尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

トランプ大統領はどうなるか?

2016年11月10日 21時39分13秒 |  〃  (国際問題)
 アメリカ大統領選挙に関しては、いろいろな人がいろいろ言っている。トランプ勝利の理由はひとまず置いて、トランプ大統領はどういう大統領になるだろうかということを考えてみたい。

 NHK会長の籾井勝人氏は、9日に(まだ選挙結果の確定前だったが)以下のような発言をしている。「レーガン元大統領が誕生したときに『役者じゃないか』と言った人がたくさんいたが、振り返ってみると、立派な大統領の一人になった。私の個人的な意見だが、彼(トランプ氏)は(大統領になった場合)変わると思う。」 「お前が言うか」という感じだな。

 勝利宣言が案外常識的で、「私は全てのアメリカ人の大統領になります」「今こそ私たちは、一致団結した国民の姿を見せるべきです」「私を支持しなかった方にも、私は手を差し伸べます」と発言したことで、やっぱり「勝てば変わる」のだろうか。そうかもしれないが、僕にはそれは信じられない。共和党候補に正式に選出されたときも、しばらくは「ちょっと暴言を控えた」という感じだった。でも、テレビ討論会などでは、激しいやり取りのあげく「いやな女(Nasty Woman)」と言い放った。

 政策的には予備選時のような「無謀」な発言はしていないが、それでも「うまくいかない」「攻撃される」と、つい暴言で言い返さないと済まないといった「本性」は変わっていないように思う。レーガンは「右派」であり「役者出身」だったが、カリフォルニア州知事を2期8年(1967~1975)勤めた実績が評価され大統領候補と言われるようになった。実際は「職業政治家」を十分経験してから大統領になったのである。(ジョージア州知事を1期務めただけのジミー・カーターよりずっと政治経験があった。)

 アメリカ大統領という地位は、そう簡単に務まるものではないだろう。プーチンや習近平といった経験豊富、「海千山千」の政治家と国際舞台でうまく立ち向かえるのか。「スター気取り」のトランプは、おだてられて乗せられて操られるという可能性の方が高いと考えたほうがいい。「公職経験がない」ことを誇れるのは、選挙戦の間だけで、実際になってしまえば経験不足が不安になるはずである。

 もっとも、「日本を取り戻す」(「アメリカを再び偉大な国にする」とそっくり同じ発想)という意味不明のスローガンで勝利した安倍晋三。あるいは、「暴言」「失言」だらけの石原慎太郎橋下徹。そういった政治家たちを何度も当選させてきた日本国民がトランプ(及びトランプを選出したアメリカ国民)を批判できるのかとも思う。しかし、だからこそ、われわれだからこそ、今後のことが予想できるとも言える。

 一つは「お友だち政権」になる可能性。ズタズタになった共和党を一つにまとめるような人事をできるだろうか。むしろ、ここぞとばかり近づいてくる野心家たちに囲まれて、「おいしい話」にしか耳を傾けなくなる可能性もある。そして、うまくいかない(トランプの政策がうまく行くはずがない)責任を、他国にばかり責任転嫁はできないから、内紛が相次ぐ可能性である。

 もう一つは「暴言」のレベルが上がってしまうことである。石原や橋下などは、「ホンネを言う」「率直に言う」を売り物にして、「暴言」を繰り返すことにより、「あの人はああいう人」と見なされて放置されるようになる。トランプは「あの人は面白いことを言う」をウリにせざるを得ない。それを面白がる人が集まる。常に「きわどい発言」をし続けざるを得ない

 最後に「オバマ政権の遺産」がすべてひっくり返されるだろうということである。民主党政権時の政策が、安倍政権によってほとんど無にされたように。上下両院を握る共和党が、トランプの反民主党政策を認めないはずがない。オバマケア、キューバ政策、同性婚…すべてはひっくり返らないだろうが、これで最高裁は保守派優勢になることは避けられず、アメリカの人権状況は数十年停滞することが避けられない。(米国の連邦最高裁判事は終身である。保守、リベラルは今4対4で、一人欠員がある。)

 外交政策はどうなるか、皆目見当がつかないが、「オバマの逆をやりたい」衝動にかられると、パリ協定離脱、ロシア制裁の取りやめなども考えられる。中東政策は「国益」から、よくもわるくも変更が難しいと思われるが、アジア政策は優先度が下がるだろうと思っておかないといけない。ともかく、内向きになるアメリカは、経済、外交ともに先行きが読めない。誰かそれなりの専門家に任せるというやり方もあるけど、それでは今までと同じと不満が高まる。僕にはどうなるということは判らない。

 とにかく、今回は「クリントンもトランプも嫌い」と公然と言われる異様な大統領選だった。それでも、勝敗は決まった。当初は新鮮さ、期待感、注目度が高い。その「ハネムーン期間」はそんなに長くないだろう。その最初の数か月に「アッと驚く政策」をいくつか打ち出してくると思われる。TPP離脱、パリ協定離脱などでは当たり前すぎる。もっととんでもないことを言い出すと想定しておいた方がいい。
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2016年アメリカ下院選挙の結果

2016年11月09日 23時18分11秒 |  〃  (国際問題)
 アメリカ大統領選挙が終わり、ドナルド・トランプが勝利した。現地のメディアも「大番狂わせ」と表現しているらしい。日本でアメリカの報道を見聞きしている限り、トランプは「接戦州」「スイング・ステート」(選挙ごとに民主、共和と揺れ動く州)をすべて取らないと厳しいという話だった。だけど、結果を見るとクリントン陣営の「防火壁」と呼ばれていたニューハンプシャー州でもトランプが僅差ながら(0.1%)リードしている(その後、クリントンが僅差で逆転した。)大統領選については、まだ最終結果が確定していないので、もう少し後にしたい。

 大統領選挙の時は、同時に下院選挙上院選挙(100人のうち3分の1)、一部の知事選、住民投票などが一斉に行われる。下院議員は任期が2年と短くて、次は2018年。大統領任期の半ばにあるから「中間選挙」と呼ぶ。大統領がどっちになろうが、議会で多数を持ってないなら、今後の政策遂行が難しくなる。では、その結果はどうなっただろうか。

