イタリア映画「海は燃えている」を見た。副題を「イタリア最南端の小さな島」と言って、その通りのランペドゥーサ島をめぐるドキュメンタリー映画である。2016年のべルリン映画祭金熊賞受賞作品。監督のジャンフランコ・ロージ(1964~)は、前作「ローマ環状線、めぐりゆく人生たち」(2013)でヴェネツィア映画祭金獅子賞を受けている。ドキュメンタリーで世界三大映画祭の二つでトップを取ったんだから、そりゃあ大したもんである。だけど、ぼくはその前作があまり面白くなかった。

だから、今度の映画はどうしようかなあと思っていた。数日前にシネマヴェーラ渋谷に古い日本映画を見に行くつもりが遅れてしまい、近くの文化村ル・シネマでこっちを見た。まあ、そういうことで見たり見なかったりすることもよくあることだ。で、面白いような、そうでもないようなタッチは同じような感じがした。でも、内容を伝える意味があるのと、知らないことは多いなあと思ったので書いておきたいと思った。
ドキュメンタリーなんだから、物語的に面白いことを求めるのはおかしい。だから、それはいいんだけど、映像世界が「整理」されていないと、遠い異国で見ている方にはなんだか判らないことになる。この映画が世界で評判になっているのは、「難民が押し寄せる島」という時事性にある。だけど、この映画のかなりの時間は、難民ではなくそこで暮らす島の人々を描いている。
つまり、「島の人々の暮らし」と難民の人々は「分断」されている。島に住む少年の暮らし、パチンコを自作して遊んだり、片目が悪くもう片方に眼帯をして視力アップをめざしたり、祖父に連れられ海に出て船酔いしたり…などなどが描写される。ロージ監督は、ランペドゥーサ島に1年半住み込み、カメラを回す前に3カ月かけた。その間に少年と仲良くなったのである。それはそれで面白い子どもの状況なんだけど、難民にはつながらない。映像はその間に難民の様子も映し出す。
世界はモザイクの断片だし、住民生活は「世界的大事件」と離されている。そういうことは日本でも、世界でも、よくあることだと思う。特に「先進国」では「難民」は囲い込まれていて、人々の目に触れない。押しよせる難民(年に5万人の難民が、5千5百人の住む島にやってくるという)は、海軍の船に救助(それまでに死亡するものも多いけど)され、難民たちの施設に収容される。そういう構造をそのまま映像で並列的に描いている。それが判るまでは、この映画は何だろうと思ったりもする。
監督はイタリア海軍船にも4カ月乗り込んだという。その様子はすさまじい。難民を乗せた船は、3階層に分かれていて、上部甲板にいるのは一番値段が高い。船の中でも上層階は次、最下層には安い金でたくさん詰め込まれている。病気になるものも多い。島の施設でサッカーをしている映像も出てくるが、国別に分かれてやっている。アフリカ諸国のあちこちから来ているのである。
中でも印象的なのは、ナイジェリアから来た黒人青年の、歌うように自己の人生を語る姿である。ナイジェリアと言えば、ギニア湾に面したアフリカ中部の国である。北部はイスラム過激派の根拠地となっている。だから多分政府軍の爆撃が行われるんだと思う。爆撃で多くが死に、サハラ砂漠に逃れてそこでまた多くが死に、ようやくリビアにたどり着く。リビアでとらえられ監獄でまた多くが死に、ようやく船に乗ってヨーロッパをめざしたが、また海の上で多くが死んだ。こうしてアフリカ大陸を半分近く縦断して、やっと島にたどり着いたのである。
救助する人々、島の医師などは、人間の務めとして、できる限りのことをしている。だけど、個人では世界の構造を変えられない。もちろん、映画を作っても同じだし、映画を見ても同じ。だから、監督も政治的な映画としては作っていない。島の美しい自然を「観察」しているだけである。映画に出てくるラジオ局では、電話で寄せられるリクエストに応じて、メッセージ付きでラブソングなどを掛けている。まだ、そういうことをやってるところがあるんだ。この映画も、同じように世界の個人個人にあてた「愛を込めたメッセージ」なのかもしれない。そう思うと、すさまじい現実と美しい島の自然を自分なりに受け入れられる気がしてくる。そして、なんだかジワジワと効いてくる。
ところで、ランペドゥーサ島って、どこだ? 地図で調べてビックリ。「シチリア島の南」なんて思ってたら、大間違い。イタリア半島、シチリア島とあって、その南にマルタ島がある。独立国である。ランペドゥーサ島はそこより南なので、驚いた。マルタ島とチュニジアの中間という感じ。アフリカの北であるチュニジアの首都チュニスは、ほとんどシチリア島と同じ緯度である。だから、この映画の島はチュニスよりもはるかに南にある。映画のホームページにある地図を掲載しておくけど、多分この島の位置をちゃんと知ってた人はほとんどいないと思う。

