ちょっと突然だけど、夏目漱石の話。漱石(1867~1916)は今年が生誕150年、昨年が没後100年である。今年は新宿区に漱石記念館ができることだし、何かと漱石が話題になるだろう。でも僕は漱石をあまり読んでないのである。「猫」「坊っちゃん」「草枕」に「三四郎」「こゝろ」だけなんだから、これでは「漱石定食(梅)」という感じ。(もっとも小品をもう少し読んでると思う。)
それではいかんと自分でも思い、ちくま文庫版の全集を買ってある。それも10年近く前なんだけど、なかなか読み始めるきっかけがない。やはり近代文学史上の巨人に違いないから、もうそろそろ読みたい。今年はチャンスだということである。思えば、宮沢賢治(1896~1933)や太宰治(1909~1948)の生誕百年の年にも読み残しを読んだものだ。生誕の節目はきっかけになる。
ということで、まずは全集第1巻の「吾輩は猫である」である。1905年1月に「ホトトギス」に掲載され、好評を得て1906年8月まで書き継がれた。1905年から1907年にかけて、3巻に分けて刊行された。当時から非常に有名で、今も非常に有名な小説だろう。僕はこれを中学生のころに読んだと思う。半世紀前というと小学生になっちゃうけど、まあ「ほぼ半世紀前」になる。ものすごく面白かった。その面白かったところは、皆が集まってワイワイとバカ話をするという構成そのものにあったと思う。
(右側が実際に読んだ本)
今回読んでみたら、案外面白くなかったんだけど、それはどうしてかを中心に書きたい。特に漱石や「猫」論というほどの気持ちはないんだけど、月に一冊程度のペースで読んでいきたいと思っていて、自分の心覚えという意味でも書いておきたい。ところで、今回読んでみて、「字ばっかり」のページが多いので閉口した。視力が落ちてくると、けっこうつらい。だから、登場人物たちが御高説を披露しているのについていくのも面倒だなあ。そういうこともあるとは情けないけど…。
「吾輩は猫である」(以下、「猫」と省略)の冒頭は、古典じゃないから暗記させられたわけじゃないけど、川端「雪国」と並んで近代文学では一番有名な出だしだろう。どんな話かも大体の人は、読んでなくても知っていると思うので、中身の紹介はしない。今も原文で読めるというのはすごいことである。「たけくらべ」や「舞姫」は、翻訳しないと若い人は読めないのではないか。
「猫」もけっこう難しいんだけど、それは古今東西の逸話が無数に出てくるからである。気にしないで進んでいけば、文体的には今も通じる。ただ漢文調に慣れてないと、付いていきにくいかもしれない。こういう文体が、最初から確立されていたのは何故だろう。漱石の好きだった「落語」の影響など、いろいろと考えられる。でも、猫が語っているという体裁、主人苦沙弥(くしゃみ)先生とその友人の気の置けない語りという「猫」の特質から、文体的な苦労はそれほどでもなかったのかもしれない。
「猫」の発表は、見れば一目瞭然、日露戦争最中である。案外意識してないと思うけど、戦争中に書かれている。旅順陥落などの記載も中に出ている。日露戦争は明治日本にとって、大変重い戦争だったけど、小説内ではそれほど出てこない。でも、猫は猫なりに、名前も付けてもらってないのに、日本に生まれ日本の主人を持つから日本びいきだとは言っている。猫がそんなに愛国熱に浮かれていてはおかしいとは言える。そういう条件を作って、その程度で済ませているのである。
漱石文学そのものが、「日露戦争から第一次大戦まで」に書かれている。「日露戦後デモクラシー」とその反動の「冬の時代」の時期である。あるいは本格的に日本で「産業革命」が進み、「都市化」も進行した。そんな時期の、「都市知識人」の文学が漱石文学だと言える。都市インテリの立場から、新興ブルジョワジーの成金趣味をからかっている。その素朴な正義感が昔は痛快だった。
