尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「日本列島100万年史」を読む

2017年03月11日 23時24分41秒 | 〃 (さまざまな本)
 6年目の「3・11」。その前日は72年目の「東京大空襲」。3月になって、少し陽射しも暖かくなってきて、空も濁りが増してくる。それは「黄砂」なのか「花粉」なのか、冬には見えていた富士山が東京からほとんど見えなくなる。そういう季節に、津波や原発事故や空襲の記事が多くなる。

 今年は特に「森友学園問題」や「築地市場の豊洲移転問題」など、筋道の立たない、3月の空のような問題が大きな話題となっている。気分的な濁りは例年以上に深い。そっちの問題も書きたいんだけど、ちょっと違った方向から、最近読んだ本について紹介しておきたい。

 それは講談社BLUE BACKSから出た「日本列島100万年史」(山崎晴雄、久保純子著)である。千円するけど、是非買い求めておきたい本。最近の新書本はけっこう難しく、自分の専門の歴史系なら付いていけても、理系の本だと理解が難しいことが多い。最近は小説を読んでることが多いんだけど、評判だというし、やっぱりちゃんと読んでおこうかと思った。

 かなり判りやすいけど、それでも説明しようとすると僕には難しい。だから、あまり詳しく書かないけど、「大地に刻まれた壮大な物語」に触れた知的な高揚感がある。日本で生きている以上、天候や地震に無知ではいられない。日本の大地の歴史を通して、地学的理解を深めることはとても大切だ。この本は最新の知見がいっぱい入っているし、写真や図表が多くて面白い。

 第1章「日本列島はどのようにして形作られたか」で全体の総論が語られ、以下の2章から8章で日本各地の具体的な説明になる。日本各地の隅々まですべて出てくるわけではないけど、おおよそのことは判る。関東平野はなぜ広いか富士山はどうして美しいか。もうそういうもんだと思って、あまり意識しないけど、なるほどそういうことだったのか。

 富士山は「フィリピン海プレートとユーラシアプレートの境界に、太平洋プレートが沈み込むことで作られた火山フロントが交差する、世界的に稀な場所に富士山はあります。」世界のどこにもないそういう地質的な特徴が背景にあるのだ。じゃあ、それは何故かということは本書で。そもそも「火山はどこにできるのか」という問題がある。それは「温泉はどこにあるか」ということでもある。火山は「プレートが沈み込んで深さ100キロメートルに達した地点の真上にできる」のである。

 それは何故というのも本書で。僕には非常に意外な理由だった。これを読んで思ったのは、やはり西日本のことはあまり知らないなあということである。「近畿三角帯」なんて言葉も初めて聞いた。次に心配される南海トラフの地震のことも、この本で判ったことが多い。近畿は歴史時代の大部分で、日本の首都がおかれた地方である。(だから「近畿」という。「畿」は王城の地という意味。)

 ところで、太平洋と日本海が一番近接している場所はどこだろうか。つまり、青森や山口は別にして、その他の地域で一番細くなってる場所。あまり意識したことがなかったけど、「若狭湾と伊勢湾を結ぶ線」である。福井県敦賀と名古屋を結ぶあたり。地図を見て、そうなんだとビックリ。伊勢湾がかなり北まで食い込んでいるのである。これは愛知県から戦国時代を統一した三英傑が現れた理由につながるのかもしれない。そんなことまで思ってしまう地形の面白さである。

 九州のシラス台地のことも、以前から授業でもずいぶん触れたけど、そういうことかと納得できた。関東も火山性の台地が広がっているけど、その「武蔵野台地と東京低地」は自分が住んでいるところだから、なるほどと納得。いちいち挙げていると終わらないから最後に一つ。日本列島はフォッサマグナで折れ曲がっているわけだけど、その結果「弓型」になっている。ところで千島列島やアリューシャン列島も弓型の円弧になっている。奄美から沖縄についても少しそんな感じ。なんで曲がるのかという問題である。こういう普段は意識もしないことを教えてくれる本である。

 大地の奥深くで何が起きているのか。地震とともに生きていくしかない日本人にとって、プレートテクトニクスなどの正確な理解は必須である。それに各地の地形の特質も知っておくと役立つ。僕なんか読んでもすぐ忘れてしまうんだけど、こういう本を近くにおいておけば役立つだろう。あまり理系の本を読まない人もチャレンジする価値がある。
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映画「海は燃えている」と難民問題

2017年03月10日 21時41分03秒 |  〃  (新作外国映画)
 イタリア映画「海は燃えている」を見た。副題を「イタリア最南端の小さな島」と言って、その通りのランペドゥーサ島をめぐるドキュメンタリー映画である。2016年のべルリン映画祭金熊賞受賞作品。監督のジャンフランコ・ロージ(1964~)は、前作「ローマ環状線、めぐりゆく人生たち」(2013)でヴェネツィア映画祭金獅子賞を受けている。ドキュメンタリーで世界三大映画祭の二つでトップを取ったんだから、そりゃあ大したもんである。だけど、ぼくはその前作があまり面白くなかった。

 だから、今度の映画はどうしようかなあと思っていた。数日前にシネマヴェーラ渋谷に古い日本映画を見に行くつもりが遅れてしまい、近くの文化村ル・シネマでこっちを見た。まあ、そういうことで見たり見なかったりすることもよくあることだ。で、面白いような、そうでもないようなタッチは同じような感じがした。でも、内容を伝える意味があるのと、知らないことは多いなあと思ったので書いておきたいと思った。

 ドキュメンタリーなんだから、物語的に面白いことを求めるのはおかしい。だから、それはいいんだけど、映像世界が「整理」されていないと、遠い異国で見ている方にはなんだか判らないことになる。この映画が世界で評判になっているのは、「難民が押し寄せる島」という時事性にある。だけど、この映画のかなりの時間は、難民ではなくそこで暮らす島の人々を描いている。

 つまり、「島の人々の暮らし」と難民の人々は「分断」されている。島に住む少年の暮らし、パチンコを自作して遊んだり、片目が悪くもう片方に眼帯をして視力アップをめざしたり、祖父に連れられ海に出て船酔いしたり…などなどが描写される。ロージ監督は、ランペドゥーサ島に1年半住み込み、カメラを回す前に3カ月かけた。その間に少年と仲良くなったのである。それはそれで面白い子どもの状況なんだけど、難民にはつながらない。映像はその間に難民の様子も映し出す。

