尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

マーティン・スコセッシの映画「沈黙」①

2017年03月02日 21時24分06秒 |  〃  (新作外国映画)
 遠藤周作の傑作「沈黙」の二度目の映画化作品が公開されている。アメリカの巨匠、マーティン・スコセッシが長年温めていた企画で、162分の大作になっている。公開されて一カ月以上経つけど、時間が長いからなかなか見る機会がなかった。ちょっと前にようやく見たんだけど、これも大きなスクリーンで見るべき映画だった。関心がある人は早めに見た方がいい。映画館に見に行く価値のある力作。

 論点がかなりあるので、一回で書くには長そうだ。最初はまずスタッフやキャストの情報などを中心に書いてみたい。この映画はスコセッシ作品でも、力作度は相当に高いけど、アカデミー賞では撮影賞ノミネートに留まった。ある意味、判らないでもない。テーマが一般的でないうえに、出演者もほとんどが日本人である。台湾で撮影されたけど、物語の中では「日本」である。多くのアメリカ人にとっては、縁遠い映画というしかないだろう。2003年の「ラストサムライ」のような「オリエンタリズム」に則った映画ではなく、宗教をテーマにした「純文学」の映画化である。

 それは日本人にとっても、ある程度は同じである。遠藤周作の原作は有名な傑作だから、読んでる人は多いだろう。江戸時代初期のキリスト教禁圧政策に関しても、学校教育である程度は知っているだろう。例えば、映画で重要な意味を持つ「踏絵」を知らない人はいないはずだ。(レプリカを教材会社で割に安く売ってるので、僕も授業で使っていた。)

 そういう意味では、日本人ならアメリカ人よりは映画の内容に知識はあると思う。でも、16世紀初頭のキリスト教弾圧をどう思うかなんて言われても、答えようがない。ヨーロッパでは新旧のキリスト教で殺し合いを続けていた時代に、日本ではこの映画のようなことがあった。大昔はひどかったなあ。まあ、そんなものだろう。キリスト教はもちろん、宗教一般に多くの日本人はあまり大きな問題意識を持っていない。問われればブッディストと答えるかもしれないけど、クリスマスも楽しみ、初詣も楽しみ…。

 それに、日本人は日本人俳優が演じて日本語を話しているけど、アメリカ人俳優が演じているのは実はポルトガル人である。16世紀初頭に、何でポルトガル人がイングランド語を話しているのか。日本側の通詞(浅野忠信)もイングランド語を話せる設定である。まあ、そこまで現実にこだわる必要もないかと思うけど、おかしいと言えばおかしい。だから、映画の最初の方は、「なんで今映画化するんだろう」みたいな疑問も頭をかすめる。でも、僕はだんだん映画に引き込まれていった。

 それは日本人キャストの頑張りによるところが大きい。今書いた通詞役の浅野忠信の、早く転んで欲しいような、実は転んでほしくないような屈折した演技は、非常にうまい。転びと告解を繰り返すキチジロウ(窪塚洋介)も印象的。どう理解するべきか、いろいろ解釈できると思う。「弱さ」か「狡猾さ」か、「信仰心」があるのかないのか。それも窪塚の演技が印象的だからだ。弾圧役の井上筑後守(イッセー尾形)も評判になっているようにうまい。

 だけど、やっぱり一番心に残るのは、パードレ(神父)を最初に受け入れるトモギ村のリーダー、イチゾウモキチだろう。イチゾウ役は笈田ヨシである。1933年生まれだから、なんと83歳。パリ在住で、ピーター・ブルックのもとで演出を学び、多くの舞台を作り上げてきた。伝説的な存在で、今年も新国立劇場で「蝶々夫人」を演出したばかりである。日本映画でも「豪姫」の秀吉、「最後の忠臣蔵」の茶屋四郎次郎などを演じている。伝説的な役者の格調高い演技には心打たれる。

 そして、モキチ役は塚本晋也。言うまでもなく、「野火」「鉄男」などの監督である。スコセッシも、「六月の蛇」の監督がオーディションに来たのかとビックリしたらしい。でも、驚くべき演技である。イチゾウとモキチは、海辺で磔(はりつけ)になるが、満潮時に海水の下にある位置で、時間をかけて死に至らしめる残酷な刑である。それを実際に演じているのだから、単なる演技という言葉では語れない。あくまでも権力に屈しない、気高い心を示し、荘厳な映像美とあいまって感動的である。

 このような日本人役者の、信者側、弾圧側双方の熱演は、スコセッシも絶賛している。それはこの映画を支えていると言っていい。日本に潜入する二人の神父、あるいはすでに棄教して日本名を与えられているフェレイラ神父(実在人物である)は、そのような日本側キャストがあっての演技にならざるを得ない。フェレイラはリーアム・ニーソンが演じて、存在感がある。一応主役と言えるロドリゴ神父は、アンドリュー・ガーフィールド(「アメイジング・スパイダーマン」)。もう一人のガルぺ神父アダム・ドライヴァー(「スターウォーズ/フォースの覚醒)」。

 まあ、このようなキャスト紹介をこれ以上続けても仕方ない。この映画は全体として、どう評価すればいいのか。今ひとつ見た後でもよく判らないところがある。だけど、明らかに力作だし、ぜひ見るべき映画になっている。ただ、キリスト教弾圧をどう考えるかという大問題が、そのままでは自分には遠いという感じがする。だけど、見ている間に「これは今もある問題だ」という思いが強まっていった。宗教をめぐる世界の紛争、自由を求めて権力側の暴虐と闘う人々。そういう問題意識で見れば、これは世界のいまとつながっている。だけど、スコセッシはどういう思いでこの映画を作ったのだろうか。
コメント
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