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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

鈴木道彦講演会「サルトルと現代」

2017年03月04日 21時22分54秒 | 〃 (外国文学)
 獨協大学オープンカレッジ特別講座の鈴木道彦講演会「サルトルと現代」を聞きに行った。サルトルもだけど、フランス文学者の鈴木道彦さんの話を聞きたかった。2007年に集英社新書から出された「越境の時」は感動的な本だった。1967年に起きた金嬉老事件(在日韓国人の金嬉老=キム・ヒロが暴力団関係者2人を銃殺し、静岡県寸又峡温泉に立てこもった事件)の裁判の支援運動の記録である。その後、プルースト「失われた時を求めて」を一人で全訳したことで知られる。
 
 獨協大学が埼玉県草加市にあることは知っていたけど、初めて行った。自宅から一番近い大学である。先に草加松原を散歩したんだけど、その話は別に。獨協とは、つまり「独逸協会」で、明治時代から続く学校だけど、大学を作ったのは1964年だという。初代学長になったのは、天野貞祐(あまの・ていゆう、1884~1980)である。「オールド・リベラリスト」として知られ、第3次吉田茂内閣で文部大臣を務めた。もう知っている人も少ないと思うけど、その「天野貞祐記念館」の3階大講堂が会場である。

 まずTBSテレビが昨年放映されたサルトル来日50年のドキュメンタリーを見た。サルトルの著者を独占的に出版していた京都の人文書院が1966年に招いた。ちょうどビートルズが来日した年で、ベトナム戦争が激化した時期でもある。映像に出てくる講演会場は超満員で、皆一生懸命聞いている。今も70代、80代で存命の人が多いと思うけど、その後の人生はどういうものだったのか。その時は「知識人」が大きな権威を持っていた。単に専門家として生きているだけではダメで、例えば核兵器を開発し技術的に向上させるだけでは「科学者」にすぎない。自分の行いが社会の中でどのような意味を持っているかを考え行動するものを「知識人」というのだ、と。

 サルトルが1980年に亡くなった時に、フランス紙は大きく(何十ページも)取り上げたという。そして、18世紀はヴォルテールの世紀、19世紀はヴィクトル・ユゴーの世紀、そして20世紀はサルトルの世紀だったと書いたと鈴木氏は紹介した。そういう意味での「大知識人の時代」はもう終わったという。社会のあらゆることに語ることを要請される存在、そういうものは確かにもう出ないだろう。一人の人が原理的にすべてに精通するなど、もう不可能である。誰もが「思いつき」をツイートできる時代である。

 鈴木氏がサルトルに注目したのは、50年代のアルジェリア戦争がきっかけだという。フランスに留学していた時に、アルジェリア戦争に反対し植民地主義体制に反対するサルトルの姿勢を知った。戦後の日本では(日本に限らないが)、サルトルはとても有名で影響力があった。「実存主義」が大戦後の新思想ともてはやされ、マルクス主義との関係が注目されていた。今では考えられないと思うほど有名だった。僕が知っている70年ごろも本屋にはズラッと人文書院のサルトル全集が並んでいた。だから、サルトルが来日した時も大歓迎され、ある種「大騒動」にもなったのである。

 そういうサルトルがアルジェリア戦争に反対声明を出すというのは、大変な出来事だったのである。その時の「121人宣言」が資料として紹介されている。
1)われわれはアルジェリア人に対して武器をとることの拒否を尊敬し、正当とみなす
2)われわれは、フランス人民の名において抑圧されているアルジェリア人に援助と庇護を与えることを自分の義務と考えるフランス人の行為を尊敬し、正当と考える
3)植民地体制の崩壊に決定的な貢献をしているアルジェリア人の大義は、すべての自由人の大義である

 これはサルトルの文章ではないというけど、実に堂々たる「反仏宣言」である。というか、植民地主義体制のフランスを批判し、自由、平等、友愛を信じるフランス精神の発揮である。実際に独立戦争さなかに自国を批判するのはとても大変なことである。今の日本でも、自国の過去を批判する人に対して「反日」などと「レッテル貼り」をする人がいる。それを思っても、いかに勇気ある宣言だったかが判る。

 その後、60年代を通したサルトル、ボーヴォワールとの交流、特に「金嬉老事件」に関して、サルトルが出していた雑誌「レ・タン・モデルヌ」に寄稿したいきさつなども興味深かった。もともと小松川事件の少年死刑囚、李珍雨を「日本のジュネ」として書く話があったのだが、多忙で書けなかったという。代わりに金嬉老事件を書いたわけである。鈴木氏がこの事件に関心を持ったのも、もちろんアルジェリア問題を日本人として主体的に引き受けたということである。

 その後、「五月革命」(1968)以後は、サルトルの思想、行動も迷走した感もある。「知識人」そのものが問われる時代になった時、サルトルが「時代遅れ」になったとも言える。でも、鈴木氏は今もサルトルの有効性があるという。一つはサルトルの知識人論で、「専門性」に閉じこもって、その社会的意味を自覚しない「専門家」ではダメだという。さらに「第三世界は郊外に始まる」という言葉。その発想は、後の移民問題、格差と暴動などを予見している。こういう言葉を残しただけでも、サルトルが並々ならぬ眼力の持ち主だと判るだろう。僕も久しぶりにサルトルを読みなおしてみたくなった。

 大学の入り口近くに天野貞祐の銅像や言葉があった。最寄駅は東武鉄道の伊勢崎線(スカイツリーライン)の松原団地駅だが、この駅は4月から「獨協大学前(草加松原)」に改名される。
  
コメント (2)
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