 世界はモザイクの断片だし、住民生活は「世界的大事件」と離されている。そういうことは日本でも、世界でも、よくあることだと思う。特に「先進国」では「難民」は囲い込まれていて、人々の目に触れない。押しよせる難民(年に5万人の難民が、5千5百人の住む島にやってくるという)は、海軍の船に救助(それまでに死亡するものも多いけど)され、難民たちの施設に収容される。そういう構造をそのまま映像で並列的に描いている。それが判るまでは、この映画は何だろうと思ったりもする。

 監督はイタリア海軍船にも4カ月乗り込んだという。その様子はすさまじい。難民を乗せた船は、3階層に分かれていて、上部甲板にいるのは一番値段が高い。船の中でも上層階は次、最下層には安い金でたくさん詰め込まれている。病気になるものも多い。島の施設でサッカーをしている映像も出てくるが、国別に分かれてやっている。アフリカ諸国のあちこちから来ているのである。

 中でも印象的なのは、ナイジェリアから来た黒人青年の、歌うように自己の人生を語る姿である。ナイジェリアと言えば、ギニア湾に面したアフリカ中部の国である。北部はイスラム過激派の根拠地となっている。だから多分政府軍の爆撃が行われるんだと思う。爆撃で多くが死に、サハラ砂漠に逃れてそこでまた多くが死に、ようやくリビアにたどり着く。リビアでとらえられ監獄でまた多くが死に、ようやく船に乗ってヨーロッパをめざしたが、また海の上で多くが死んだ。こうしてアフリカ大陸を半分近く縦断して、やっと島にたどり着いたのである。

 救助する人々、島の医師などは、人間の務めとして、できる限りのことをしている。だけど、個人では世界の構造を変えられない。もちろん、映画を作っても同じだし、映画を見ても同じ。だから、監督も政治的な映画としては作っていない。島の美しい自然を「観察」しているだけである。映画に出てくるラジオ局では、電話で寄せられるリクエストに応じて、メッセージ付きでラブソングなどを掛けている。まだ、そういうことをやってるところがあるんだ。この映画も、同じように世界の個人個人にあてた「愛を込めたメッセージ」なのかもしれない。そう思うと、すさまじい現実と美しい島の自然を自分なりに受け入れられる気がしてくる。そして、なんだかジワジワと効いてくる

 ところで、ランペドゥーサ島って、どこだ? 地図で調べてビックリ。「シチリア島の南」なんて思ってたら、大間違い。イタリア半島、シチリア島とあって、その南にマルタ島がある。独立国である。ランペドゥーサ島はそこより南なので、驚いた。マルタ島とチュニジアの中間という感じ。アフリカの北であるチュニジアの首都チュニスは、ほとんどシチリア島と同じ緯度である。だから、この映画の島はチュニスよりもはるかに南にある。映画のホームページにある地図を掲載しておくけど、多分この島の位置をちゃんと知ってた人はほとんどいないと思う。

 ところで、この映画を見て、もう一つ思ったことは、世界に訴える言葉は、あるいは世界に訴える人の言葉を聞き取る言葉は、やっぱり英語だということである。もっとも、それは文法や発音など重視する必要のない、「国際的簡単英会話」とでもいうものだ。そういうものが大事なんだと思う。映画の冒頭で、救助船が難民を乗せた船に呼びかけるのは、「現在位置は?」という言葉。英語で言えば、〝Your position ?"  これは、そのまま観客への問いかけでもある。
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風に魅せられて-日野啓三を読む⑤

2017年03月09日 21時07分58秒 | 本 (日本文学)
 日野啓三の作品を読むシリーズの最終回。芥川賞受賞作の「あの夕陽」を初め、代表的な短編を集めた「あの夕陽 牧師館」という本が講談社文芸文庫にある。今は新刊としては書店で入手できないようだけど、電子書籍で出ている。講談社文芸文庫は単行本一冊買うのと変わらない値段なので、「これで文庫かよ」と思いつつも、他で出ていない本が多いから結構買うことになる。2002年に出たこの本も出た時に買ってあって、15年して読んだ。

 その中に「風を讃えよ」という18頁ほどの短編が入っている。1986年1月の「文學界」に発表され、単行本には収録されずに「日野啓三短編選集(上巻)」に収められたと出ている。

 そういう短編だから、読んだ人はとても少ないんじゃないかと思う。でも、これはものすごく素晴らしい「風の小説」だった。「風の小説」なんて、一体なんだと言われるだろうけど、僕は風が好きなのである。ボブ・ディランが「風に吹かれて」をうたい、五木寛之が同名のエッセイを出している。五木寛之は今じゃなんだか抹香くさい印象が強いけど、若いころは「荒野」とか「デラシネ」とかいう題名の本を出していた。五木「風に吹かれて」は1968年に読売新聞社から出版された初のエッセイである。

 ここで言う「」は、どこにも所属せずどこにでも現れる精神のあり方を示すイメージである。世界を転々とし、一つところに執着しない。その反対語は「」である。堕ちてしまって閉じこもり、そこを深く掘っていく。だから、「風の小説」と「穴の小説」がある。穴に落ちてしまう「不思議の国のアリス」が典型的な「穴の小説」。村上春樹は「風の歌を聴け」から出発したけど、だんだん「穴の小説」を究める方向に進んでいくようになったと思う。

 日本で書かれた最高の「風の小説」は、多分「風の又三郎」だと思うけど、今回読んで「風を讃えよ」も同じぐらい凄いと思った。「風の強い町である」と力強く始まり、町外れにある元石切場に住みついた謎の男、そして彼とただ一人心を通わせる少年を印象的に描いていく。男は出張の途中で偶然その町を知り、子どもの時に見た巨石遺跡を思い出す。そして、一人でストーンサークルを作り始めた。そして、風に意識を集中させて生きている。

 虚弱で周囲に溶け込めない少年は、小さなころから風の声を聞いていた。そして男の様子を見つめ「風男」と名付けていた。二人は偶然知り合うことになる。少年は「風は息してるよ」という。「風はいつも同じ強さで吹いていないよ。ほら間をおいて切れ目があるでしょう。僕は切れ目の方が好き」と語る少年。男はビックリする。その通りだと思う。「風の本質は、吹くことではなく吹かぬことにあるのか。」

