支配者がある宗教を禁止する。信仰を放棄しない場合は、死をもって罰せられる。そういう状況が起きると、信者は「殉教者」か、「背教者」のどちらかになるしかない。宗教の側は「殉教」を尊いものとみなして、殉教者は天国に行けるとほめたたえる。神は殉教者の上にしかいない、背教者は地獄に堕ちるしかないと言う。宗教の側から見れば、筋道はそういうことになるはずである。
遠藤周作は日本の殉教者の事例を通して、それだけの理解でいいのかと考えたわけである。拷問や脅迫などに負けた「弱きもの」には、神の恩寵は及ばないのか。人間は不完全なものであり、そういう弱さを抱え込んだ人間存在を創造した神は、当然「弱きもの」をも見つめている。なぜならば、神だから。いや、そういう理解でいいのかどうか、どうも自信はないんだけど、まあそう考えてきた。
遠藤周作(1923~1996)も没後20年以上になるのか。非常に重要な作家だったから、生前に大体の作品を読んでいる。特に、支倉常長を描く「侍」(1980)や宗教を考え詰めた「深い河」(1993)などは、同時代に読んで大きな感銘を受けた。「沈黙」(1966)が出たのは小学生時代だから、もちろん同時代的には知らない。読んだのは高校時代だと思う。「新潮日本文学」という一人一巻の全集で読んだから、むしろ「海と毒薬」(1958)の方が衝撃的だったように覚えている。
それ以来読み返していないので、もう細部は忘れている。映画としては篠田正浩監督の「沈黙」(1971)が作られた。遠藤周作も脚本に名を連ねている。しかし、内面の信仰は映像化が難しい。篠田版もスコセッシ版も、原作を少し変えているという。じゃあ、どこをどう変えたのか、読み直し、見直して考えてみようかと思ったんだけど、早稲田松竹で篠田版をやった時に満員で入れかったのでやる気をなくしてしまった。(いま、家ではDVDもビデオも見られない状態。)
だけど、結局はロドリゴ神父が「踏絵」を踏むことは変わらない。ロドリゴは架空の人物だが、実在のキアラという神父をモデルにしていると言われる。この「踏絵」をどう考えるべきなんだろうか。捕えられた信者が拷問にかけられている。ロドリゴが棄教しない限り、拷問は続くと脅されている。そこで「踏むがいい」という「神の声」をロドリゴは聞く。これは「本当の神の声」なのか、それとも人間主義的な解釈をすれば「幻聴」なのか。そこらへんは見るものが判断すればいいんだろう。
死んでも天国へ行けるんだったら、殉教することはいいことだということになる。ロドリゴは棄教するまでもない。むしろ早く殺してやって欲しいというべきだ。でも、目の前に拷問で苦しむ人を見ていれば、自分で何とかしたいと思うものだろう。それでは「本心では信仰を捨てない」けれど「形の上で踏絵を踏む」、つまり「偽装転向」なんだろうか。でも、偽装にしても後々ずっと「転び」続けないといけない。その後のエネルギーを失った様子の描写を見れば、それは明らかに「権力への屈服」だったように思う。
「殉教は正しい」と考えるなら、「自爆テロ」を批判できない。何であれ、信仰を持つ続けることが正しいわけではないだろう。そうじゃないと、獄中でも麻原彰晃への帰依を続けるオウム真理教信者が正しいということになってしまう。今の時代の考えでは、目の前の拷問を止めるために、自己のプライドを捨てて踏絵を踏むのは、むしろ「真の勇気」を示すとも言えるだろう。でも、それは「自分で出した主体的結論」の場合だろう。神父にはそんな「個の主体性」はないはずだ。やはり、神父と言えど人間なので、「弱さ」を抱え込んでいる存在だということなのか。
スコセッシはイタリア系アメリカ人である。もちろんカトリックで、小さいころには神父になることも考えたという。イエスを描いた「最後の誘惑」と言う映画を撮った後で、「沈黙」を知ったという。1988年のことで、それ以来映画化を考えていた。スコセッシはどちらかと言えば、「タクシー・ドライバー」や「レイジング・ブル」のように、「自分なりのやり方で戦った人」を描くときに力強い。役者は神父を「本質は探検家」だと思ったと言っていたけど、スコセッシ映画のロドリゴも「それなりに戦った」けど、神は「よくやった、もういい」と「タオルを投げてくれた」という印象を受けた。