ところで、この映画を見て、もう一つ思ったことは、世界に訴える言葉は、あるいは世界に訴える人の言葉を聞き取る言葉は、やっぱり英語だということである。もっとも、それは文法や発音など重視する必要のない、「国際的簡単英会話」とでもいうものだ。そういうものが大事なんだと思う。映画の冒頭で、救助船が難民を乗せた船に呼びかけるのは、「現在位置は?」という言葉。英語で言えば、〝Your position ?" これは、そのまま観客への問いかけでもある。

だから、今度の映画はどうしようかなあと思っていた。数日前にシネマヴェーラ渋谷に古い日本映画を見に行くつもりが遅れてしまい、近くの文化村ル・シネマでこっちを見た。まあ、そういうことで見たり見なかったりすることもよくあることだ。で、面白いような、そうでもないようなタッチは同じような感じがした。でも、内容を伝える意味があるのと、知らないことは多いなあと思ったので書いておきたいと思った。
ドキュメンタリーなんだから、物語的に面白いことを求めるのはおかしい。だから、それはいいんだけど、映像世界が「整理」されていないと、遠い異国で見ている方にはなんだか判らないことになる。この映画が世界で評判になっているのは、「難民が押し寄せる島」という時事性にある。だけど、この映画のかなりの時間は、難民ではなくそこで暮らす島の人々を描いている。
つまり、「島の人々の暮らし」と難民の人々は「分断」されている。島に住む少年の暮らし、パチンコを自作して遊んだり、片目が悪くもう片方に眼帯をして視力アップをめざしたり、祖父に連れられ海に出て船酔いしたり…などなどが描写される。ロージ監督は、ランペドゥーサ島に1年半住み込み、カメラを回す前に3カ月かけた。その間に少年と仲良くなったのである。それはそれで面白い子どもの状況なんだけど、難民にはつながらない。映像はその間に難民の様子も映し出す。
世界はモザイクの断片だし、住民生活は「世界的大事件」と離されている。そういうことは日本でも、世界でも、よくあることだと思う。特に「先進国」では「難民」は囲い込まれていて、人々の目に触れない。押しよせる難民(年に5万人の難民が、5千5百人の住む島にやってくるという)は、海軍の船に救助(それまでに死亡するものも多いけど)され、難民たちの施設に収容される。そういう構造をそのまま映像で並列的に描いている。それが判るまでは、この映画は何だろうと思ったりもする。
監督はイタリア海軍船にも4カ月乗り込んだという。その様子はすさまじい。難民を乗せた船は、3階層に分かれていて、上部甲板にいるのは一番値段が高い。船の中でも上層階は次、最下層には安い金でたくさん詰め込まれている。病気になるものも多い。島の施設でサッカーをしている映像も出てくるが、国別に分かれてやっている。アフリカ諸国のあちこちから来ているのである。
中でも印象的なのは、ナイジェリアから来た黒人青年の、歌うように自己の人生を語る姿である。ナイジェリアと言えば、ギニア湾に面したアフリカ中部の国である。北部はイスラム過激派の根拠地となっている。だから多分政府軍の爆撃が行われるんだと思う。爆撃で多くが死に、サハラ砂漠に逃れてそこでまた多くが死に、ようやくリビアにたどり着く。リビアでとらえられ監獄でまた多くが死に、ようやく船に乗ってヨーロッパをめざしたが、また海の上で多くが死んだ。こうしてアフリカ大陸を半分近く縦断して、やっと島にたどり着いたのである。
救助する人々、島の医師などは、人間の務めとして、できる限りのことをしている。だけど、個人では世界の構造を変えられない。もちろん、映画を作っても同じだし、映画を見ても同じ。だから、監督も政治的な映画としては作っていない。島の美しい自然を「観察」しているだけである。映画に出てくるラジオ局では、電話で寄せられるリクエストに応じて、メッセージ付きでラブソングなどを掛けている。まだ、そういうことをやってるところがあるんだ。この映画も、同じように世界の個人個人にあてた「愛を込めたメッセージ」なのかもしれない。そう思うと、すさまじい現実と美しい島の自然を自分なりに受け入れられる気がしてくる。そして、なんだかジワジワと効いてくる。
ところで、ランペドゥーサ島って、どこだ? 地図で調べてビックリ。「シチリア島の南」なんて思ってたら、大間違い。イタリア半島、シチリア島とあって、その南にマルタ島がある。独立国である。ランペドゥーサ島はそこより南なので、驚いた。マルタ島とチュニジアの中間という感じ。アフリカの北であるチュニジアの首都チュニスは、ほとんどシチリア島と同じ緯度である。だから、この映画の島はチュニスよりもはるかに南にある。映画のホームページにある地図を掲載しておくけど、多分この島の位置をちゃんと知ってた人はほとんどいないと思う。

ところで、この映画を見て、もう一つ思ったことは、世界に訴える言葉は、あるいは世界に訴える人の言葉を聞き取る言葉は、やっぱり英語だということである。もっとも、それは文法や発音など重視する必要のない、「国際的簡単英会話」とでもいうものだ。そういうものが大事なんだと思う。映画の冒頭で、救助船が難民を乗せた船に呼びかけるのは、「現在位置は?」という言葉。英語で言えば、〝Your position ?" これは、そのまま観客への問いかけでもある。