 と言うように、現実社会から外れた大人と子どもが「風」を通して出逢い、風をめぐって世界を理解する。どこにも幻想的描写はないリアリズムで描かれているけど、印象としてはファンタジーや寓話、あるいは神話的な喚起力を持った作品である。こういう小説があったのか。改めて日野啓三という作家の「引き出しの多さ」に驚いた。こういう小説を書ける人は他にいないだろう。なお、日本の「風の小説」としては、梅崎春生「風宴」とか坂口安吾「風博士」などがあると思う。忘れた作品、読んでない作品も多いだろうけど、「風」という視点で読んでみるのも面白いと思う。

 また映画には、ヨリス・イヴェンス(1898~1989)というドキュメンタリー監督の遺作「風の物語」(1988)がある。オランダ人でフランスで活躍した人で、「セーヌの詩」という映画が知られている。中国やベトナムで撮った映画も多く、レーニン平和賞を受けた左翼系作家だけど、最後の「風の物語」は、まさに「風」を主題にした不思議な記録映画だった。たしかユーロスペースで公開されたと思うけど、「風の小説」もあるなあと思ったのは、その映画を見たからである。
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ベトナム戦争と報道-日野啓三を読む④

2017年03月08日 21時41分21秒 | 本 (日本文学)
 「日野啓三を読む」と題して、ちょっと前に3回書いた。それで終わりかと言うと、間が空いてしまったけど、実はまだ書くことが残っている。今までに書いたのは、「向う側にひかれて」「『滅びゆく国』を生きて」「幻覚とドッペルゲンガー」の3回。残っている大きな問題には、ベトナム戦争に関する作品ベトナム報道をめぐる問題がある。幅広い作風だから、話もいろいろである。

 読売新聞外信部の記者だった日野啓三は、1964年12月3日に読売新聞の初代常駐サイゴン特派員として赴任した。東京五輪が終わった直後である。日野は1960年に国交樹立前の韓国に特派員として派遣されたことがある。李承晩政権が「四・一九学生革命」で倒れた直後である。日野は植民地下の朝鮮で育ったから、15年ぶりのソウルだった。そこで、ある女性と知り合い、帰国後にそれまでの妻と離婚し、家族の反対を押し切って韓国女性と再婚したばかりだった。

 政権打倒後のソウルや戦争激化のサイゴンに派遣される。今の感覚では花形特派員のように思うかもしれないけど、日本経済も高度成長さなか、韓国や南ベトナムは全然後進国の段階である。ワシントンやパリではなく、誰も引き受け手のないような国に行かされる。どうも、そんな感じだったらしい。そもそもアジア駐在特派員は少なかった。香港にいる特派員が周辺の国もカバーする時代だったようだ。しかし、米軍の介入が次第に本格化し、サイゴンに常駐者が必要だと思われるようになった。

 その時点で、カメラマンの岡村昭彦がフリーで取材を続けていた。日本のマスコミでは、毎日、朝日、日経、共同通信がこの年に支局を開いているという。まだ取材方法もつかめず、日本の特派員はライバル紙でも協力し合って取材したようだ。特に共同の林雄一郎特派員とは隣室同士でかなり親密だった。戦局そのものは米軍が毎日発表するけど、その場では英語もよく判らず米国メディアに押されるように隅っこにいるしかなかった。でも、せっかくサイゴンにいるんだから、外国メディアの後塵を拝するのを潔しとせず、サイゴン政権や街頭情報に飛び込んでいった。そのあたりのことは、多分報道の立場から初めてベトナム戦争を取り上げた「ベトナム報道」(1966、初の著書、講談社文芸文庫に収録)という本に興味深く書かれている。
(「ベトナム報道」)
 そこで判るのは、「日本人特派員」の有利性もあるということだった。アメリカ人でも、事前に承認を得て北ベトナムに入った人は何人もいる。だけど、サイゴン側から自分でアレンジして南の解放区に入った人はいない。米軍と戦闘中なんだから、顔が欧米人だったらとても入れないわけである。それに米軍は戦場に大量の食糧を運び込み、戦場でステーキを食べているような軍隊だった。米軍に従軍している限り、戦場特派員もおすそ分けに与れる。解放区入りしたら、ライスにニョクマムをぶっかけたようなものしか食べられない。日本人なら何とか耐えられるわけである。

 だから、この本にはまさに「向う側」に歩いて行って、さすがに歓迎と言うよりは抑留されたようだけど、なんとかジャングルの彼方から帰還した日本人もいたと出てくる。それができる可能性があるのだ。もっとも読売は日野一人だったから、一度解放区に入ると数週間は戻れないから、解放区取材は考えなかったという。数週間サイゴンを空けると、その間にクーデターが2回ぐらい起こるかもしれない情勢だったから。でも、この「ベトナム報道」は戦後初めて日本人記者が独自に海外取材を行って、読者の関心にこたえる言論活動を行った体験だったのである。

 そこで見た日野のベトナム戦争論は、「人民戦争の視点」である。サイゴン政権は、誰が見てもアメリカが巨費を投じて支えているだけの「買弁政権」だった。政権を作っている上層部の人々は、貧しい人びとを同じ国民と見ていなかった。アメリカの援助を私物化するのは、上層階級として当然のことであって、それが悪いこととは思っていなかった。そんな人々の政権は、人々が見放すのが当然。そもそもジュネーブ協定で決められた南北同時選挙を、南が拒否したのが戦争の始まりである。米軍が解放戦線の向こうに北ベトナムを見て、直接北ベトナム爆撃に踏み切ったことで、かえって「ベトコン」(ベトナムの共産党という意味の略語で、米軍が使った)を北ベトナム主導に押しやったという。

 この認識は1965年段階のものである。この後に中ソ対立、米軍のカンボジア介入など複雑な出来事が続く。ベトナム戦争終結後に明らかになったが、南ベトナム解放民族戦線は、北のベトナム労働党の明確な指導下にあった。南ベトナム臨時革命政府も、実質的に独立した存在ではなかった。その後の、ベトナムのカンボジア介入中国のベトナム「懲罰」戦争、中国系ベトナム人の「ボート・ピープル」としての出国、ベトナムの政治犯の存在など、戦争中にナイーブに解放戦線に思い入れできた時代は消え去った。「現実」はもう少しビターなものだった。