 アメリカの選挙に関しては、僕はニューヨークタイムズホームページを見ることが多い。トップページにある合衆国の色分け地図をクリックすると、大統領選挙の各州の結果を見られる。日本ではトランプかクリントンかしか報じられないが、第3党の「リバタリアン党」はどのくらい得票しているのだろうか。それもここで知ることができる。(大体、3~7%程度を取っている。)

 そのページには大きく、「TRUMP TRIUMPHS 」と大見出しがあるが、その右下にある小さな「Senate」を見ると上院議員選挙の結果が判る。51対47(未定2、非改選を含めた数字)で共和党の過半数が続く。今回は民主が過半数を取り戻す可能性もあると言われていたが、それはならなかった。それでも選挙前より1議席増えている。(上院議員は100人で任期6年。50州から2人ずつ選出され、2年ごとに3分の1ずつ改選される。だから、今回も上院選がなかった州が16州ある。)

 上院の下の「House」をクリックすると、下院議員選挙の結果が判る。「239対193」で共和党が過半数を維持している。定数(議決権を持つ議員)は435人なので、3人が未定である。(過半数は218)下院(かいん)と呼んでいるが、英語では「United States House of Representatives」で「合衆国代議員」になるが、普通は下院と呼んでいる。英語では「The House」ということになる。

 ところでNYタイムズの選挙結果地図を見ると、圧倒的に共和党地域が多いことが判る。シンボルカラーの赤になっている地帯が多い。議席が多いというだけでなく、人口が少ない地域で共和党が圧勝していることで、「面積比」では共和党地域が大きくなる。モンタナ、ワイオミング、ノースダコタ、サウスダコタなど全州で1議席の州があり、全部共和党だからアメリカ地図のど真ん中は真っ赤である。

 実は1994年(ビル・クリントン大統領一期目の中間選挙)以来、20年以上ずっと共和党が過半数を取っている。(2008年のオバマ当選時の下院選を除く。)そして、それは今後も続くと見なければならない。今回も共和党過半数は事前に確実になっていた。オバマ大統領が「チェンジ」を唱えて大統領選挙に勝った時だけ、上下両院で民主が主導権を握っていて、「オバマケア」を成立させた。しかし、その後の中間選挙以後はオバマ政権は「ねじれ」議会になすすべがなかった。だから、オバマ大統領は内政面では思ったような施策が不可能になったのである。その「アメリカ版ねじれ」は今回解消された。

 なんで、共和党優勢が続いているのか。大統領選挙では民主が勝った時もあるし、毎回ほぼ民主、共和が拮抗しているんだから、もう少し違った結果になっても良さそうである。というか、逆に言えばなんでそれまでは民主党が過半数を取っていたのか? 現時点では、移民問題、銃規制、同性婚など、民主党の方がリベラルという印象があるだろう。昔のアメリカ人の方がリベラルだったのか? そうではなく、実は南部で「保守的民主党支持者」がいっぱいいたのである。
 
 そもそもリンカーンは共和党なんだから、南部の白人は反共和党だったのである。政策的にも、北部商工業者を代表する共和党に対して、農業重視の民主党の方が近かった。大恐慌時代のフランクリン・ルーズヴェルト大統領時代には「ニューディール連合」といわれる民主党の基盤が形成された。組織労働者、ブルーカラー労働者、マイノリティ、南部白人(農場経営者)、知識人といった、今見ると利害が相反しそうな人々が、「ニューディール政策支持」ということで民主党の支持基盤になったのである。

 その連合は、ベトナム戦争を通して崩壊してゆき、レーガン時代に完全に切り崩されてゆく。南部の保守的白人は共和党に入れるもんだという、現在の通念はこのとき以後に形成されたものである。長年当選してきた有力議員が個人票を持っていたから、なかなか共和党の過半数はならなかったけれど、ついに1994年に過半数を取ったわけである。そして、それは今後も続くと言われる。

 今、アメリカの人口は3億1千万ほどで、7割ほどが白人系とされている。しかし、その割合は漸減していて、やがてヒスパニック系が増え、2050年には白人は5割を割ると予測されている。(ヒスパニックはカトリックだから、基本的には避妊も認めなくて子だくさんが多い。)だけど、アメリカの場合は「有権者登録」をしないと投票できないので、若くて、貧しくて、社会に統合されていない人々の投票率はどうしても低くなる。つまり、有権者比では人口比よりも白人比率が高くなるのである。

 そのうえ、社会の分断が進み、同じような階層の人々が近くに住むことが多くなる。白人富裕層は自分たちの町を作って住み、都市の中心部は貧しいマイノリティが集住する。そういった傾向が進んできたわけである。アメリカの選挙は、完全な小選挙区一本なので、ある程度散らばって住む共和党支持層が勝ちやすい。民主党が強い地域では、圧倒的に民主が勝つ。でも、それ以外の地区では、一票でも多い方が勝ちだからマイノリティ票は勝てない。そういった「それ以外の地区」の方が全米規模では多いということである。今回を見ると、長年の支持基盤の組織労働者も民主を離れた可能性もある。

 今後もしばらくは、大統領は交互、接戦になるだろうが、下院は共和党優位になることを前提にしておかないと、アメリカ政治は理解できない。残念ながら、それが現実である。この現実は、ある意味日本の現状と似ている。「小選挙区」はこうなるということである。もっとも、アメリカの場合、今の共和党議員=トランプ支持ではないだろう。共和党内がどうなっていくは、今後注目していかないといけない。
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西川美和監督の傑作「永い言い訳」

2016年11月08日 21時45分59秒 | 映画 (新作日本映画)
 西川美和監督の新作「永い言い訳」を数日前に見た。見た時はすごい傑作だと思い、今年のベストワンはこれだとまで思った。書くまでに日が経ったら、そこまでの熱気が薄れてしまった。そこもまた、この映画の評価に関することかと思い、そうしたもろもろを書いておきたい。

 映画は本木雅弘が妻の深津絵里に髪を切ってもらっているシーンで始まる。本木は有名作家で、本名は「衣笠幸夫」というらしい。広島カープの大選手、衣笠祥雄と同じ名前を付けられた男の悲哀を本木は語る。(脚本を書いた西川監督は広島出身で、本人の許可を取っているよし。)二人は大学で知り合ったが、妻は家庭事情で退学し美容師になった。幸夫がたまたま行った美容院で再会し、作家になる夢を思い出す。だけど、結婚以来20年、子どもは作らず、それぞれ仕事も忙しく、夫婦仲は冷めているらしい。そして、用事がある妻は家から出てゆく。

