尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

素晴らしきイタリア映画の世界ーネオ+クラッシコ映画祭

2017年03月12日 21時47分44秒 |  〃  (旧作外国映画)
 恵比寿ガーデンシネマで、11日から「イタリア ネオ+クラッシコ映画祭」というのが始まった。ネオレアリズモの映画、つまり「無防備都市」や「自転車泥棒」なんかは、今もあちこちで上映されることが多い。でも「わが青春のイタリア女優たち」として上映される5本の映画は、僕はもう二度と映画館では見られないんだろうなあと諦めていた映画である。こんな企画をやる人がいるのか。

 11日に、さっそくヴァレリオ・ズルリーニの「鞄を持った女」と「激しい季節」を見て、陶然となって帰還した。いや、素晴らしい。もう一人、マリオ・ボロニーニの「狂った夜」「汚れなき抱擁」「わが青春のフロレンス」も楽しみだ。イタリアにかつて、フェリーニやヴィスコンティという巨匠がいたことは知っていても、ズルリーニとかボロリーニとか名前を憶えている人もほとんどいないだろう。

 この中でボロリーニの「わが青春のフロレンス」は、71年のキネ旬4位になっていて、僕は当時見ている。匂い立つような世紀末のフィレンツェで、階級闘争の中を生き抜く若い夫婦を絵画のような映像美に描き出した映画。時々思い出して、この映画とか「エボリ」など昔見たイタリアの素晴らしい映画をもう一回見ることはできるんだろうかと思ったりした。それが簡単に実現しちゃんだから、世の中は面白い。でも、知らなきゃ見る人もいないだろうから、少し宣伝しておく次第。

 ヴァレリオ・ズルリーニ(Valerio Zurlini、1926~1982)は、56歳で亡くなってしまって今ではあまり知られていないだろう。でも「激しい季節」(1959)と「鞄を持った女」(1961)は、いずれも「年上の女」に憧れる若き男を情熱的に描き出した映画。今も力強い魅力を持っている。前者はジャン=ルイ・トランティニャン、後者はジャック・ぺランと「フレンチ・イケメン」を起用した点でも似ている。ちなみに、ヴィスコンティもアラン・ドロンを重用したけど、イタリア映画で有名になったフランス俳優は結構いる。

 「激しい季節」は、1943年のムッソリーニ失脚の日、海辺のリゾート、リッチョーネで戦争未亡人がファシスト幹部の息子と運命的な出会いをする。若者たちのようすと未亡人を取り巻くようすをていねいに描き出し、感銘深い。パッショネートな熱情は、戦時下の不穏と相まって、否応なく高まっていく。トランティニャンがファシズム幹部をやってる「暗殺の森」との類似点も興味深い。

 一方、「鞄を持った女」は、クラウディア・カルディナ―レが「だまされた女」で登場し、だました兄の16歳の弟が親切に対応しているうちに恋に落ちる。その若い恋の初々しさ。そして、カルディナ―レの庶民的というか、ちょっと「お品がない」感じの演技が素晴らしい。カルディナ―レは「山猫」が代表だけど、「庶民的」をウリにする美人だった。この映画は中でも一番魅力的に撮られている映画かもしれない。どっちの映画も音楽がステキで、50年代頃の良質の日本映画っぽい感じもある。

 他にも「イタリア式喜劇の笑み」としてアントニオ・ピエトランジェリ監督の映画が2本。これは全く知らないので書きようがない。「現代の巨匠パオロ・ソレンティーノの初期傑作」も2本。他にもやるけど、僕はズルリーニ、ボロリーニの映画が楽しみ。イタリア映画は全般的に好きなんだけど、このように二度と見れないと思っていた映画をやるのはうれしい。政治情勢や巨匠のアートではない、恋愛映画の傑作。そういうのも大事だろう。
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ステキな「?」の「ラ・ラ・ランド」

2017年03月12日 20時58分06秒 |  〃  (新作外国映画)
 他の問題に早く移るため、WBCオランダ戦を見ながら、頑張って二つの記事を書いてしまいたい。さて、まず話題の「ラ・ラ・ランド」を見たので、その話。この映画は評判になり大ヒットもしているけど、けっこう「どうなの?」っていう感想もあるようだ。僕もどっちかというと「」の方なので、書かなくてもいいかなとも思うけど、映画ファンなら見ると書きたくなる要素が多い。出来がいいのは間違いないから、やっぱりちょっと書いておくことにしよう。