 しかし、「文学者」日野啓三の位置を確認するときに、このベトナム戦争経験は重大である。日本人の多くは、強大な米軍がベトナムに過酷な爆撃を続けることを批判的に見ていた。ベトナムに同情的だった人がほとんどだろう。それはイデオロギー的なものではない。当時の日本人は、戦争に負けてつかんだ「平和の価値」、それを通して世界を見ていたのである。日野の自身の朝鮮体験、引き揚げ体験から、サイゴン政府の腐臭をかぎ分けた。かつて日本は侵略戦争を起こして米軍に負けたけど、植民地解放戦争であるベトナム人は決して米軍には負けないだろうと直観で判ったのだ。

 そんな日野啓三はベトナム戦争を見て、「作家」になった。そのことは前に書いたけど、「ベトナムもの」全短編集が「地下へ サイゴンの老人」として講談社文芸文庫から出ている。このうち、戦争終結前に書いた6編は、はっきり言ってよく判らない。日本の戦後文学の、例えば野間宏「暗い絵」のような「晦渋さ」が付きまとっている。それは「習作」だったからでもあるだろうけど、第一には日野にとっての「戦争文学」だからだろう。一種カフカのような感じもするし、「幻想」的な作風でもあるけど、何が確かなものであるかが見えないサイゴンを取材すると、迷宮をさまようような話こそリアリズムに思えたんだろう。
(「地下へ サイゴンの老人」)
 初めて単行本に収録された作品も多く、どうも「いまさら感」が強い作品が多いけど、作家にとっても、日本にとってもアジア認識はそこからスタートしたということだろう。こっちの小説集は特に関心がある人以外は読まなくていいと思うけど、「ベトナム報道」は歴史の証言として面白かった。こういう時代があったのかということで、ベトナムやマスコミあるいは現代史に関心がある人には面白いんじゃないか。日本人が東南アジアに行くことさえほとんど考えられなかった時代の話である。今では東南アジアの方から日本へ大挙して訪れる時代が来るなんて、まったく時代の移り変わりは驚くばかり。  
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林京子、船村徹、岡野俊一郎、三浦朱門等-2017年2月の訃報

2017年03月07日 21時30分42秒 | 追悼
 2015年2月の訃報としては、映画監督の鈴木清順を別に書いた。今後あちこちで追悼上映が行われると思うけど、何度でも似たくなる作品が多いから、ぜひ見直したいと思う。その他に多くの重要な訃報が相次いだけど、案外書くことは少ないようなので、間歇に書いていきたい。

 まず、3月になって作家の林京子(1930~2017,2.19、86歳)の訃報が公表された。1975年に「祭りの場」で73回芥川賞を受賞した。30年たって書かれた長崎の原爆の実相である。それは非常に衝撃的で圧倒的な迫力があった。一つ前の72回芥川賞は最近書いた日野啓三(と阪田寛夫)、次回の74回は中上健次(と岡松和夫)である。しかし、文学史の時間などと無縁に、自分の体験を突き詰めて書いた人だろう。それだけに、流行作家となることなく、「祭りの場」しか読んでないという人も多いだろう。僕も「上海」しか読んでない。他に『やすらかに今はねむり給え』(谷崎賞)、『長い時間をかけた人間の経験』(野間文芸賞)などの独特の名前の小説がある。今後読んでみたいと思っている。

 作曲家の船村徹(1932~2017.2.16、84歳)は、作曲家として2人目、大衆歌謡界では初の文化勲章受章者だった。それは2016年のことだから、かろうじて逝去に間に合った。というか、長生きしていないと、国家による顕彰に与れない。1955年の「別れの一本杉」(春日八郎)の大ヒット以来、5500曲と言うのだから、確かにすごい。村田英雄が歌った「王将」は子どももみんな歌っていた。「矢切の渡し」何かは知ってるけど、僕はやはり知らない曲が多い。「道の駅日光」に船村徹記念館がある。

 日本サッカー協会会長やIOC委員を務めた岡野俊一郎が死去した。(1931~2017.2.2、85歳。)1968年のメキシコ五輪で、日本サッカーは銅メダルを獲得したわけだけど、その時のコーチだった。その頃からもう有名だったはずである。どうしてかと言うと、高校の時に(70年代前半)高校の講演会で話を聞いているのである。ただ一つ覚えていることがあって、「シュートを打たなければ、ゴールは入らない」という当たり前の言葉である。だけど、もちろん「人生の一般論」として「何にでも立ち向かえ」と高校生に言ったわけだ。この人の経歴を読んで、上野の老舗和菓子屋「岡埜栄泉」の社長でもあったと初めて知った。僕の高校は上野の近くだから、それで来てくれたのかもしれない。

 作家の三浦朱門が死去。(1926~2017.2.3、91歳。)「作家」というけれど、この人の小説を読んだ人はそんなにいないのではないか。妻の曽野綾子の方は文庫にも多く入っていたし、とかくお騒がせの文章を書いていたから、もっと読んでいるけど。文化庁長官など「文化官僚」として「活躍」したという感じの人である。産経新聞の訃報によると、「妻の曽野綾子さんの話」として「故人が大好きだった産経新聞を棺に入れる」とあったから、産経新聞とともに昇天したのだろうか。

 三浦朱門先生は読んでないけど、僕が読んでいたのは児童文学の佐藤さとるである。(1928~2017.2.9、88歳。)1959年に出た「だれも知らない小さな国」でデビューし、それが長大なコロボックル物語シリーズとなった。日本のファンタジー小説の草分けであり、非常に大切な役割を果たしたと思う。僕は一時期児童文学をかなり読んでいて、その頃にだいぶ読んだように思う。児童文学はもっと評価されるべき分野じゃないかと思う。

 元水泳選手の山中毅(つよし、1939~2017.2.10、78歳)は、「悲運のスイマー」などと呼ばれた。高校生の時に出たメルボルン五輪(1956)で銀メダル2個(400と1500自由形)、次のローマ五輪(1960)でも銀メダル2個(400自由形と800リレー)。次が東京五輪こそ期待されたわけだけど、当時はもう25歳は選手のピークを過ぎた年齢だった。400mで6位入賞に終わったのである。世界新を何度も記録しながらも、五輪では金に届かなかったということで、若い人の知名度はいま一つかもしれない。