 その後、衣笠は愛人とあっている間に、電話で妻がスキーバスの事故で死んだと伝えられる。だけど、彼はうまく悲しむことができない。(当然だろうが。)一方、妻は高校生以来の女友だちと一緒にバスに乗っていて、一緒に亡くなった。その友だちは男女二人の子を抱えて、夫はトラック運転手。「妻の友だちの夫」は妻の死を共に悲しむ人を求めて、衣笠に接触してくる。この運転手、大宮を演じる竹原ピストルの存在感が半端でなく、「知識人」津村(衣笠のペンネーム)と違って、感情をもろにぶつけてくる「正直」で「うっとうしい」役が忘れがたい。そして、衣笠は大宮一家と会うことになる。

 その経緯を全部書くと面白くないから止めるが、とにかく幸夫はつい大宮家の子どもの世話に乗り出すことになるのである。大宮は深夜勤務で家を空けることも多く、小さな妹がいるので中学受験を考える兄は塾に行けなくなっている。衣笠は初めての子どもの世話で、新しい人生体験をすることになる。そして、感情をぶつける大宮の生き方が、かえって長男に負担をかけている様子も判ってくる。この長男と妹は、子どもには勝てませんという名演技で、ものすごく面白い。本木の演技も素晴らしい。

 こうして、人気作家として「妻の死を悲しむふり」をして生きていた衣笠が、人間として自然な感情を表せるようになっている…、というわけである。本木雅弘と竹原ピストルの演技合戦は、非常に見ごたえがあって、見ているときの満足感が高い。こういうシチュエーションにあう人は少ないだろうが、「仕事の役割として、与えられた役を演じるふりをして生きている」のは、複雑に発達した現代社会では多くの人に共通している。だから、この映画を見ていると、設定はだいぶ特殊だけれど、それでも人間の真実をえぐっていると感じるのである。

 西川美和(1974~)は現代日本を代表する女性映画監督と言える。長編5作はすべてオリジナル脚本である。作家としても評価されていて、「永い言い訳」はあらかじめ小説として発表して直木賞候補になった。是枝祐和に見いだされ、自作脚本を映画化した「蛇イチゴ」を作るが未見。2006年の第2作「ゆれる」でブレイク。3作目の「ディア・ドクター」(2009)でベストワンになった。次の「夢売るふたり」(2012)以来の新作で、数年かけてオリジナル作品を作るスタイルである。

 その作品は社会派的にも語れる設定ながら、危機に直面した人間模様の観察に終始しているのが特徴である。「ディア・ドクター」は、笑福亭鶴瓶の偽医者が絶品だったが、過疎地の医療問題を背景にしながら社会的問題提起はしない。他も同じ。今回の「永い言い訳」も同様で、バス事故や長距離ドライバーに潜む長時間労働問題、あるいはマスコミと人気作家の関係、子どもをめぐる教育問題などは語らず、ただひたすら大宮家と衣笠の関係をじっくり描いている。それはものすごく面白い。

 だけど、だんだん時間が経つと、その面白さも忘れてくる。そうなると、ちょっと世界の狭さが気にもなってくる。有名作家が不倫しているというのは、別に不思議な設定ではない、むしろ、ありふれている。妻が突然死ぬのも、ドラマでは許される。そこで主人公が試されるわけである。だけど、美容師として成功している女性が、二人の幼い子どもを抱える同級生と、今もスキーバスで出かけるという設定は納得できない気がする。昼間に会食するならいいけど、新幹線だって使えるだろうに、なんで幼い子を置いて深夜バスで行くのかな。映画を見ているときは気づかないけど、このドラマの設定が、主人公を試すための作り物めいて見えてくるのが、いささか難点か。でも、主人公二人と子ども二人の演技の世界は今年ベスト級の面白さだろう。間違いなく、西川監督の演出に感心できる。
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追悼・荒戸源次郎

2016年11月08日 18時51分05秒 |  〃  (日本の映画監督)
 映画監督、プロデューサーの荒戸源次郎が亡くなった。(70歳。1946~2016.11.7)報じられていることに「漏れ」があると思うので、簡単に追悼を書いておきたい。

 ニュース記事だと、劇団状況劇場に参加していたとある。ウィキペディアによると、それは確かだが公演中に暴力をふるって10カ月でクビと出ている。仔細は知らないけど。荒戸の名前を僕が知ったのは、その後荒戸らが作った劇団天象儀館である。そして、1973年には大和屋竺(やまとや・あつし)監督の「愛欲の罠」という怪作映画の製作・主演者となった。これは見ている。大和屋竺も1993年に55歳と若くして亡くなったので、今は忘れられているかもしれない。とにかく、荒戸源次郎という独特の名前は、そういう「前衛」演劇や映画に関わる名前として印象つけられた。

 1980年になって、突然われわれは鈴木清順監督の最高傑作を目にすることになった。「ツイゴイネルワイゼン」である。荒戸はこの映画のプロデューサーだった。単に映画を作るだけでなく、東京タワーの敷地内に独自の映写施設を持つ「シネマ・プラセット」なる上映施設を作ってしまい、そこで長期上映を敢行したのである。そういう上映形態はそれまでになかった。僕も見に行ったけど、不思議な映画だった。「不思議な魅力を持つ映画」というべきか。今までに3回か4回見ていると思うけど、何回見てもよく判らない。でも、見るたびに面白くなり、何度も見たくなる不思議な映画である。

 鈴木清順は1967年に日活を解雇され大問題となった。10年後の1977年に「悲愁物語」という映画を撮ったが、あまり面白くなかった。もう終わりかと思わないでもなかったけど、こうして荒戸プロデューサーによって、「ツイゴイネルワイゼン」「陽炎座」「夢二」と代表作が作られたわけである。また、続いて新人監督(阪本順治)がボクサー出身の新人俳優(赤井英和)を主演させた「どついたるねん」を作った。これも傑作だけど、当初は独自に上映したのである。その後、2005年に大森立嗣監督「ゲルマニウムの夜」を東京国立博物館の一角に「一角座」という施設を作って長期上映。冒険と思える試みを行い、作品的にも興行的にも成功させた功績は非常に大きいと思う。