だけど、今回読んでみて、案外内容がないのに驚いた。猫は猫だし、先生も引きこもり気味の胃弱だから、実際に成金金田家とほとんど交際がない。それで反発しているから、具体性があまりない。それはともかくとしても、金田夫人の鼻だけを特筆大書して、「鼻子」「鼻子」と罵倒している。猫なんだから人間を外面的特徴で把握しても不思議はないわけだけど、今の基準で言えばまずいのではないか。いかに成金攻撃としても、本人にどうしようもない身体的特徴をからかうのは、趣味が良くない。
そういう悪趣味性は、例の寒月君の「首くくりの力学」にも言える。鼻子もそうだけど、この寒月のエピソードは昔は笑ったものである。子どもには面白かったのである。こんなおかしな研究もありうるのか。そういう面白さを感じて、よく覚えていたんだけど、今の日本で「自殺」を論じるにはデリカシーが欠けていないか。そういう目で見れば、ジェンダーや階級に関するバイアスもかなり目に付くのである。どうも登場人物の議論が時代に取り残されたのかも…。
ということで、案外面白くなかったのだが、それはこの小説の構造にも原因があると思う。登場人物たちの様々な葛藤が衝突しあう、いわゆる「本格小説」ではない。小説はいろいろあってもいいけど、ストーリイで読ませるタイプなら、内容に没頭できれば今も面白い。「猫」も半分ぐらいはいろんな「事件」が起こっている。人間もそうだけど、猫も活躍している。でも後半になるにつれ、猫が人間の話を聞いて祖述しているとしても、作者が前面に出て語っているような感じが強くなる。
「サロン小説」という感じである。そこに登場する人物は、美学者や理学者、詩人や哲学者などと様々だから、そこに「論争」が起こる。とはいえ、大きくは作者と似たような階層の「都市知識人」に限られている。そういう狭さが小説をつまらなくしてしまっている。敵役の「金田家」だけが大きくなって、隣の中学生の悪さも金田家が後ろで糸を引いていることになっている。そこらへんの「社会性のなさ」が困るのである。ギリシャ文化に詳しい知識人よりも、日本社会にとっては「実業家」の役割の方が大きい。その実業家の実態が暴かれず、単にからかいの対象になっているのも弱点。まあ、やはり出発点であり、好評につき書き足していったのが、構成の難につながっているのだろう。
それではいかんと自分でも思い、ちくま文庫版の全集を買ってある。それも10年近く前なんだけど、なかなか読み始めるきっかけがない。やはり近代文学史上の巨人に違いないから、もうそろそろ読みたい。今年はチャンスだということである。思えば、宮沢賢治(1896~1933)や太宰治(1909~1948)の生誕百年の年にも読み残しを読んだものだ。生誕の節目はきっかけになる。
ということで、まずは全集第1巻の「吾輩は猫である」である。1905年1月に「ホトトギス」に掲載され、好評を得て1906年8月まで書き継がれた。1905年から1907年にかけて、3巻に分けて刊行された。当時から非常に有名で、今も非常に有名な小説だろう。僕はこれを中学生のころに読んだと思う。半世紀前というと小学生になっちゃうけど、まあ「ほぼ半世紀前」になる。ものすごく面白かった。その面白かったところは、皆が集まってワイワイとバカ話をするという構成そのものにあったと思う。
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今回読んでみたら、案外面白くなかったんだけど、それはどうしてかを中心に書きたい。特に漱石や「猫」論というほどの気持ちはないんだけど、月に一冊程度のペースで読んでいきたいと思っていて、自分の心覚えという意味でも書いておきたい。ところで、今回読んでみて、「字ばっかり」のページが多いので閉口した。視力が落ちてくると、けっこうつらい。だから、登場人物たちが御高説を披露しているのについていくのも面倒だなあ。そういうこともあるとは情けないけど…。
