2月になって獅子文六を連続で読んでいる。獅子文六(1893~1969)は昭和を代表するユーモア小説、家庭小説の名手として再評価されつつある。本名は岩田豊雄で、フランス演劇の研究家であり、今も続く劇団文学座の創立者でもあった。(1937年に岸田国士、久保田万太郎、岩田豊雄の3人が創立した。)もともと娯楽小説は生活のためで、そのため「四四十六」をもじったペンネームを作ったと言われる。死の直前に文化勲章を受けたほど有名だったが、その後忘れられてしまった。
数年前にちくま文庫で「コーヒーと恋愛」が面白本発掘と銘打って刊行され、人気を呼んだ。その後続々と文庫化され、今や12冊も出ている。人気作は当時ほとんど映画化されている。ベストテンに入るような映画は一本もないけど、最近古い日本映画を上映する映画館が増えて僕もかなり見た。それが面白いので原作も読もうかと何冊か買ってみた。「コーヒーと恋愛」「てんやわんや」「七時間半」と読んで、まあそれなりに面白かったがこの程度かなとも思った。だから、もう数冊あったけど放っておいたんだけど、最近読み始めたのは今横浜で獅子文六展が開かれているから。
今回はその圧倒的な読みやすさに参ってしまった。ちょうどこういうのに飢えていたのかも。今では少しずれてしまったレトロ感も悪くない。決して名文ではなく、わかりやすさを優先してスピード感のある文体で疾走する。我が若かりし頃、安部公房や大江健三郎の新作はハードカバーで欠かさず読んでいた頃、獅子文六は読む対象ではなかった。それは源氏鶏太や石坂洋次郎も同様。レトロな大衆文学なら、夢野久作や小栗虫太郎のような「異端文学」に惹かれた。
今になれば、獅子文六のぬるい「良識」的な保守主義が面白く読めるじゃないか。僕の若い頃には「ちょっと前」だった時代も、今では半世紀以上も昔になる。思い入れや恥ずかしさを抜きに楽しめるようになった。ポケベルとかPHS、Windows95とかワープロは、僕にはまだ懐かしさの対象じゃない。しかし、「ほとんどの家に電話がなかった頃」とか「白黒テレビ」とか「オート三輪」(三輪のトラックである)なんかは、不便極まりないけど懐かしい。1960年代の話である。
ということで何回か獅子文六の本について書いてみたい。まず最初は「青春怪談」(1954)である。獅子文六の有名小説はほとんど新聞小説である。「青春怪談」は読売新聞に連載され、翌1955年4月19日に日活と新東宝で競作されて同日に公開された。日活は市川崑監督で、これは見ている。新東宝は阿部豊監督で、今回獅子文六展で上映されたが遠いから見に行かなかった。
父と娘の奥村家、母と息子の宇都宮家。両家は鵠沼(くげぬま、神奈川県藤沢市の海岸)の疎開先で知り合い、若い二人はまあ婚約的な状況にある。でも二人は「クールボーイ」と「ドライガール」で、お互いに燃え上がってる関係にはない。奥村千春は「バレー」に夢中で大役が付いたばかり。(今は「バレエ」と「バレーボール」を使い分ける。この当時は「バレエ」も「バレー」である。)宇都宮慎一は商売を始めることを考え、大学卒業後も就職せずパチンコ屋やバーに投資して「勉強」している。
日活映画では、千春を北原三枝、慎一を三橋達也が演じている。千春に憧れてつきまとっている新子、あだ名はシンデ(シンデレラから)を芦川いづみが超怪演している。ところで問題はむしろ両親の方である。今じゃ「一人親家庭」とは大体離婚だが、当時は戦争や病気で若くして死ぬ人が多かった。子どもの結婚で一人暮らしになってしまう親たちが心配で、子どもたちは相談して二人を結びつけようと企む。そこに様々な人々が絡んできて、ドタバタの上出来ラブコメが展開されるわけである。
(北原三枝と三橋達也)
ところで「青春怪談」という題名は何故だろうか。軽快に展開していた小説がラスト近くで停滞する。不可解な中傷事件が続発して、犯人も判らず慎一の起業のもくろみも座礁しかねない。そこら辺が映画ではサラッと描かれたと思うんだけど、小説ではもっと違う問題が延々と展開されていた。それは「千春のセクシャリティのゆらぎ」である。シンデの千春に寄せる思いは、かなりはっきりと「同性愛」が示唆される。慎一は受け入れがたいが、千春は自ら「自分は本当に女性なのか」、つまり今の言葉で言えば「性同一性」を自ら疑っているのである。
「自由学校」を合わせ読むと、登場人物というより作者自身の「ホモフォビア」(同性愛嫌悪、恐怖)は否定できないと思う。しかし、50年代半ばに新聞小説でここまで「セクシャリティ」をめぐって議論されていたのかとビックリした。それは当時の「良識」の範囲をはみ出さない。しかし外国における「性転換」ケースなども紹介され、作者の関心の深さを思わせる。けっして「興味半分」ではなく、マジメなアイデンティティの問題として、あくまでも娯楽小説の枠をはみ出さないレベルでだが展開されるのである。
親たちの方は山村聡と轟由起子がまさにピッタリの名演。ラスト近く、向島百花園での出来事は抱腹絶倒である。戦後の百花園が出てくることでも貴重。慎一と千春はケータイなき時代のことだから、ひたすら新橋駅で待ち合わせしてずっと待ってる。地下鉄は銀座線しかない時代だから、新橋駅はどこへ出るにも便利なのだ。ところで宇都宮慎一という男、「美男子過ぎる」と評されている。日活は三橋達也、新東宝は上原謙だが、どうもイメージが違う。言い寄ってくる女に不自由しないが、全然興味を示さず千春とも友だちみたいな関係。道徳的に純潔を保っているのではない。当時の概念になかったが「無性愛」に近いのではないか。いろいろ時代に先駆けた小説だ。