 だけど、荒戸源次郎はプロデューサーにとどまらず、映画監督に自ら乗り出した。2003年の「赤目四十八滝心中未遂」は、特に成功してベストワンになった。車谷長吉の直木賞受賞の名作を、心ふるえるような映像でまとめた傑作である。特に寺島しのぶは、映画・舞台を問わず生涯最高の演技ではないだろうか。(まあ、まだ今後が長いけど。)この映画も評判になる前は、あまり大きく公開されなかった。評判を呼んで公開が広がっていったのである。

 他に2作監督してい入る。最初は1995年、内田春菊原作の「ファザーファッカー」。これは確かに話題先行で、あまり成功していなかった気がする。そして、2010年に太宰治生誕100年(2009年)を記念した「人間失格」を監督した。原作は超有名だし、生田斗真の映画初主演ということで、この映画だけは最初から広く公開された。

 そして、訃報に全く出てこないように、あるいは映画各賞にもノミネートされずに、忘れられてしまった。その後上映されてないんじゃないか。でも、この映画は傑作である。2回見たけど、原作への過剰な思い入れなどがなければ、十分に傑作として楽しめると思う。その後も舞台に関わったりしたようだが、映画監督として最後の「人間失格」が評価されなかったのは残念だったろう。
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映画「何者」をどう見るか

2016年11月07日 23時09分52秒 | 映画 (新作日本映画)
 朝井リョウの直木賞受賞作品「何者」が、東宝映画、三浦大輔監督・脚本で映画化されて公開されている。この映画「何者」をどう見るか。好きに見ればいいんだけど、映画(原作)の設定はつい中身を論じたくなっちゃう。また、若手人気俳優がズラッと出ているので、それを見に行くのもいい。

 だけど、映画自体のつくり、映画としての完成度はどうなんだろうか。近場のシネコンで見たんだけど、観客はほとんど大学生ぐらいの人だった。カップルも多く、終わった後に「誰は〇〇タイプ」「いや、佐藤健かも」などと言い合っていた。拍手してる人が一人いたけど、そこまで行かなくても大体は満足そうだった。中学生らしき集団が一部で「わかんない」と言ってたけど。(「シン・ゴジラ」では連れてこられた子供が泣いていた。「君の名は。」では小学生たちが「どうなってんの?」とブツブツ言っていた。)

 僕は三浦大輔監督の演出力は、なかなか大したもんだと思った。特にマンションのセットが、舞台上に作られている場面。演劇出身の監督っぽいが、設定のすべてを相対化する視点を示して興味深かった。三浦大輔(1975~)は早稲田大学で劇団「ポツドール」を結成し、2006年に「愛の渦」で岸田國士賞受賞。商業映画としては「ボーイズ・オン・ザ・ラン」(2010)、「愛の渦」(2014)に続く3作目。

 「愛の渦」は見たけど、話がいやになってしまった。大根仁監督「恋の渦」の原作も三浦だが、同じく「いや系」の話。今回の「何者」も、実は同じような「いやな話」である。冷え冷えとした人間観照が全編を貫いている。でも、話そのものは原作に負っている。読んでるので展開が予想できるので、いや感が薄れる。そうしてみると、若い人気俳優をうまく演出して、どこにも破綻がない。よく出来ている。

 俳優に関しては、それぞれの役どころを違和感なく演じ切っている。役名は省略するが、佐藤健(たける)の風貌や雰囲気は原作から思い描くままではなかろうか。菅田将暉(すだ・まさき)は、昔のスターシステム時代のように出ずっぱり。(いま公開中の映画だけでも、「溺れるナイフ」と「デスノート」。今年で何本目か。)ここでは歌いまくって絶好調。一方、二階堂ふみは相変わらずうまくて、今回は珍しく優等生役だけどそつなく演じている(と僕は思うけど。)案外難役だと思うのが、有村架純。何気ない演技力をうまく発揮している。そこに岡田将生(まさき)が絡んでくる。みな現実の大学生に見えてくる。

 さて、この後は中身の話。原作に関しては、前に「『横道世之介』と『何者』」(2013.3.17)を書いた。書き落としがある気がして、翌日に「何者2」を書いた。前者はちょうど吉田修一「横道世之介」を読んだので、合わせて感想を書いている。比べると、数十年の間に「日本の青春」がガラッと変わったことがよく判る。それはいいことなのか。インターネットや携帯電話が普及して、一体若者は幸福になったのか、不幸になったのか。まあ、そういうことを考えてしまうわけである。

 小説に関しては、一種の叙述トリックがあって、最後の方でなるほどと思う展開になる。登場人物が「イタイ」感じで傷つけあうが、「シュウカツ」「ツイッター」という「装置」を生かして、いかにも現代の青春像である。何事か語りたくなる。年長世代だと、「これがイマドキのシュウカツってやつか」と慨嘆(感心?)しつつ見る人が多いだろう。大変な時代になっちまったもんだと同情半分、批判半分で「上から目線」で見てしまう。「昔はこんなじゃなかったんだよ」と語りたくなってしまう。

 でも、大体の展開が判って見たせいか、これは「世代を超えた人間の本質」だと思った。いつの時代にも、皮肉な観察屋もいれば、優等生の頑張り屋もいる。家庭を背負っている人もいれば、天然で生きている人もいる。同じなんだと思う。ただ、昔はもちろんツイッターはなかった。なかったから、瞬間的に反応することはできなかった。日記かなんかにブツブツ書いてただけである。でも、今だって「つまらない」「くだらない」以上の反応をすぐにまとめて発信する人は少ないだろう。「才能」が必要だから。

 物語の世界に没入していると、「物語の設定」そのものには関心が向きにくい。物語(小説、演劇、映画、マンガ等)には、仕掛けがあって初めて存在できる。「何者」では「シュウカツ」の怒涛の展開に付き合ってしまうけど、彼らにはそれまでの大学生活があるし、大学以外の世界もある。「プリンターが壊れてる」から、たまたま1階上の女子部屋を「就活対策本部」にするというと、盛り上がって納得してしまう。けど、パソコン本体じゃなくて、プリンターだけ壊れてるってありか? バイトしてるんだから、安いプリンター買えるだろ。いや、買うべきだよね。そこら辺から始まって、実際にはけっこう変である。

