尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

戸定(とじょう)邸(旧徳川昭武庭園)を見る

2016年11月20日 22時44分54秒 | 東京関東散歩
 爽快な小春日和の一日、松戸市にある戸定(とじょう)邸に行ってきた。知ってる人は多くないかもしれないが、徳川昭武という人が作った屋敷と庭園。家は重要文化財、庭園は名勝に指定されている立派なものである。でも、歴史的な出来事が起こったわけでもなく、都内から少し出ているから松戸市以外の人には知らない人が多いんじゃないか。僕もそういうのがあるとは知っていたが、初めて。庭園を復元する工事が行われるため、11月30日から庭園に下りられないと東京新聞に載っていたので、行ってみる気になった。(5と10の日に公開されるので、25日は庭に行ける。なお、戸定はこの地の地名。)
   
 庭から見た全景が一番判りやすいので、最初に写真を載せておきたい。ここは、千葉県松戸市の松戸駅から徒歩10分ぐらい。JR北千住駅から常磐線快速で1駅、あっという間である。東口を降りて、町中を通って南の方に向かうと案内表示が出てくる。丘の上に立つお屋敷で、こんなところがあったのかという感じだった。徳川昭武(1853~1910)は水戸藩最後の藩主である。徳川斉昭の18男で、御三卿の一つ清水家を継いだ。つまり、最後の将軍・徳川慶喜の実弟である。

 なんとなく名前に記憶があったけど、将軍慶喜の名代として、1867年のパリ万博に派遣された人物だった。渋沢栄一が随行員に入ってた時である。欧州各国を見て回り、ナポレオン三世やヴィクトリア女王にもあったという。年齢を見ると、今の中学生の年である。そんな人もいたわけだ。しかし、帰る前に大政奉還になってしまった。そして水戸藩主の兄も亡くなり、若くして「内戦」で疲弊した水戸藩主になった。でも、今度は廃藩置県で藩もなくなり、陸軍に仕官したり外国へまた派遣された。
  
 何で松戸にあるの? と思ったけど、ここは水戸街道第二の宿場町だった。(最初は千住宿で、日光街道と同じ。これは今の鉄道とも同じである。)だから、もともと水戸家にゆかりがある土地柄で、昭武はここを隠居所として、1884年に屋敷を開いたという。1890年には庭の整備も終わり、兄の慶喜もたびたび訪れた。写真という共通の趣味があり、富士山と江戸川が望める景勝の地だったのである。多くの皇族も滞在したという。そんな屋敷が市に寄贈され、今は「戸定歴史館」(上の最初の写真)も併設されている。徳川慶喜公爵家に関する展示を行っていた。慶喜に子どもが多いんでビックリした。

 すぐ近くに「戸定邸」がある。歴史館と邸宅は有料。(共通券240円。)靴を脱いで上がる。結構広大なお屋敷で、こういうところは時々見るけど、なかなか立派な方だと思う。トイレがあちこちにあるけど、客人と主人一族、使用人とみんな別々なんだろう。客間が庭に面して立派。奥の方にも離れがあり、思ったより広い。昭武は1883年に妻が産後に亡くなると、隠居して松戸に住んだ。1892年に次男が子爵を授けられ、「松戸徳川家」といま呼ばれる家が成立した。ここはその本拠地だった。
   
 上の写真3枚目、4枚目は屋敷内から見た庭で、3枚目は南側の庭園を、4枚目は西側を見たもの。4枚目は富士山が向こうに見えるときがあるという方向。下の2枚目はお風呂場で、こんなだったのか。
   
 3枚目と4枚目は客人向けの部屋で、入り口から入ってすぐ左にある。コウモリの欄干は、縁起がいいものなんだという。最初に書いたけど、庭に出られるのは今しかない。というのも、完成当初から庭園の様子もかなり変わってしまったので、それを復元するんだという。最初の様子がなんでわかるかというと、昭武は写真マニアだったから残っているわけである。まあ、そんな長い工事でもないようで、来年半ば過ぎには終わるようだ。屋敷の周りは「戸定が丘歴史公園」として無料エリアとして公開されている。ちょうど紅葉が進んできて、かっこうの散歩道として親しまれているようだった。
   
コメント
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