篠田正浩の場合、「あかね雲」と「はなれ瞽女おりん」で二度脱走兵を描いた。他にも「心中天網島」や「鑓の権三」なども「本質的に逃げる映画」だった。だから、「沈黙」もある種「逃げる映画」になっていたように思う。テーマ自体が少し遠いし、内面は描写できない中で、「沈黙」の映画化は難しい。そこに欧米的視点と日本的視点、カトリック信者と非信者の視点など、僕には評価が難しい。スコセッシ版の場合、日本人役者の演技が素晴らしかったぶんだけ、ロドリゴの踏絵を踏む意味が薄れた感もある。
ということで、僕にはロドリゴの行為の評価が完全にはできないのだが、「殉教」と「背教」は二者択一の問題なのかと思う。宗教テロもそうだけど、いじめや長時間労働などの問題を見ても、言ってみれば「殉職か退社か」しかないという発想ではいけないだろう。殉教と背教の狭間に、宗教の一番の問題があると思う。「歎異抄」で唯円は、念仏を唱えれば極楽往生できるというけれど、早く極楽へ行きたいと思えないと親鸞に述べた。親鸞は唯円坊もそうだったかと返す。殉教すれば天国へ行けるとしても、それを心底信じていたとしても、結局人間は目の前の現世にこだわるしかないものだと思う。
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ところで、ここでは大きな問題が消されている。井上筑後守は「日本にキリスト教は根付かない。日本は泥沼だ」という。しかし、それならばキリスト教を放っておいてもいいはずである。いずれ根腐れすると言ってるんだから。そして、実際に明治以後に信教が自由になっても、それ以後に大教団に発展したケースも多いのに、キリスト教系各教団が大発展したことはない。ある意味で、井上サマが正しかったんだけど、それなら幕府の禁教政策もいらない。
でも、その場合、例えば長崎がマカオやゴアのように、ポルトガル領になってしまわなかったと言えるのか。映画内の時点は、1640年から数年だけど、これは島原・天草の乱の直後ということになる。幕府がキリスト教を目の敵にしたのは、実際にキリスト教を旗印にした反乱が起きたからだろう。そういう歴史的な視野で見てみると、幕府のやり方もひどかったけど、あえて神父を送り込んできたイエズス会も判断を誤ったのではないか。「どっちもどっち」では意味がないかもしれないが、歴史的にはそういう気がする。
遠藤周作は日本の殉教者の事例を通して、それだけの理解でいいのかと考えたわけである。拷問や脅迫などに負けた「弱きもの」には、神の恩寵は及ばないのか。人間は不完全なものであり、そういう弱さを抱え込んだ人間存在を創造した神は、当然「弱きもの」をも見つめている。なぜならば、神だから。いや、そういう理解でいいのかどうか、どうも自信はないんだけど、まあそう考えてきた。
遠藤周作(1923~1996)も没後20年以上になるのか。非常に重要な作家だったから、生前に大体の作品を読んでいる。特に、支倉常長を描く「侍」(1980)や宗教を考え詰めた「深い河」(1993)などは、同時代に読んで大きな感銘を受けた。「沈黙」(1966)が出たのは小学生時代だから、もちろん同時代的には知らない。読んだのは高校時代だと思う。「新潮日本文学」という一人一巻の全集で読んだから、むしろ「海と毒薬」(1958)の方が衝撃的だったように覚えている。
それ以来読み返していないので、もう細部は忘れている。映画としては篠田正浩監督の「沈黙」(1971)が作られた。遠藤周作も脚本に名を連ねている。しかし、内面の信仰は映像化が難しい。篠田版もスコセッシ版も、原作を少し変えているという。じゃあ、どこをどう変えたのか、読み直し、見直して考えてみようかと思ったんだけど、早稲田松竹で篠田版をやった時に満員で入れかったのでやる気をなくしてしまった。(いま、家ではDVDもビデオも見られない状態。)
だけど、結局はロドリゴ神父が「踏絵」を踏むことは変わらない。ロドリゴは架空の人物だが、実在のキアラという神父をモデルにしていると言われる。この「踏絵」をどう考えるべきなんだろうか。捕えられた信者が拷問にかけられている。ロドリゴが棄教しない限り、拷問は続くと脅されている。そこで「踏むがいい」という「神の声」をロドリゴは聞く。これは「本当の神の声」なのか、それとも人間主義的な解釈をすれば「幻聴」なのか。そこらへんは見るものが判断すればいいんだろう。