 元大蔵大臣、厚生大臣の林義郎(2.5没、89歳)は、通産官僚から政界入りした「政策通」というタイプ。89年の参院選大敗後の総裁選に、海部俊樹、石原慎太郎とともに立候補したことで知られる。参院議員の林芳正の父親。漫画家谷口ジロー(2.11没、69歳)は「孤独のグルメ」で知られるが、関川夏央と組んだ「『坊ちゃん』の時代」が印象深い。書道家の高木聖鶴(せいかく、2.24没、93歳)は、「かな」書家の第一人者で、文化勲章受章者。というけど、書道界のことなど全然知らないから名前も知らない。

 外国人としては、「ミッフィー」作者のディック・ブルーナが死去。2.16没、89歳。この人の訃報が大きく取り上げられたのには、ちょっと驚いた。55年に最初の絵本が出て、日本では64年に石井桃子訳で「ちいさなうさこちゃん」が出た。これは僕には少し時間がずれていて、もう僕が絵本を買ってもらう年齢を超えていた。だから小さい頃の思い出など皆無なのである。他にも何人も訃報があったけれど、僕が知らない人が多いのでここでは省略する。
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草加松原散歩

2017年03月05日 21時23分14秒 | 東京関東散歩
 獨協大学の講演会に行く前に、草加松原を散歩した。家から近いので一度は行きたいと思っていたけど、実は初めてである。そもそも僕の若いころは、あまり知られていなかった。すぐそばを自動車がひんぱんに通っているのに驚いた。一時は松も50本程度に減ってしまったが、その後「松並木を守る会」が作られ保護活動が行われ、今は520本ほどに回復してきたという。

 2014年3月に、「おくのほそ道の風景地」として、国の名勝に指定された。指定が複数の県にまたがる特別な名勝で、他に那須の殺生石や遊行柳、平泉の高館、象潟や親しらずなど25か所が指定されている。芭蕉を知らない人はいない。「おくのほそ道」出立地の千住は、今では当時の面影を残す景勝は残されていない。だから「草加松原」はとても貴重だ。駅からも案外近く、これほど立派なものが東京のすぐ隣に残されていたのか。多くの人にぜひ一度訪れて欲しいところ。
   
 まず松並木が一番続いているあたりの写真を。ここへ行くには、東武線の草加駅から10分程度、松原団地駅(4月から獨協大学前駅)から5分程度。芭蕉像などがある札場河岸(ふだばかし)公園から矢立橋百代橋にかけて歩くのがいいかなと思う。草加(そうか)市は、東京都足立区の北にあり、関東では「草加せんべい」で有名なところ。町を歩いていると、せんべい屋がいっぱい並んでいる。それは後回しにして、東口から歩き出す。歴史民俗資料館(旧草加小西校舎)や東福寺などを経て、旧日光街道を歩いていくと河合曽良の像がある。その前の「おせん公園」には「草加せんべい発祥の地」の碑。
   (曽良像、せんべい碑、その説明版)
 その前の大きな道を渡ると綾瀬川沿いの札場河岸公園。まず、望楼松尾芭蕉像がある。
 
 そこからすぐに「矢立橋」で、そのあとで川に沿った松並木を見ながら歩く。草加は日光街道で千住に次ぐ二番目の宿場町。だから確かに芭蕉は通ったはずだけど、この風景は「おくのほそ道」にはない。千住を立って、何とか草加宿にたどり着いたのだった。「もし生(いき)て帰らばと、定(さだめ)なき頼(たの)みの末(すえ)をかけ、その日ようよう早加(そうか)といふ宿(しゅく)にたどり着(つ)きにけり。」歩いていると、名勝指定の碑が出てくる。芭蕉の旅路の地図もある。
   
 やがて百代(ひゃくたい)橋になるが、ここで時間の関係で駅の方に向かい、その先は講演会終了後にまた戻って続けた。その先に芭蕉の碑がある。また水原秋櫻子の碑も。この辺は周囲が大マンションになっていて、もう並木も終わりが近い。
   (左が芭蕉碑、右が秋櫻子碑)
 先まで行きついて、戻ることにする。案外短いんだけど、ランニングしている人がとても多かった。周辺には伝統産業文化館とか、古い建物などがあるようだったが、時間の関係で寄ることができなかった。帰りに旧日光街道沿いにある明治34年創業という「草加せんべい志免屋」本店で少し買い物をして帰った。海苔のせんべいがうまい。お茶を出してくれたのが渇を癒せてうれしかった。
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鈴木道彦講演会「サルトルと現代」

2017年03月04日 21時22分54秒 | 〃 (外国文学)
 獨協大学オープンカレッジ特別講座の鈴木道彦講演会「サルトルと現代」を聞きに行った。サルトルもだけど、フランス文学者の鈴木道彦さんの話を聞きたかった。2007年に集英社新書から出された「越境の時」は感動的な本だった。1967年に起きた金嬉老事件(在日韓国人の金嬉老=キム・ヒロが暴力団関係者2人を銃殺し、静岡県寸又峡温泉に立てこもった事件)の裁判の支援運動の記録である。その後、プルースト「失われた時を求めて」を一人で全訳したことで知られる。
 
 獨協大学が埼玉県草加市にあることは知っていたけど、初めて行った。自宅から一番近い大学である。先に草加松原を散歩したんだけど、その話は別に。獨協とは、つまり「独逸協会」で、明治時代から続く学校だけど、大学を作ったのは1964年だという。初代学長になったのは、天野貞祐(あまの・ていゆう、1884~1980)である。「オールド・リベラリスト」として知られ、第3次吉田茂内閣で文部大臣を務めた。もう知っている人も少ないと思うけど、その「天野貞祐記念館」の3階大講堂が会場である。

 まずTBSテレビが昨年放映されたサルトル来日50年のドキュメンタリーを見た。サルトルの著者を独占的に出版していた京都の人文書院が1966年に招いた。ちょうどビートルズが来日した年で、ベトナム戦争が激化した時期でもある。映像に出てくる講演会場は超満員で、皆一生懸命聞いている。今も70代、80代で存命の人が多いと思うけど、その後の人生はどういうものだったのか。その時は「知識人」が大きな権威を持っていた。単に専門家として生きているだけではダメで、例えば核兵器を開発し技術的に向上させるだけでは「科学者」にすぎない。自分の行いが社会の中でどのような意味を持っているかを考え行動するものを「知識人」というのだ、と。