 5人いて、全員が東京で民間企業ばかりというのも、ある意味おかしくないか。地元に帰って公務員試験受ける人はいないのか。大学院に進む人はいないのか。僕は佐藤健演じる青年の観察力は、ある種「研究者向き」ではないかと思う。若い時期はみな恥ずかしい間違いを繰り返す。この小説、映画の登場人物は、皆まっとうに生きているではないか。企業に入って、長時間労働などで苦しんでいないだろうか…とつい思ってしまうわけである。
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清泉女子大本館(旧島津邸)を見る

2016年11月06日 21時23分49秒 | 東京関東散歩
 東五反田にある清泉女子大学の本館を見に行った。ジョサイア・コンドル設計による旧島津邸である。1917年(大正6年)完成なので、来年で100周年。清泉女子大の本館として、今も授業や事務室に使われている。今日は一般公開されているので、貴重な機会だから見に行った。
    
 まず、庭に面した本館の全景写真を載せる。やっぱりこの本館の建物が素晴らしい。「円錐状の列柱廊を持つ優雅なバルコニー」と案内に書いてある。なるほど。イタリア・ルネサンス風とも言われる。写真の左の方に見える木は桜で、春はとても素晴らしそう。(大学の作った絵葉書は春の風景。)庭も素晴らしく、山手線の中にこんな素晴らしい庭があったんだ。明治天皇や大正天皇が休憩した場所という案内板もあった。もちろん大学ではなく、島津家を訪ねたわけである。
   
 大学は山手線・五反田から近いが、都営地下鉄浅草線高輪台駅からだと坂を上らずに行ける。このあたりは、袖ヶ崎と呼ばれた場所で、江戸時代には仙台伊達藩の下屋敷だった。明治になって島津家の所有になった。島津家は維新の「功績」で公爵(華族の最高位)を与えられていた。周辺は高級住宅街になっていて、「島津山」と名の付くマンションがいっぱいある。大学の入り口から、坂道をずっと登って行くと、本館が見えてくる。
   
 道を回ってキャンパスを進むと、本館の圧倒的な建築美に目を奪われる。しかし、実は現代の建物と続いていて、そこに受付があった。そこから中も見られて、2階にも行けた。今日はフォトコンテストをやっていた。女子大生モデルが大島紬(島津つながりで、鹿児島県の名産)を着て、たくさんの人が写真を撮っていた。まあ、それはパスしたけど、今後も同様の企画があるらしい。
   
 清泉女子大は「聖心侍女修道会」を母体とするキリスト教系大学で、1950年創立。最初は横須賀市にあったが、1962年に現在地に移転した。島津邸は1915年に竣工後、黒田清輝の指揮で館内の調度が整備された。1917年に完成の折には、大正天皇、皇后の行幸啓に、寺内首相、松方正義、山本権兵衛、東郷平八郎など名士2000人が列席し園遊会が開かれた。この説明は大学のホームページに出ていたけど、島津家の洋館が完成したっていうのは、そこまでの大ごとだったのかとビックリさせられる。その後、昭和恐慌や戦時下の窮迫で島津家から日銀に渡り、占領中はGHQの将校用に使われた。
   
 上の写真の最後、ただの階段に見えるだろうが、実は違う。階段の前に立ち入り禁止の案内があり、上は危険だから公開してないのかなと思ったら、案内の女子大生が来て説明してくれた。実は「恰好だけ階段」というか、「階段のふり」というか、上に建物がないのに階段だけ作ってある。コンドルの特徴の一つで、建物を大きく見せるトリックなんだって。赤瀬川原平の喜びそうな趣向だな。

 ジョサイア・コンドル(Josiah Conder 1852~1920)はイギリス人なので、ホントは「コンダー」と読む方がいいらしい。日本ではオランダ風のコンドルで定着してしまったけど。お雇い外国人として来日したが、河鍋暁斎に弟子入りしたり、日本女性と結婚して、日本で亡くなった。近代建築の礎を築いた人だが、東京が活躍の中心だったから、震災、空襲、再開発で無くなったものが多い。東京では旧岩崎邸、、旧古河邸ニコライ堂などが現存している。ここは今も実際に使われているというのがすごい。大学建築という意味でも、日本を代表する景観の一つではないだろうか。
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石神井公園散歩

2016年11月05日 23時10分33秒 | 東京関東散歩
 東京ではいま「文化財ウィーク」という期間。石神井城が公開されているので、石神井公園に散歩に行ってきた。「石神井」は「しゃくじい」。東京の人なら大体読めると思うけど、一般的には難読かも。井戸を掘ったら石棒が出てきて、それを「石神」としたのが地名の由来なんだだという。東京23区の西北部、練馬区にあるけど、池袋から西武線急行で9分と案外早くてビックリした。

 今年は散歩日和が少ない。夏は高温多湿、9月になったら毎日雨。10月にまた暑く、と思ったら急に寒くなる。ここ数年、夏と冬しかないような気候になってしまった。冷房も暖房もいらない日が一月もない。ようやく今日は晴れて温かい秋の一日になった。前に洗足池に行った時も気分が良かったけど、今回の石神井池三宝寺池もとってもいい。奥日光によく行くのも中禅寺湖や湯ノ湖があるからかも。自分は湖や池が好きで、癒しスポットなんだと改めて思った。

 石神井公園駅を出て、南の方に商店街を歩く。お菓子の「新盛堂」の先を左に曲がってしばらく行くとボート乗り場に出る。もう都立石神井公園だ。向かい側に出ると池がよく見える。実は初めて知ったのだが、ここには池が二つある、まず最初が石神井池で、実は1933年に人工的に作られたもの。奥の三宝寺池から引いていた水路をせき止めて作った。今はスワンボートなどで楽しまれている。
   
 もう少し行くと野外音楽堂があり、そこらへんで中之島を通る太鼓橋がある。北側へ渡ると、また違った雰囲気で住宅街に面した開けた道になっている。
   
 やがて大きな道に出て石神井池は終わり、左に進むと「ふるさと文化館」、先へ進むと三宝寺池。信号を渡って少し歩くと木道で、そこを歩いていくと国の天然記念物「三宝寺池沼沢植物群落」がある。貴重な植生が残っていたところだが、今は都市化でだいぶ変わったようだ。三宝寺池は、多摩の丘陵地帯が下ってきたところの湧水で、井の頭池や善福寺池など区部の西には池がいくつか存在する。
  