「吾輩は猫である」(以下、「猫」と省略)の冒頭は、古典じゃないから暗記させられたわけじゃないけど、川端「雪国」と並んで近代文学では一番有名な出だしだろう。どんな話かも大体の人は、読んでなくても知っていると思うので、中身の紹介はしない。今も原文で読めるというのはすごいことである。「たけくらべ」や「舞姫」は、翻訳しないと若い人は読めないのではないか。
「猫」もけっこう難しいんだけど、それは古今東西の逸話が無数に出てくるからである。気にしないで進んでいけば、文体的には今も通じる。ただ漢文調に慣れてないと、付いていきにくいかもしれない。こういう文体が、最初から確立されていたのは何故だろう。漱石の好きだった「落語」の影響など、いろいろと考えられる。でも、猫が語っているという体裁、主人苦沙弥(くしゃみ)先生とその友人の気の置けない語りという「猫」の特質から、文体的な苦労はそれほどでもなかったのかもしれない。
「猫」の発表は、見れば一目瞭然、日露戦争最中である。案外意識してないと思うけど、戦争中に書かれている。旅順陥落などの記載も中に出ている。日露戦争は明治日本にとって、大変重い戦争だったけど、小説内ではそれほど出てこない。でも、猫は猫なりに、名前も付けてもらってないのに、日本に生まれ日本の主人を持つから日本びいきだとは言っている。猫がそんなに愛国熱に浮かれていてはおかしいとは言える。そういう条件を作って、その程度で済ませているのである。
漱石文学そのものが、「日露戦争から第一次大戦まで」に書かれている。「日露戦後デモクラシー」とその反動の「冬の時代」の時期である。あるいは本格的に日本で「産業革命」が進み、「都市化」も進行した。そんな時期の、「都市知識人」の文学が漱石文学だと言える。都市インテリの立場から、新興ブルジョワジーの成金趣味をからかっている。その素朴な正義感が昔は痛快だった。
だけど、今回読んでみて、案外内容がないのに驚いた。猫は猫だし、先生も引きこもり気味の胃弱だから、実際に成金金田家とほとんど交際がない。それで反発しているから、具体性があまりない。それはともかくとしても、金田夫人の鼻だけを特筆大書して、「鼻子」「鼻子」と罵倒している。猫なんだから人間を外面的特徴で把握しても不思議はないわけだけど、今の基準で言えばまずいのではないか。いかに成金攻撃としても、本人にどうしようもない身体的特徴をからかうのは、趣味が良くない。
そういう悪趣味性は、例の寒月君の「首くくりの力学」にも言える。鼻子もそうだけど、この寒月のエピソードは昔は笑ったものである。子どもには面白かったのである。こんなおかしな研究もありうるのか。そういう面白さを感じて、よく覚えていたんだけど、今の日本で「自殺」を論じるにはデリカシーが欠けていないか。そういう目で見れば、ジェンダーや階級に関するバイアスもかなり目に付くのである。どうも登場人物の議論が時代に取り残されたのかも…。
ということで、案外面白くなかったのだが、それはこの小説の構造にも原因があると思う。登場人物たちの様々な葛藤が衝突しあう、いわゆる「本格小説」ではない。小説はいろいろあってもいいけど、ストーリイで読ませるタイプなら、内容に没頭できれば今も面白い。「猫」も半分ぐらいはいろんな「事件」が起こっている。人間もそうだけど、猫も活躍している。でも後半になるにつれ、猫が人間の話を聞いて祖述しているとしても、作者が前面に出て語っているような感じが強くなる。
「サロン小説」という感じである。そこに登場する人物は、美学者や理学者、詩人や哲学者などと様々だから、そこに「論争」が起こる。とはいえ、大きくは作者と似たような階層の「都市知識人」に限られている。そういう狭さが小説をつまらなくしてしまっている。敵役の「金田家」だけが大きくなって、隣の中学生の悪さも金田家が後ろで糸を引いていることになっている。そこらへんの「社会性のなさ」が困るのである。ギリシャ文化に詳しい知識人よりも、日本社会にとっては「実業家」の役割の方が大きい。その実業家の実態が暴かれず、単にからかいの対象になっているのも弱点。まあ、やはり出発点であり、好評につき書き足していったのが、構成の難につながっているのだろう。