 サルトルが1980年に亡くなった時に、フランス紙は大きく(何十ページも)取り上げたという。そして、18世紀はヴォルテールの世紀、19世紀はヴィクトル・ユゴーの世紀、そして20世紀はサルトルの世紀だったと書いたと鈴木氏は紹介した。そういう意味での「大知識人の時代」はもう終わったという。社会のあらゆることに語ることを要請される存在、そういうものは確かにもう出ないだろう。一人の人が原理的にすべてに精通するなど、もう不可能である。誰もが「思いつき」をツイートできる時代である。

 鈴木氏がサルトルに注目したのは、50年代のアルジェリア戦争がきっかけだという。フランスに留学していた時に、アルジェリア戦争に反対し植民地主義体制に反対するサルトルの姿勢を知った。戦後の日本では(日本に限らないが)、サルトルはとても有名で影響力があった。「実存主義」が大戦後の新思想ともてはやされ、マルクス主義との関係が注目されていた。今では考えられないと思うほど有名だった。僕が知っている70年ごろも本屋にはズラッと人文書院のサルトル全集が並んでいた。だから、サルトルが来日した時も大歓迎され、ある種「大騒動」にもなったのである。

 そういうサルトルがアルジェリア戦争に反対声明を出すというのは、大変な出来事だったのである。その時の「121人宣言」が資料として紹介されている。
1)われわれはアルジェリア人に対して武器をとることの拒否を尊敬し、正当とみなす
2)われわれは、フランス人民の名において抑圧されているアルジェリア人に援助と庇護を与えることを自分の義務と考えるフランス人の行為を尊敬し、正当と考える
3)植民地体制の崩壊に決定的な貢献をしているアルジェリア人の大義は、すべての自由人の大義である

 これはサルトルの文章ではないというけど、実に堂々たる「反仏宣言」である。というか、植民地主義体制のフランスを批判し、自由、平等、友愛を信じるフランス精神の発揮である。実際に独立戦争さなかに自国を批判するのはとても大変なことである。今の日本でも、自国の過去を批判する人に対して「反日」などと「レッテル貼り」をする人がいる。それを思っても、いかに勇気ある宣言だったかが判る。

 その後、60年代を通したサルトル、ボーヴォワールとの交流、特に「金嬉老事件」に関して、サルトルが出していた雑誌「レ・タン・モデルヌ」に寄稿したいきさつなども興味深かった。もともと小松川事件の少年死刑囚、李珍雨を「日本のジュネ」として書く話があったのだが、多忙で書けなかったという。代わりに金嬉老事件を書いたわけである。鈴木氏がこの事件に関心を持ったのも、もちろんアルジェリア問題を日本人として主体的に引き受けたということである。

 その後、「五月革命」(1968)以後は、サルトルの思想、行動も迷走した感もある。「知識人」そのものが問われる時代になった時、サルトルが「時代遅れ」になったとも言える。でも、鈴木氏は今もサルトルの有効性があるという。一つはサルトルの知識人論で、「専門性」に閉じこもって、その社会的意味を自覚しない「専門家」ではダメだという。さらに「第三世界は郊外に始まる」という言葉。その発想は、後の移民問題、格差と暴動などを予見している。こういう言葉を残しただけでも、サルトルが並々ならぬ眼力の持ち主だと判るだろう。僕も久しぶりにサルトルを読みなおしてみたくなった。

 大学の入り口近くに天野貞祐の銅像や言葉があった。最寄駅は東武鉄道の伊勢崎線(スカイツリーライン)の松原団地駅だが、この駅は4月から「獨協大学前(草加松原)」に改名される。
  
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殉教者と背教者の狭間に-映画「沈黙」②

2017年03月03日 22時12分58秒 |  〃  (新作外国映画)
 支配者がある宗教を禁止する。信仰を放棄しない場合は、死をもって罰せられる。そういう状況が起きると、信者は「殉教者」か、「背教者」のどちらかになるしかない。宗教の側は「殉教」を尊いものとみなして、殉教者は天国に行けるとほめたたえる。神は殉教者の上にしかいない、背教者は地獄に堕ちるしかないと言う。宗教の側から見れば、筋道はそういうことになるはずである。

 遠藤周作は日本の殉教者の事例を通して、それだけの理解でいいのかと考えたわけである。拷問や脅迫などに負けた「弱きもの」には、神の恩寵は及ばないのか。人間は不完全なものであり、そういう弱さを抱え込んだ人間存在を創造した神は、当然「弱きもの」をも見つめている。なぜならば、神だから。いや、そういう理解でいいのかどうか、どうも自信はないんだけど、まあそう考えてきた。

 遠藤周作(1923~1996)も没後20年以上になるのか。非常に重要な作家だったから、生前に大体の作品を読んでいる。特に、支倉常長を描く「」(1980)や宗教を考え詰めた「深い河」(1993)などは、同時代に読んで大きな感銘を受けた。「沈黙」(1966)が出たのは小学生時代だから、もちろん同時代的には知らない。読んだのは高校時代だと思う。「新潮日本文学」という一人一巻の全集で読んだから、むしろ「海と毒薬」(1958)の方が衝撃的だったように覚えている。

 それ以来読み返していないので、もう細部は忘れている。映画としては篠田正浩監督の「沈黙」(1971)が作られた。遠藤周作も脚本に名を連ねている。しかし、内面の信仰は映像化が難しい。篠田版もスコセッシ版も、原作を少し変えているという。じゃあ、どこをどう変えたのか、読み直し、見直して考えてみようかと思ったんだけど、早稲田松竹で篠田版をやった時に満員で入れかったのでやる気をなくしてしまった。(いま、家ではDVDもビデオも見られない状態。)

 だけど、結局はロドリゴ神父が「踏絵」を踏むことは変わらない。ロドリゴは架空の人物だが、実在のキアラという神父をモデルにしていると言われる。この「踏絵」をどう考えるべきなんだろうか。捕えられた信者が拷問にかけられている。ロドリゴが棄教しない限り、拷問は続くと脅されている。そこで「踏むがいい」という「神の声」をロドリゴは聞く。これは「本当の神の声」なのか、それとも人間主義的な解釈をすれば「幻聴」なのか。そこらへんは見るものが判断すればいいんだろう。