 三宝寺池の南の方に小高い丘が、中世の山城、石神井城である。豊島氏の居城だったところだが、太田道灌に滅ぼされた。いろいろと細かいエピソードがあるが、ここでは書かない。今はフェンスに囲まれて保護されているが、秋の一部期間に公開される。見たから何が判るというもんでもないけど。空堀や内郭があるから、ただの山じゃないな、城跡だなという程度のことは判る。関東の人は関東の戦国史を知らない。鎌倉公方や関東管領をめぐる複雑な争いがあったけど、結局は後北条氏が征圧し、秀吉に滅ぼされ家康が来る。だから、天下統一や幕末維新の志士がいなくて、大河ドラマになりにくい。
   
 城から降りて、三宝寺池をめぐる。水面に青空と木々が逆さに映って美しい。神社があって、池の中にあずまやが作られている。なかなかきれいで、歩いていて楽しい。
   
 三宝寺池を超え「松の風文化公園」に行くと、ふるさと文化館分室がある。練馬区出身の文化人の紹介や五味康祐(ごみ・こうすけ)の展示をしている。五味は「柳生武芸帳」が大評判になった作家で、いま「『柳生もの』の系譜」という展示をしていた。これがとても面白い。時代小説、時代映画ファンには必見。またはオーディオファンとして知られ、所蔵のステレオが2階で展示されていた。(写真左)他にも、檀一雄の部屋も再現されている。(写真右)檀は石神井に住んでいた。ビックリしたのは、石神井城のところに「石神井ホテル」というのがあり、檀はそこにこもって「リツ子」シリーズを書いたという。
 
 三宝寺池のあたりは鳥も多く、バードウォッチャーも多い。鳥の鳴き声もするが、水鳥も多い。そんな中を歩いて戻り、「ふるさと文化館」へ。そこでは「夢の黄金郷 遊園地展」をやっていたが、見なかった。それより一階にある「エン座」といううどん屋へ。ここは有名なところで、よく紹介されている。「糧(かて)うどん」というのが名物で、豚肉や野菜を入れた温かい出し汁にうどんを付けて食べる。美味しく食べて、他にもお寺など史跡があるんだけど、まあ満足して帰ることにした。
  
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プミポン国王、アーノルド・パーマー等2016年9、10月の訃報(外国)

2016年11月04日 23時46分03秒 | 追悼
 タイのプミポン国王が亡くなった。(10.13没、88歳)国王としての名前は「ラーマ9世」となる。タイは絶対王政ではないけれど、「国政の要」に国王が存在していたことは確かである。プミポン国王は1946年に兄の死を受けて王位を継承した。つまり「第二次大戦以後」がほぼ治世の期間なのである。その間、ベトナム戦争や軍政、経済発展などタイの社会もさまざまな出来事があった。国王の「裁定」といった形で政局の混乱が終息することもあった。そのことの評価は他国の人間にはなかなか難しい。タイでは王室批判の自由がないのが実態である。外国人にも「不敬罪」が適用される。

 僕はタイが初めて行った外国で、その風土や言葉が好きな国。タイの映画もずいぶん見ている。タイ語の響きが好きなのである。だけど、ここ10年以上、タクシン元首相派と反タクシン派でタイ政治が大混乱している。そのことを遠くから残念に思っている。そして、いずれ来る「プミポン国王以後」のタイ社会を心配してきた。今後のタイ社会の安定と民主化を見守っていきたい。なお、プミポン国王は犬が大好きで、「奇跡の名犬物語」という子ども向けの本まで書いていて、日本語訳もある。

 ウズベキスタンのカリモフ大統領が9月2日に死去、78歳。ソ連末期から27年間にわたって君臨した人である。その後、13日にイスラエルのシモン・ペレス元首相が亡くなった。93歳。マスコミは「元大統領」と報じたけど、イスラエルは議院内閣制なんだから、首相が政治の中心である。84年から86年まで務めている。その後、ラビン首相のもとで外相を務め、PLOとの和平交渉を進めた、94年のノーベル平和賞をラビン、アラファトとともに受賞したわけである。だけど、ペレスという人は、国防次官としてイスラエルの核武装の中心となった人物である。そっちも忘れてはいけない。

 
 プロゴルファーとして、圧倒的な知名度を誇ったアメリカのアーノルド・パーマーが、9月25日に死去、87歳。もっとも僕はゴルフのこともよく知らない。でも、ジャック・ニクラウスとかアーノルド・パーマーの名前は知っている。特にパーマーは傘のデザインのブランドで有名で、僕もずいぶん着ていたものだ。特にパーマーのファンというわけではないけど、ポロシャツなんかすごく売ってたから。
 
 イギリスの指揮者、ネヴィル・マリナー(10.2没、92歳)。元々はバイオリニストだというが、1959年にアカデミー室内管弦楽団を結成した。レパートリーが広いことで知られ、ウィキペディアをみるとズラッと作曲家の名が並んでいる。映画「アマデウス」で指揮をしたことでも知られている。N響でも指揮したし、僕も名前が知ってたけど、聞いたことはない。

 
 ボブ・ディランのノーベル賞が伝えられた日に、イタリアのダリオ・フォの訃報が伝えられた。(10.13没、90歳)1997年のノーベル文学賞受賞者だけど、知ってる人は少ないだろう。劇作家、俳優、演出家ということになるが、一貫して左翼的反体制の立場から、風刺喜劇を書いて上演したという人らしい。日本でも、かつて民藝や黒テントで上演されたことがあるらしいが、見てないし知らなかった。

 ほとんど報じられなかったけど、アメリカの劇作家エドワード・オールビーが亡くなっている。(9.16没、88歳)「動物園物語」でデビューし、代表作「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」は映画にもなり、日本でもよく上演された。その後、3回ピュリツァー賞を受けている。70年代にはテネシー・ウィリアムズ、アーサー・ミラー以後のアメリカ演劇界の中心になる人と思われていたと思う。なんだかその後失速した感じがあるが。「ヴァージニア…」はハヤカワ演劇文庫に入っていて、読んでいる。
 