 「ラ・ラ・ランド」(題名はロサンゼルスのことで、「夢の都」というような感じでいう言葉らしい)は、現代には珍しい本格的ミュージカル映画である。わざわざシネマスコープでフィルム撮影しているというから、念が入っている。そして、冒頭の渋滞する高速道路での、突然の大乱舞。こういうのがミュージカルのお約束なわけ。事前に情報として知ってたけど、それでもうれしい。

 そうして、主人公の男女が知り合い、移ろいゆくさまをロスの四季に描いていく。もっともロスだから、「四季」といっても、ニューヨークの場合ほど自然の季節感は感じられないけど。その間に、今までの映画などの「引用」というか「オマージュ」的な場面、あるいはジャズへのオマージュのようなシーンが続く。このあたりはもっと知識があれば楽しみが倍加するんだろう。「理由なき反抗」を見て、グリフィス天文台に行くシーンなど楽しい場面が多い。

 アメリカ映画の「ジャンル映画」として、西部劇とかミュージカルがあった。映画ファンなら無条件的に好きだと思う。逆に言えば、先住民の描き方など問題を感じつつも、やっぱり西部劇が好きだと言えるのが「映画ファン」だと思う。そういうのは70年ごろには、ほとんど絶滅してしまっていた。ミュージカルでも、「屋根の上のバイオリン弾き」のようなアート映画的ミュージカルはあったけど、もっと昔の能天気なミュージカルは、80年代以後にミニシアターで見たものである。

 ジーン・ケリーの映画もいいけれど、僕が好きなのはフレッド・アステアの映画。戦前に作られたモノクロ映画だけど、とにかくアステアの超絶タップが凄い。ストーリイもご都合主義で、ただ楽しいような映画が多い。日本人はそういうのを見て、アメリカ人は軟弱だとか悪口を言っていた。戦争が始まったら、先方から和平を申し出るとか幻想を抱いていたが、アメリカ人は全然「軟弱」じゃなかった。当たり前だ。アステア映画のような「洗練の極み」のような「遊び」を作る人々ほど芯が強い。

 「ラ・ラ・ランド」の行く末は、それなりにシビアでビターな後味。筋書きも、それなりにご都合主義だけど、でも成功すれば、それがいさかいにもつながる。もうそういう風にしか描けないんだろう。人種やジェンダーの描き方にはコードがある。昔なら女が男の夢を支えて、男が成功すればハッピーエンドになる。この映画でも、そういう風に話を作ることはできるけど、それじゃダメなんだろう。もっとトコトンご都合主義にすることもできるけど、それもできないということなんだろう。

 それならそれでいいんだけど、その場合は主演者の好み、あるいは主演者のダンス能力が映画を左右してしまう。主演がライアン・ゴズリングエマ・ストーンだと知った時から、僕は幾分かの心配があった。好き嫌いは言っても仕方ないけど、やっぱり娯楽映画の基本はそれ。エマ・ストーンは、「バードマン」よりはキレイに撮ってもらってるけど、やっぱりファニーな感じがする。演技はうまいと思うけど、無条件的に応援しようというのとは違う。映画の中でも、一人芝居を書いて上演してしまうなんて、アート的才能を発揮してしまうタイプになってる。

 ということで、現代はただ能天気にミュージカルを楽しめる時代ではないということがよく判る。そういうことで、ミュージカルとしても、ラブロマンスとしても、僕には「?」が多い展開なんだけど、それでも出来がすごくいいと思う。どこにも隙がない。こういう風に出来がいい映画は年に数本だろうから、映画ファンは見るべきだろうけど、後は好き嫌いのレベルの問題ということになる。

 監督は「セッション」のデミアン・チャゼル(1985~)で、32歳でアカデミー監督賞を得てしまった。前作「セッション」も評価されたけど、僕は好きになれないので書かなかった。才能的には素晴らしいものがある。今年の監督賞は、チャゼルの他、バリー・ジェンキンズ、ケネス・ロナーガン、ドゥニ・ヴィルヌーヴ、メル・ギブソン。俳優として有名なメル・ギブソンを除いて、一般的にはほとんど知らない若手ばかりだろう。日本もそうだけど、世代交代の波が来ている感じである。
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