 死んでも天国へ行けるんだったら、殉教することはいいことだということになる。ロドリゴは棄教するまでもない。むしろ早く殺してやって欲しいというべきだ。でも、目の前に拷問で苦しむ人を見ていれば、自分で何とかしたいと思うものだろう。それでは「本心では信仰を捨てない」けれど「形の上で踏絵を踏む」、つまり「偽装転向」なんだろうか。でも、偽装にしても後々ずっと「転び」続けないといけない。その後のエネルギーを失った様子の描写を見れば、それは明らかに「権力への屈服」だったように思う。

 「殉教は正しい」と考えるなら、「自爆テロ」を批判できない。何であれ、信仰を持つ続けることが正しいわけではないだろう。そうじゃないと、獄中でも麻原彰晃への帰依を続けるオウム真理教信者が正しいということになってしまう。今の時代の考えでは、目の前の拷問を止めるために、自己のプライドを捨てて踏絵を踏むのは、むしろ「真の勇気」を示すとも言えるだろう。でも、それは「自分で出した主体的結論」の場合だろう。神父にはそんな「個の主体性」はないはずだ。やはり、神父と言えど人間なので、「弱さ」を抱え込んでいる存在だということなのか。

 スコセッシはイタリア系アメリカ人である。もちろんカトリックで、小さいころには神父になることも考えたという。イエスを描いた「最後の誘惑」と言う映画を撮った後で、「沈黙」を知ったという。1988年のことで、それ以来映画化を考えていた。スコセッシはどちらかと言えば、「タクシー・ドライバー」や「レイジング・ブル」のように、「自分なりのやり方で戦った人」を描くときに力強い。役者は神父を「本質は探検家」だと思ったと言っていたけど、スコセッシ映画のロドリゴも「それなりに戦った」けど、神は「よくやった、もういい」と「タオルを投げてくれた」という印象を受けた。

 篠田正浩の場合、「あかね雲」と「はなれ瞽女おりん」で二度脱走兵を描いた。他にも「心中天網島」や「鑓の権三」なども「本質的に逃げる映画」だった。だから、「沈黙」もある種「逃げる映画」になっていたように思う。テーマ自体が少し遠いし、内面は描写できない中で、「沈黙」の映画化は難しい。そこに欧米的視点と日本的視点、カトリック信者と非信者の視点など、僕には評価が難しい。スコセッシ版の場合、日本人役者の演技が素晴らしかったぶんだけ、ロドリゴの踏絵を踏む意味が薄れた感もある。

 ということで、僕にはロドリゴの行為の評価が完全にはできないのだが、「殉教」と「背教」は二者択一の問題なのかと思う。宗教テロもそうだけど、いじめや長時間労働などの問題を見ても、言ってみれば「殉職か退社か」しかないという発想ではいけないだろう。殉教と背教の狭間に、宗教の一番の問題があると思う。「歎異抄」で唯円は、念仏を唱えれば極楽往生できるというけれど、早く極楽へ行きたいと思えないと親鸞に述べた。親鸞は唯円坊もそうだったかと返す。殉教すれば天国へ行けるとしても、それを心底信じていたとしても、結局人間は目の前の現世にこだわるしかないものだと思う。

 ところで、ここでは大きな問題が消されている。井上筑後守は「日本にキリスト教は根付かない。日本は泥沼だ」という。しかし、それならばキリスト教を放っておいてもいいはずである。いずれ根腐れすると言ってるんだから。そして、実際に明治以後に信教が自由になっても、それ以後に大教団に発展したケースも多いのに、キリスト教系各教団が大発展したことはない。ある意味で、井上サマが正しかったんだけど、それなら幕府の禁教政策もいらない

 でも、その場合、例えば長崎がマカオやゴアのように、ポルトガル領になってしまわなかったと言えるのか。映画内の時点は、1640年から数年だけど、これは島原・天草の乱の直後ということになる。幕府がキリスト教を目の敵にしたのは、実際にキリスト教を旗印にした反乱が起きたからだろう。そういう歴史的な視野で見てみると、幕府のやり方もひどかったけど、あえて神父を送り込んできたイエズス会も判断を誤ったのではないか。「どっちもどっち」では意味がないかもしれないが、歴史的にはそういう気がする。
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マーティン・スコセッシの映画「沈黙」①

2017年03月02日 21時24分06秒 |  〃  (新作外国映画)
 遠藤周作の傑作「沈黙」の二度目の映画化作品が公開されている。アメリカの巨匠、マーティン・スコセッシが長年温めていた企画で、162分の大作になっている。公開されて一カ月以上経つけど、時間が長いからなかなか見る機会がなかった。ちょっと前にようやく見たんだけど、これも大きなスクリーンで見るべき映画だった。関心がある人は早めに見た方がいい。映画館に見に行く価値のある力作。

 論点がかなりあるので、一回で書くには長そうだ。最初はまずスタッフやキャストの情報などを中心に書いてみたい。この映画はスコセッシ作品でも、力作度は相当に高いけど、アカデミー賞では撮影賞ノミネートに留まった。ある意味、判らないでもない。テーマが一般的でないうえに、出演者もほとんどが日本人である。台湾で撮影されたけど、物語の中では「日本」である。多くのアメリカ人にとっては、縁遠い映画というしかないだろう。2003年の「ラストサムライ」のような「オリエンタリズム」に則った映画ではなく、宗教をテーマにした「純文学」の映画化である。

 それは日本人にとっても、ある程度は同じである。遠藤周作の原作は有名な傑作だから、読んでる人は多いだろう。江戸時代初期のキリスト教禁圧政策に関しても、学校教育である程度は知っているだろう。例えば、映画で重要な意味を持つ「踏絵」を知らない人はいないはずだ。(レプリカを教材会社で割に安く売ってるので、僕も授業で使っていた。)

 そういう意味では、日本人ならアメリカ人よりは映画の内容に知識はあると思う。でも、16世紀初頭のキリスト教弾圧をどう思うかなんて言われても、答えようがない。ヨーロッパでは新旧のキリスト教で殺し合いを続けていた時代に、日本ではこの映画のようなことがあった。大昔はひどかったなあ。まあ、そんなものだろう。キリスト教はもちろん、宗教一般に多くの日本人はあまり大きな問題意識を持っていない。問われればブッディストと答えるかもしれないけど、クリスマスも楽しみ、初詣も楽しみ…。