 カナダの作家。ウィリアム・パトリック・キンセラが9月16日に死去、81歳。「安楽死法」による死亡だったという。映画「フィールド・オブ・ドリームス」の原作「シューレス・ジョー」で有名。他に「アイオワ野球連盟」がある。どっちも野球を題材にした奇想小説。「シューレス・ジョー」は1919年に起こった大リーグ史上最悪の不祥事、「ブラックソックス事件」(シカゴ・ホワイトソックスの選手がワールドシリーズで八百長をした)を扱っている。映画以上に原作が感動的だったと思う。

 アメリカの反戦運動家として有名だったトム・ヘイデンが死去。10月23日、76歳。68年にシカゴで開かれた民主党大会は、当時シカゴ市長だったデイリーの圧政のもと、ベトナム反戦運動への大弾圧が行われた。7人が逮捕、起訴され「シカゴ・セブン」として知られる。このネーミングは今でも時々アメリカの小説や映画なんかに出てくる。トム・ヘイデンはその一員で、やがて「反戦女優」のジェーン・フォンダと結婚することになる。離婚後、カリフォルニア州上院議員になり、戦後補償問題などにも取り組んだ。アメリカのある時代を象徴するような人物である。
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田部井淳子、平尾誠二、加藤紘一等ー2016年9・10月の訃報(日本)

2016年11月03日 22時25分37秒 | 追悼
 9月の訃報は書かなかったのだが、10月には1面に載るような訃報が相次いだ。ここでも3回記事を書いている。(アンジェイ・ワイダ、平幹二郎、三笠宮)写真も入れると長くなるので、日本編と外国編に分けて書くことにする。まあ、一般的に有名な人から簡単に。

 田部井淳子(たべい・じゅんこ 1939~2016.10.20、77歳)は、女性として初めてエヴェレスト(チョモランマ)に登った人である。そして、七大陸最高峰をすべて登った最初の女性でもある。年齢を重ねても登山を続け、環境保護運動にも携わった。福島県三春町出身で、大震災被災者の高校生徒の富士登山が最後の登山になった。直接話を聞いたりしたことはないけど、尊敬すべき人だった。

 日本のラグビー界を引っ張ってきた平尾誠二(10.20没、53歳)が若くして亡くなり、多くの人に衝撃を与えた。同志社大で大学選手権3連覇、神戸製鋼日本代表として日本選手権7連覇、ワールドカップ3回出場、91年の初勝利に貢献した。ということを今新聞記事に拠りつつ書いてるけど、すごいですね。もっとも僕はラグビーのルールもよく知らず、昨年のワールドカップでやっと大体わかったという程度である。それでも平尾誠二という人の名前と顔も一応知っていた。やはりすごい人なんだろう。


 元自民党幹事長、外相、官房長官の加藤紘一(9.9没、77歳)が亡くなった。2012年の総選挙で落選し、政界を引退していた。(2014年の選挙では、3女の鮎子が当選した。)いろいろと自民党史上に名を残しているけど、かつて日本政界の中心とされた宏池会(旧池田派から宮澤派へ続いた派閥)を引き継ぎ、首相になると思われていた。「変人」として知られた小泉純一郎が長期政権になったのと比べて、「運命」は加藤紘一に過酷だった。小泉、山崎拓と「友情と打算」のYKKを形成し、竹下派に対抗した。98年の総裁選で、小渕首相に対抗して出馬して閣外に去った。それがなければ、2000年に小渕が倒れた時に総理の座が回ってきたかもしれない。

 そして、2000年秋に、森首相に対する不信任案に賛成する意向を示した「加藤の乱」で自滅することになる。当時はインターネットが広く普及し始めた時代で、僕も加藤議員のHPをのぞいてみたことがあった。「教員免許更新制で日本の教育をよくする」と書いてあって、やっぱり自民党というのはバカだと思った記憶が鮮明である。でも、2006年、極右に鶴岡の実家を放火されたから「リベラル」系ということになる。(なお、ウィキペディアに、都立日比谷高の同級生に利根川進と山尾三省がいたとある。)

 芥川賞作家の高井有一(10.26没、84歳)は、昨年「この国の空」が映画化されたときに、少し書いたと思う。芥川賞の「北の河」、谷崎賞の「この国の空」、大佛賞の「高らかな挽歌」なども傑作だと思うけど、「立原正秋」で若いころからの友人の虚実をとことん追求する鋭さには戦慄させられた。
 直木賞作家の伊藤桂一(10.29没、99歳)は、一貫して戦争を描いた作家だった。戦争というか「戦場」に、あるいは戦場で出会う兵士たちを描き続けた。詩人でもあったけれど、やはり戦場もの、戦記物が多い。面白いかと言えば、今ではあまり面白くない気もする。でも大切な存在ではないか。僕は直木賞の「蛍の河」他2.3冊しか読んでいないけど。(写真、左が高井、右が伊藤)
 
 戦争ということでは、民間の戦災被災者の救済を訴えた、杉山千佐子(9.18没、101歳)とBC級戦犯として反戦を訴え続けた飯田進(10.13没、93歳)の訃報が伝えられた。戦争の直接体験者は、もうこれだけの高齢になっている。杉山は名古屋で空襲にあい左目や顔の一部を失った。戦災被災者救済を求め田が、国会は一度も認めなかった。飯田は海軍軍属としてニューギニアでの住民虐殺を問われ、重禁錮20年の刑を宣告された。長男がサリドマイドの薬害を受け、それを機に社会福祉法人「青い鳥」を設立した。僕は聞いたことがないのだが、ずっと講演を通して反戦を訴え続けていた。
  
 民族学者の加藤九祚(きゅうぞう、9.12没、94歳)は、ウズベキスタンで調査中に亡くなった。中央アジアのシルクロードなどで研究をした人。中世史研究の脇田晴子(9.27没、82歳)は女性史や都市、芸能などの観点で研究をして中世の新しい姿を示した。もっとも僕は専門外でほとんど読んでない。

