「日野啓三を読む」と題して、ちょっと前に3回書いた。それで終わりかと言うと、間が空いてしまったけど、実はまだ書くことが残っている。今までに書いたのは、「向う側にひかれて」「『滅びゆく国』を生きて」「幻覚とドッペルゲンガー」の3回。残っている大きな問題には、ベトナム戦争に関する作品とベトナム報道をめぐる問題がある。幅広い作風だから、話もいろいろである。
読売新聞外信部の記者だった日野啓三は、1964年12月3日に読売新聞の初代常駐サイゴン特派員として赴任した。東京五輪が終わった直後である。日野は1960年に国交樹立前の韓国に特派員として派遣されたことがある。李承晩政権が「四・一九学生革命」で倒れた直後である。日野は植民地下の朝鮮で育ったから、15年ぶりのソウルだった。そこで、ある女性と知り合い、帰国後にそれまでの妻と離婚し、家族の反対を押し切って韓国女性と再婚したばかりだった。
政権打倒後のソウルや戦争激化のサイゴンに派遣される。今の感覚では花形特派員のように思うかもしれないけど、日本経済も高度成長さなか、韓国や南ベトナムは全然後進国の段階である。ワシントンやパリではなく、誰も引き受け手のないような国に行かされる。どうも、そんな感じだったらしい。そもそもアジア駐在特派員は少なかった。香港にいる特派員が周辺の国もカバーする時代だったようだ。しかし、米軍の介入が次第に本格化し、サイゴンに常駐者が必要だと思われるようになった。
その時点で、カメラマンの岡村昭彦がフリーで取材を続けていた。日本のマスコミでは、毎日、朝日、日経、共同通信がこの年に支局を開いているという。まだ取材方法もつかめず、日本の特派員はライバル紙でも協力し合って取材したようだ。特に共同の林雄一郎特派員とは隣室同士でかなり親密だった。戦局そのものは米軍が毎日発表するけど、その場では英語もよく判らず米国メディアに押されるように隅っこにいるしかなかった。でも、せっかくサイゴンにいるんだから、外国メディアの後塵を拝するのを潔しとせず、サイゴン政権や街頭情報に飛び込んでいった。そのあたりのことは、多分報道の立場から初めてベトナム戦争を取り上げた「ベトナム報道」(1966、初の著書、講談社文芸文庫に収録)という本に興味深く書かれている。
(「ベトナム報道」)
そこで判るのは、「日本人特派員」の有利性もあるということだった。アメリカ人でも、事前に承認を得て北ベトナムに入った人は何人もいる。だけど、サイゴン側から自分でアレンジして南の解放区に入った人はいない。米軍と戦闘中なんだから、顔が欧米人だったらとても入れないわけである。それに米軍は戦場に大量の食糧を運び込み、戦場でステーキを食べているような軍隊だった。米軍に従軍している限り、戦場特派員もおすそ分けに与れる。解放区入りしたら、ライスにニョクマムをぶっかけたようなものしか食べられない。日本人なら何とか耐えられるわけである。
だから、この本にはまさに「向う側」に歩いて行って、さすがに歓迎と言うよりは抑留されたようだけど、なんとかジャングルの彼方から帰還した日本人もいたと出てくる。それができる可能性があるのだ。もっとも読売は日野一人だったから、一度解放区に入ると数週間は戻れないから、解放区取材は考えなかったという。数週間サイゴンを空けると、その間にクーデターが2回ぐらい起こるかもしれない情勢だったから。でも、この「ベトナム報道」は戦後初めて日本人記者が独自に海外取材を行って、読者の関心にこたえる言論活動を行った体験だったのである。
そこで見た日野のベトナム戦争論は、「人民戦争の視点」である。サイゴン政権は、誰が見てもアメリカが巨費を投じて支えているだけの「買弁政権」だった。政権を作っている上層部の人々は、貧しい人びとを同じ国民と見ていなかった。アメリカの援助を私物化するのは、上層階級として当然のことであって、それが悪いこととは思っていなかった。そんな人々の政権は、人々が見放すのが当然。そもそもジュネーブ協定で決められた南北同時選挙を、南が拒否したのが戦争の始まりである。米軍が解放戦線の向こうに北ベトナムを見て、直接北ベトナム爆撃に踏み切ったことで、かえって「ベトコン」(ベトナムの共産党という意味の略語で、米軍が使った)を北ベトナム主導に押しやったという。