数年前にちくま文庫で「コーヒーと恋愛」が面白本発掘と銘打って刊行され、人気を呼んだ。その後続々と文庫化され、今や12冊も出ている。人気作は当時ほとんど映画化されている。ベストテンに入るような映画は一本もないけど、最近古い日本映画を上映する映画館が増えて僕もかなり見た。それが面白いので原作も読もうかと何冊か買ってみた。「コーヒーと恋愛」「てんやわんや」「七時間半」と読んで、まあそれなりに面白かったがこの程度かなとも思った。だから、もう数冊あったけど放っておいたんだけど、最近読み始めたのは今横浜で獅子文六展が開かれているから。
今回はその圧倒的な読みやすさに参ってしまった。ちょうどこういうのに飢えていたのかも。今では少しずれてしまったレトロ感も悪くない。決して名文ではなく、わかりやすさを優先してスピード感のある文体で疾走する。我が若かりし頃、安部公房や大江健三郎の新作はハードカバーで欠かさず読んでいた頃、獅子文六は読む対象ではなかった。それは源氏鶏太や石坂洋次郎も同様。レトロな大衆文学なら、夢野久作や小栗虫太郎のような「異端文学」に惹かれた。
今になれば、獅子文六のぬるい「良識」的な保守主義が面白く読めるじゃないか。僕の若い頃には「ちょっと前」だった時代も、今では半世紀以上も昔になる。思い入れや恥ずかしさを抜きに楽しめるようになった。ポケベルとかPHS、Windows95とかワープロは、僕にはまだ懐かしさの対象じゃない。しかし、「ほとんどの家に電話がなかった頃」とか「白黒テレビ」とか「オート三輪」(三輪のトラックである)なんかは、不便極まりないけど懐かしい。1960年代の話である。
ということで何回か獅子文六の本について書いてみたい。まず最初は「青春怪談」(1954)である。獅子文六の有名小説はほとんど新聞小説である。「青春怪談」は読売新聞に連載され、翌1955年4月19日に日活と新東宝で競作されて同日に公開された。日活は市川崑監督で、これは見ている。新東宝は阿部豊監督で、今回獅子文六展で上映されたが遠いから見に行かなかった。
父と娘の奥村家、母と息子の宇都宮家。両家は鵠沼(くげぬま、神奈川県藤沢市の海岸)の疎開先で知り合い、若い二人はまあ婚約的な状況にある。でも二人は「クールボーイ」と「ドライガール」で、お互いに燃え上がってる関係にはない。奥村千春は「バレー」に夢中で大役が付いたばかり。(今は「バレエ」と「バレーボール」を使い分ける。この当時は「バレエ」も「バレー」である。)宇都宮慎一は商売を始めることを考え、大学卒業後も就職せずパチンコ屋やバーに投資して「勉強」している。
日活映画では、千春を北原三枝、慎一を三橋達也が演じている。千春に憧れてつきまとっている新子、あだ名はシンデ(シンデレラから)を芦川いづみが超怪演している。ところで問題はむしろ両親の方である。今じゃ「一人親家庭」とは大体離婚だが、当時は戦争や病気で若くして死ぬ人が多かった。子どもの結婚で一人暮らしになってしまう親たちが心配で、子どもたちは相談して二人を結びつけようと企む。そこに様々な人々が絡んできて、ドタバタの上出来ラブコメが展開されるわけである。
(北原三枝と三橋達也)
ところで「青春怪談」という題名は何故だろうか。軽快に展開していた小説がラスト近くで停滞する。不可解な中傷事件が続発して、犯人も判らず慎一の起業のもくろみも座礁しかねない。そこら辺が映画ではサラッと描かれたと思うんだけど、小説ではもっと違う問題が延々と展開されていた。それは「千春のセクシャリティのゆらぎ」である。シンデの千春に寄せる思いは、かなりはっきりと「同性愛」が示唆される。慎一は受け入れがたいが、千春は自ら「自分は本当に女性なのか」、つまり今の言葉で言えば「性同一性」を自ら疑っているのである。
「自由学校」を合わせ読むと、登場人物というより作者自身の「ホモフォビア」(同性愛嫌悪、恐怖)は否定できないと思う。しかし、50年代半ばに新聞小説でここまで「セクシャリティ」をめぐって議論されていたのかとビックリした。それは当時の「良識」の範囲をはみ出さない。しかし外国における「性転換」ケースなども紹介され、作者の関心の深さを思わせる。けっして「興味半分」ではなく、マジメなアイデンティティの問題として、あくまでも娯楽小説の枠をはみ出さないレベルでだが展開されるのである。
親たちの方は山村聡と轟由起子がまさにピッタリの名演。ラスト近く、向島百花園での出来事は抱腹絶倒である。戦後の百花園が出てくることでも貴重。慎一と千春はケータイなき時代のことだから、ひたすら新橋駅で待ち合わせしてずっと待ってる。地下鉄は銀座線しかない時代だから、新橋駅はどこへ出るにも便利なのだ。ところで宇都宮慎一という男、「美男子過ぎる」と評されている。日活は三橋達也、新東宝は上原謙だが、どうもイメージが違う。言い寄ってくる女に不自由しないが、全然興味を示さず千春とも友だちみたいな関係。道徳的に純潔を保っているのではない。当時の概念になかったが「無性愛」に近いのではないか。いろいろ時代に先駆けた小説だ。