 美術家の中西夏之(10.23没)は戦後の前衛芸術運動の中心の一人。赤瀬川原平、高松次郎との「ハイ・レッド・センター」の「センター」である。(名前のアルファベットの頭文字。)
 女優の風見章子(9.28没、95歳)は、戦前の名作「土」のヒロインに抜てきされたというから、古い話。戦後も「飢餓海峡」「赤ひげ」などの出演、テレビにも出ていたというけれど、僕にはもう印象がないほど古い感じがしてしまう。
 横山むつみ(9.21没、68歳)は「知里幸恵 銀のしずく記念館」の館長だった人。アイヌ民族の美しい神話をつづった「アイヌ神謡集」を書いた知里幸恵。その人の姪にあたるというが、2010年に記念館を作った。僕はまだ行ってない。文芸評論家の田中弥生(9.24没、44歳)は、「スリリングな女たち」という評論がある気鋭の評論家だったという。僕は名前を知らなかったんだけど。
 
 元小結羽黒岩の戸田智次郎(10.23没、70歳)は、戸田を名乗った時代に、大鵬の45連勝に土を付けた力士である。でも、それは「世紀の誤審」として知られ、相撲でビデオ判定を導入するきっかけとなった。そのことで相撲の歴史に残ってしまうのも本人はいやだろうが。
 元社民党幹事長、運輸相の伊藤茂(9.11没、88歳)、元文科相の小坂憲次(10.21没、70歳)は長野の小坂家の4代目だが、93年に羽田孜に従って自民を離党、新生党から新進党、民政党と付いていったが、民主党には入らず自民に復党した。
 他にも様々な人の訃報があるが、自分でよく判らない分野はもう書かない。最後に、阿含宗開祖の桐山靖雄(8.29没、95歳)の名前も記録しておく。
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日本の学校を問う大川小判決

2016年11月02日 22時45分14秒 |  〃 (教育問題一般)
 宮城県石巻市の大川小で、東日本大震災の大津波によって多くの犠牲者が出た。その時の学校の対応を問う訴訟の判決が10月27日にあった。仙台地裁の判決は、県と市に約14億円の賠償を認めるものだった。当時、死亡・行方不明になった児童74名中23人の遺族が裁判に訴え、約23億円の損害賠償を求めていたものである。

 この裁判を「大川小国賠訴訟」と呼びたいと思う。国ではなく、地方自治体を訴える場合も「国家賠償法」に拠ることになる。(地方公務員である警察を訴える場合と同じ。)国賠法では「公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によつて違法に他人に損害を加えたとき」に賠償の責任が生じる。今回の事例では、公権力の行使ではなく、「不行使の不作為責任」が問われているが、法的には「不行使」の過失の場合にも賠償責任が生じることがある。

 問題は「過失」を認定できるかどうかである。国賠法の今までのケースでは、「過失」とは「公務員が職務上要求される注意能力を欠くこと」とされているという。大川小のケースでは、地震から津波襲来まで51分ほどあり、校庭の隣にある裏山に逃げていれば助かったとされる。「山へ逃げよう」という声が、児童や保護者(学校に子どもを連れに来ていた)からも二度上がっていたという。教務主任も山への避難を提案したが、教頭からは明確な同意がなされず、時間ばかりが経ってしまったのである。

 この山はそれなりに急だというが、シイタケ栽培などの学習で子どもたちも登ったことがあるという。裁判官が実地検証している映像をテレビでやっていたが、実際に見てみることで裁判官は「裏山へ避難するのが最も自然だった」という心証を持ったのではないか。もともと大川小は海岸から4キロほどあり、津波が襲うという想定はなされていなかった。だから、避難訓練や研修もおこなっていない。だけど、市の広報車が大津波の襲来を伝え、それを教員も把握していた。その後の経緯は必ずしも明確になっていないけど、法的な過失の有無は市と県が控訴したので、今後の裁判で再び問われる。

 だけど、そういう法的な責任とは別に、僕はこの判決は日本の教育に対して大きな問いかけをしていると思う。この判決を「学校には子どもの命を守る大きな責任がある」ととらえるのは間違っていないと思う。だけど、それだけでは済まないのではないだろうか。当時大川小の教職員13人中、11人が学校にいた。そして、そのうち10人が亡くなっている。犠牲になった児童数があまりにも多いわけだが、それとともに教員の犠牲者も空前である。日本教育史上かつてない悲惨事である。

 児童の命を守れないだけでなく、自分たちも死んでしまった。僕は思うのだが、教師の何人かが山へ行こうと動き出していれば、子どもや地域の人々も動き出していたのではないか。だけど、どの教員もそういう行動を起こせなかった。それは「教師の責任」などと言う前に、「自分の身を守る自己防衛本能」という観点から、おかしなことではないだろうか。

 もっとも、それをただ非難することはできない。教員研修では、そのような「自分で考え」「自分で行動する」ことがないようにトレーニングされるはずだ。宮城県ではどうか知らないけど、とにかく数年前の東京都では、校長をトップにしたピラミッド型組織を作って、整然と命令で動ける組織に学校を作り替えようとしていた。当然、「想定外の事件」が起きれば、個々の教員では対応できない。だから、教員は上司に「ほうれんそう(報告・連絡・相談)」を絶やすなと言われる。そして、組織的に下された(実は誰が決めたのか判らない)決定を下の教員は墨守すればいいというのである。

 多分、多かれ少なかれ、日本全国の学校は昔に比べて「上意下達型組織」になっているだろう。そして、大地震が起きた当日、その日は校長は私事休暇を取っていた。3月の金曜日、自分の子どもの高校卒業式に参列するためだった。地震が起きるとは誰にも判らないのだから、それは仕方ない。「校長は常に学校にいろ」というわけにもいかない。病気のときもあるし、全国で何か事件(いじめとか)があれば、校長連絡会に呼ばれて学校を留守にせざるを得ない。

 校長不在時、一刻も早く決断が求められる時に、なんの判断も下されずに時間が経ってしまった。「法的」な問題はともかく、痛恨の「過失」であることは明白だ。それは何故起こった? 教員が「自己の身体性」を喪失しているというのが、ここで最大の問題ではないか。自己の本能に従って、誰に言われるまでもなく、山へ避難しようと声を挙げられる教員が一人いたら…。教務主任が教頭を放っておいて、皆で逃げようと言えたら…。想定外の場合に問われる教師の人間力。それを養成するというのが、本来の研修であるはずだ。僕は大川小国賠訴訟は、日本の学校や教育行政を深いところで問い直す衝撃を秘めていると思う。文科省もそうだが、教員に限らず、責任のある立場の人にとって、自らを問い直す重い意味を持っている。
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