この認識は1965年段階のものである。この後に中ソ対立、米軍のカンボジア介入など複雑な出来事が続く。ベトナム戦争終結後に明らかになったが、南ベトナム解放民族戦線は、北のベトナム労働党の明確な指導下にあった。南ベトナム臨時革命政府も、実質的に独立した存在ではなかった。その後の、ベトナムのカンボジア介入、中国のベトナム「懲罰」戦争、中国系ベトナム人の「ボート・ピープル」としての出国、ベトナムの政治犯の存在など、戦争中にナイーブに解放戦線に思い入れできた時代は消え去った。「現実」はもう少しビターなものだった。
しかし、「文学者」日野啓三の位置を確認するときに、このベトナム戦争経験は重大である。日本人の多くは、強大な米軍がベトナムに過酷な爆撃を続けることを批判的に見ていた。ベトナムに同情的だった人がほとんどだろう。それはイデオロギー的なものではない。当時の日本人は、戦争に負けてつかんだ「平和の価値」、それを通して世界を見ていたのである。日野の自身の朝鮮体験、引き揚げ体験から、サイゴン政府の腐臭をかぎ分けた。かつて日本は侵略戦争を起こして米軍に負けたけど、植民地解放戦争であるベトナム人は決して米軍には負けないだろうと直観で判ったのだ。
そんな日野啓三はベトナム戦争を見て、「作家」になった。そのことは前に書いたけど、「ベトナムもの」全短編集が「地下へ サイゴンの老人」として講談社文芸文庫から出ている。このうち、戦争終結前に書いた6編は、はっきり言ってよく判らない。日本の戦後文学の、例えば野間宏「暗い絵」のような「晦渋さ」が付きまとっている。それは「習作」だったからでもあるだろうけど、第一には日野にとっての「戦争文学」だからだろう。一種カフカのような感じもするし、「幻想」的な作風でもあるけど、何が確かなものであるかが見えないサイゴンを取材すると、迷宮をさまようような話こそリアリズムに思えたんだろう。
(「地下へ サイゴンの老人」)
初めて単行本に収録された作品も多く、どうも「いまさら感」が強い作品が多いけど、作家にとっても、日本にとってもアジア認識はそこからスタートしたということだろう。こっちの小説集は特に関心がある人以外は読まなくていいと思うけど、「ベトナム報道」は歴史の証言として面白かった。こういう時代があったのかということで、ベトナムやマスコミあるいは現代史に関心がある人には面白いんじゃないか。日本人が東南アジアに行くことさえほとんど考えられなかった時代の話である。今では東南アジアの方から日本へ大挙して訪れる時代が来るなんて、まったく時代の移り変わりは驚くばかり。
読売新聞外信部の記者だった日野啓三は、1964年12月3日に読売新聞の初代常駐サイゴン特派員として赴任した。東京五輪が終わった直後である。日野は1960年に国交樹立前の韓国に特派員として派遣されたことがある。李承晩政権が「四・一九学生革命」で倒れた直後である。日野は植民地下の朝鮮で育ったから、15年ぶりのソウルだった。そこで、ある女性と知り合い、帰国後にそれまでの妻と離婚し、家族の反対を押し切って韓国女性と再婚したばかりだった。
政権打倒後のソウルや戦争激化のサイゴンに派遣される。今の感覚では花形特派員のように思うかもしれないけど、日本経済も高度成長さなか、韓国や南ベトナムは全然後進国の段階である。ワシントンやパリではなく、誰も引き受け手のないような国に行かされる。どうも、そんな感じだったらしい。そもそもアジア駐在特派員は少なかった。香港にいる特派員が周辺の国もカバーする時代だったようだ。しかし、米軍の介入が次第に本格化し、サイゴンに常駐者が必要だと思われるようになった。
その時点で、カメラマンの岡村昭彦がフリーで取材を続けていた。日本のマスコミでは、毎日、朝日、日経、共同通信がこの年に支局を開いているという。まだ取材方法もつかめず、日本の特派員はライバル紙でも協力し合って取材したようだ。特に共同の林雄一郎特派員とは隣室同士でかなり親密だった。戦局そのものは米軍が毎日発表するけど、その場では英語もよく判らず米国メディアに押されるように隅っこにいるしかなかった。でも、せっかくサイゴンにいるんだから、外国メディアの後塵を拝するのを潔しとせず、サイゴン政権や街頭情報に飛び込んでいった。そのあたりのことは、多分報道の立場から初めてベトナム戦争を取り上げた「ベトナム報道」(1966、初の著書、講談社文芸文庫に収録)という本に興味深く書かれている。
(「ベトナム報道」)
