、「どのようにすればリアルに見えるかの技術」などは別に見る必要はない。知りたいのは被災地の「現実の状況」である。それはすべてを描くことはできない。だから製作責任者(監督)が、自分の目で見て自分で編集した表現を見ることになる。それは「被災地の空気感」ではなく、「被災地の空気」を伝えるものでなくてはいけない。
それは「新明解」の②の意味の「空気」である。でも、最近「空気感」という言葉がよく使われる。何故かというと、僕が思うに二つある。昔も簡単に写真は撮っていたが、今の方が動画を一般の人が撮る機会が増えた。それもパソコンで編集することが容易になった。「現実」がどう映像に写し撮られるかに関心が高くなっているのだろう。だから、「この場の空気」と言えば済むところを「空気感」という。誰かが携帯かデジカメで写真か動画を撮っているのであろう。皆が集まる場で。
もう一つが、「空気」は見えないものだったけど、「今は見える」ということだ。現実の空気は見えないから、見えないもののたとえに使われたわけだ。でも、見えなかった雰囲気というものが、今は「見えなければいけないもの」とされてしまった。その場その場で変わっていくから、「空気」「風」と言われたものが、「一度決まってしまったらもう動かない」。その場の雰囲気で決まるのではなく、誰かを排除するという場合は、もうすでに決まっていてそれに従うしかない。「空気」が流動物ではなく固体化してきたのである。町のあちこちに監視カメラがあるような、そういう状況に合わせて、「空気」が読むべきテキストとして眼前にあるようになった。だから、「空気」だけで「感じるもの」に決まっていたものが、今ではさらに「空気感」と言って、あえて「空気というものを感じるという意味を表す言葉」を作らなければいけないようになったのではないか。
一方、「目線」という不思議な言葉が最近は一般的に使われている。これも本来は「業界用語」である。これは「新明解」にも載っていて、
①(舞台、映画撮影などで)演技者やモデルなどの目の向いている方向・位置・目の角度など。[俗に「視線」の意でも用いられるが、「目線」は目の動きに応じて顔も動かす点が異なる。]
②ものの見方やとらえ方。「上から[=相手を立場が下だと見くだしたような]-」「子どものーで見る」
このように、元は映画や演劇の用語だが、それがテレビを通して一般化して行ったのだと思う。だから、その元々の使い方から、「目の動きで演技する」=「受け取られ方を気にして、本心ではないけど、そう見せる」と言うようなニュアンスが出てくる。悪役は本当に悪人なのではなく、演技で目を剥いたりする表現をして、大げさに悪党ぶりを印象づける。その時の観客やカメラを意識した目の動きが「目線」だから、「目線」という言葉を使うと、この「見られていることを意識した動き」という感じが残るわけである。政治家が国民受けするような言葉を発するときも、見聞きする側が「本心ではなく受け狙いだろう」などと思っているから、「国民目線の政治」などと言う表現が普通になってしまったのではないか。
検察審査会が小沢一郎氏を「強制起訴」=「二度目の起訴相当決議」を行った時も、その理由の中に「市民目線」という言葉が出てきて、僕はビックリしてしまった。この「強制起訴制度」そのものも、「裁判で決着をつける方がいい」という考え方で作られているらしい。でも政治家でも有力財界人でも、国民を起訴するときの基準は同じようなもの(証拠により有罪が完全に証明されると考えられる場合)でなければおかしい。初めから制度が「受け狙い」的なものだった。だからだろうか、「市民目線」で納得できないという言葉が出てくるのだろうと思う。
ではなんと言えばいいのか。「きっちりとして動かぬ基準で物事を見る」という意味で使うなら、「視点」ということになるだろう。昔は「視座」などと言う言葉をよく使った人もいる。変換したら一度で出たから、今も生き残っているのだろう。「民衆的視座」とか「底辺からの視座」とか言ったけど、別に「視点」と同じではないかと僕は思っていた。物事を自分なりの見方で焦点を合わせようとするときの基準は「視点」ではないか。これも近代ヨーロッパの絵画表現の「遠近法」的な用語だと思うが。「一つの視点」からはもう世界は見えて来ない、自分の「目線」で気になる範囲を切り取るしかないんだと言われるかもしれない。まあ、そういう意味で「近代」が崩れて、「自分がどう見られるか」しか意味がない時代が来たのかもしれない。でも、僕は「目線」ではなく、「視点」を使いたい。