死んでも天国へ行けるんだったら、殉教することはいいことだということになる。ロドリゴは棄教するまでもない。むしろ早く殺してやって欲しいというべきだ。でも、目の前に拷問で苦しむ人を見ていれば、自分で何とかしたいと思うものだろう。それでは「本心では信仰を捨てない」けれど「形の上で踏絵を踏む」、つまり「偽装転向」なんだろうか。でも、偽装にしても後々ずっと「転び」続けないといけない。その後のエネルギーを失った様子の描写を見れば、それは明らかに「権力への屈服」だったように思う。
「殉教は正しい」と考えるなら、「自爆テロ」を批判できない。何であれ、信仰を持つ続けることが正しいわけではないだろう。そうじゃないと、獄中でも麻原彰晃への帰依を続けるオウム真理教信者が正しいということになってしまう。今の時代の考えでは、目の前の拷問を止めるために、自己のプライドを捨てて踏絵を踏むのは、むしろ「真の勇気」を示すとも言えるだろう。でも、それは「自分で出した主体的結論」の場合だろう。神父にはそんな「個の主体性」はないはずだ。やはり、神父と言えど人間なので、「弱さ」を抱え込んでいる存在だということなのか。
スコセッシはイタリア系アメリカ人である。もちろんカトリックで、小さいころには神父になることも考えたという。イエスを描いた「最後の誘惑」と言う映画を撮った後で、「沈黙」を知ったという。1988年のことで、それ以来映画化を考えていた。スコセッシはどちらかと言えば、「タクシー・ドライバー」や「レイジング・ブル」のように、「自分なりのやり方で戦った人」を描くときに力強い。役者は神父を「本質は探検家」だと思ったと言っていたけど、スコセッシ映画のロドリゴも「それなりに戦った」けど、神は「よくやった、もういい」と「タオルを投げてくれた」という印象を受けた。
篠田正浩の場合、「あかね雲」と「はなれ瞽女おりん」で二度脱走兵を描いた。他にも「心中天網島」や「鑓の権三」なども「本質的に逃げる映画」だった。だから、「沈黙」もある種「逃げる映画」になっていたように思う。テーマ自体が少し遠いし、内面は描写できない中で、「沈黙」の映画化は難しい。そこに欧米的視点と日本的視点、カトリック信者と非信者の視点など、僕には評価が難しい。スコセッシ版の場合、日本人役者の演技が素晴らしかったぶんだけ、ロドリゴの踏絵を踏む意味が薄れた感もある。
ということで、僕にはロドリゴの行為の評価が完全にはできないのだが、「殉教」と「背教」は二者択一の問題なのかと思う。宗教テロもそうだけど、いじめや長時間労働などの問題を見ても、言ってみれば「殉職か退社か」しかないという発想ではいけないだろう。殉教と背教の狭間に、宗教の一番の問題があると思う。「歎異抄」で唯円は、念仏を唱えれば極楽往生できるというけれど、早く極楽へ行きたいと思えないと親鸞に述べた。親鸞は唯円坊もそうだったかと返す。殉教すれば天国へ行けるとしても、それを心底信じていたとしても、結局人間は目の前の現世にこだわるしかないものだと思う。
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ところで、ここでは大きな問題が消されている。井上筑後守は「日本にキリスト教は根付かない。日本は泥沼だ」という。しかし、それならばキリスト教を放っておいてもいいはずである。いずれ根腐れすると言ってるんだから。そして、実際に明治以後に信教が自由になっても、それ以後に大教団に発展したケースも多いのに、キリスト教系各教団が大発展したことはない。ある意味で、井上サマが正しかったんだけど、それなら幕府の禁教政策もいらない。
でも、その場合、例えば長崎がマカオやゴアのように、ポルトガル領になってしまわなかったと言えるのか。映画内の時点は、1640年から数年だけど、これは島原・天草の乱の直後ということになる。幕府がキリスト教を目の敵にしたのは、実際にキリスト教を旗印にした反乱が起きたからだろう。そういう歴史的な視野で見てみると、幕府のやり方もひどかったけど、あえて神父を送り込んできたイエズス会も判断を誤ったのではないか。「どっちもどっち」では意味がないかもしれないが、歴史的にはそういう気がする。