そこで判るのは、「日本人特派員」の有利性もあるということだった。アメリカ人でも、事前に承認を得て北ベトナムに入った人は何人もいる。だけど、サイゴン側から自分でアレンジして南の解放区に入った人はいない。米軍と戦闘中なんだから、顔が欧米人だったらとても入れないわけである。それに米軍は戦場に大量の食糧を運び込み、戦場でステーキを食べているような軍隊だった。米軍に従軍している限り、戦場特派員もおすそ分けに与れる。解放区入りしたら、ライスにニョクマムをぶっかけたようなものしか食べられない。日本人なら何とか耐えられるわけである。
だから、この本にはまさに「向う側」に歩いて行って、さすがに歓迎と言うよりは抑留されたようだけど、なんとかジャングルの彼方から帰還した日本人もいたと出てくる。それができる可能性があるのだ。もっとも読売は日野一人だったから、一度解放区に入ると数週間は戻れないから、解放区取材は考えなかったという。数週間サイゴンを空けると、その間にクーデターが2回ぐらい起こるかもしれない情勢だったから。でも、この「ベトナム報道」は戦後初めて日本人記者が独自に海外取材を行って、読者の関心にこたえる言論活動を行った体験だったのである。
そこで見た日野のベトナム戦争論は、「人民戦争の視点」である。サイゴン政権は、誰が見てもアメリカが巨費を投じて支えているだけの「買弁政権」だった。政権を作っている上層部の人々は、貧しい人びとを同じ国民と見ていなかった。アメリカの援助を私物化するのは、上層階級として当然のことであって、それが悪いこととは思っていなかった。そんな人々の政権は、人々が見放すのが当然。そもそもジュネーブ協定で決められた南北同時選挙を、南が拒否したのが戦争の始まりである。米軍が解放戦線の向こうに北ベトナムを見て、直接北ベトナム爆撃に踏み切ったことで、かえって「ベトコン」(ベトナムの共産党という意味の略語で、米軍が使った)を北ベトナム主導に押しやったという。
この認識は1965年段階のものである。この後に中ソ対立、米軍のカンボジア介入など複雑な出来事が続く。ベトナム戦争終結後に明らかになったが、南ベトナム解放民族戦線は、北のベトナム労働党の明確な指導下にあった。南ベトナム臨時革命政府も、実質的に独立した存在ではなかった。その後の、ベトナムのカンボジア介入、中国のベトナム「懲罰」戦争、中国系ベトナム人の「ボート・ピープル」としての出国、ベトナムの政治犯の存在など、戦争中にナイーブに解放戦線に思い入れできた時代は消え去った。「現実」はもう少しビターなものだった。
しかし、「文学者」日野啓三の位置を確認するときに、このベトナム戦争経験は重大である。日本人の多くは、強大な米軍がベトナムに過酷な爆撃を続けることを批判的に見ていた。ベトナムに同情的だった人がほとんどだろう。それはイデオロギー的なものではない。当時の日本人は、戦争に負けてつかんだ「平和の価値」、それを通して世界を見ていたのである。日野の自身の朝鮮体験、引き揚げ体験から、サイゴン政府の腐臭をかぎ分けた。かつて日本は侵略戦争を起こして米軍に負けたけど、植民地解放戦争であるベトナム人は決して米軍には負けないだろうと直観で判ったのだ。
そんな日野啓三はベトナム戦争を見て、「作家」になった。そのことは前に書いたけど、「ベトナムもの」全短編集が「地下へ サイゴンの老人」として講談社文芸文庫から出ている。このうち、戦争終結前に書いた6編は、はっきり言ってよく判らない。日本の戦後文学の、例えば野間宏「暗い絵」のような「晦渋さ」が付きまとっている。それは「習作」だったからでもあるだろうけど、第一には日野にとっての「戦争文学」だからだろう。一種カフカのような感じもするし、「幻想」的な作風でもあるけど、何が確かなものであるかが見えないサイゴンを取材すると、迷宮をさまようような話こそリアリズムに思えたんだろう。
(「地下へ サイゴンの老人」)
初めて単行本に収録された作品も多く、どうも「いまさら感」が強い作品が多いけど、作家にとっても、日本にとってもアジア認識はそこからスタートしたということだろう。こっちの小説集は特に関心がある人以外は読まなくていいと思うけど、「ベトナム報道」は歴史の証言として面白かった。こういう時代があったのかということで、ベトナムやマスコミあるいは現代史に関心がある人には面白いんじゃないか。日本人が東南アジアに行くことさえほとんど考えられなかった時代の話である。今では東南アジアの方から日本へ大挙して訪れる時代が来るなんて、まったく時代の移り変わりは驚くばかり。