 それに、日本人は日本人俳優が演じて日本語を話しているけど、アメリカ人俳優が演じているのは実はポルトガル人である。16世紀初頭に、何でポルトガル人がイングランド語を話しているのか。日本側の通詞(浅野忠信)もイングランド語を話せる設定である。まあ、そこまで現実にこだわる必要もないかと思うけど、おかしいと言えばおかしい。だから、映画の最初の方は、「なんで今映画化するんだろう」みたいな疑問も頭をかすめる。でも、僕はだんだん映画に引き込まれていった。

 それは日本人キャストの頑張りによるところが大きい。今書いた通詞役の浅野忠信の、早く転んで欲しいような、実は転んでほしくないような屈折した演技は、非常にうまい。転びと告解を繰り返すキチジロウ(窪塚洋介)も印象的。どう理解するべきか、いろいろ解釈できると思う。「弱さ」か「狡猾さ」か、「信仰心」があるのかないのか。それも窪塚の演技が印象的だからだ。弾圧役の井上筑後守(イッセー尾形)も評判になっているようにうまい。

 だけど、やっぱり一番心に残るのは、パードレ(神父)を最初に受け入れるトモギ村のリーダー、イチゾウモキチだろう。イチゾウ役は笈田ヨシである。1933年生まれだから、なんと83歳。パリ在住で、ピーター・ブルックのもとで演出を学び、多くの舞台を作り上げてきた。伝説的な存在で、今年も新国立劇場で「蝶々夫人」を演出したばかりである。日本映画でも「豪姫」の秀吉、「最後の忠臣蔵」の茶屋四郎次郎などを演じている。伝説的な役者の格調高い演技には心打たれる。

 そして、モキチ役は塚本晋也。言うまでもなく、「野火」「鉄男」などの監督である。スコセッシも、「六月の蛇」の監督がオーディションに来たのかとビックリしたらしい。でも、驚くべき演技である。イチゾウとモキチは、海辺で磔(はりつけ)になるが、満潮時に海水の下にある位置で、時間をかけて死に至らしめる残酷な刑である。それを実際に演じているのだから、単なる演技という言葉では語れない。あくまでも権力に屈しない、気高い心を示し、荘厳な映像美とあいまって感動的である。

 このような日本人役者の、信者側、弾圧側双方の熱演は、スコセッシも絶賛している。それはこの映画を支えていると言っていい。日本に潜入する二人の神父、あるいはすでに棄教して日本名を与えられているフェレイラ神父(実在人物である)は、そのような日本側キャストがあっての演技にならざるを得ない。フェレイラはリーアム・ニーソンが演じて、存在感がある。一応主役と言えるロドリゴ神父は、アンドリュー・ガーフィールド(「アメイジング・スパイダーマン」)。もう一人のガルぺ神父アダム・ドライヴァー(「スターウォーズ/フォースの覚醒)」。

 まあ、このようなキャスト紹介をこれ以上続けても仕方ない。この映画は全体として、どう評価すればいいのか。今ひとつ見た後でもよく判らないところがある。だけど、明らかに力作だし、ぜひ見るべき映画になっている。ただ、キリスト教弾圧をどう考えるかという大問題が、そのままでは自分には遠いという感じがする。だけど、見ている間に「これは今もある問題だ」という思いが強まっていった。宗教をめぐる世界の紛争、自由を求めて権力側の暴虐と闘う人々。そういう問題意識で見れば、これは世界のいまとつながっている。だけど、スコセッシはどういう思いでこの映画を作ったのだろうか。
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幻覚とドッペルゲンガー-日野啓三を読む③

2017年03月01日 21時25分23秒 | 本 (日本文学)
 さて、もう少し日野啓三の話を書くけど、あまり長くない話を、間に他の話題も交えながら、少し続けて書きたい。まずは、1992年に出されて、伊藤整文学賞を受けた「断崖の年」という短編集について。1990年に日野はガンの手術を受ける。自覚症状はなかったので、不意打ち的な出来事だった。たまたま見つかったのである。そして、それ以後の体験を書いた。それが「断崖の年」だけど、僕は通常の「闘病記」を予想して読んだら、全く違ったのに驚いた。

 難病の手術を受けると、「死」を意識して自分の人生を振り返り、運命に思いをいたしたり、医者や家族に様々な思いを抱く。それを感動的に、あるいは露悪的に書きつづる「闘病記」はいっぱいあると思うけど、こういうのは初めてだった。日野啓三は、手術時の麻酔薬、さらに免疫強化剤などによって、強烈な幻覚に見舞われる。その幻覚の強烈な描写が続き、一種驚くべきファンタジー小説になっている。

 彼は慶応大学病院(JR中央線の信濃町駅そばにある)に入院したので、外苑の緑や東京タワーが病室からよく見えた。そして、東京タワーだけは、最後まで実体として把握でき、夜空に屹立していたけれど、他のビルはみな幻覚になったという。ビルに夜ともる赤い光は、なぜか漢字になったという。そして、病室に様々な人々がやってくる。ただ、それは自分でも幻覚だと判っているという。

 それでも「イメージが勝手に意識内部を荒れ狂った」体験は、圧倒的な迫力で迫ってくる。今までさまざまな幻想小説、あるいは幻想映画などがあるけど、そういうものによく出てくるイメージの噴出のようなものが、日野啓三の意識に実際に起きた。それが病後最初に書かれた「東京タワーが救いだった」という短編に書かれている。手術後に「譫妄(せんもう)」状態が起きることがあるのは知られているけど、それがここまで言語化されているのは珍しいのではないか。(手術時からかなり時間もたって、現在の麻酔の技術はだいぶ進歩していて、そこまで長く深刻な幻覚が続くことは少ないようだけど。)

 その後に書かれた「台風の眼」は前回触れたけど、一種の自伝として書かれている。だけど、この本は非常に不思議な本で、自分と自分の「ゴースト」の対話のように進行している。この「ゴースト」は「断崖の年」でも出てくるけど、自分を見ている「もうひとりの自分」であり、いわゆる「ドッペルゲンガー」(分身、自己像幻視)だと思われる。日野啓三は実際に見ているのだろうか。それとも、レトリックあるいは小説の仕掛けなんだろうか。よく判らない。

 でも、「台風の眼」を読んでわかるのは、常に「居場所がない」と思って生きてきたことである。「故国日本」に帰っても、まったく知らない日本の農村に行かなくてはならない。どこまで歩いても行きつかない体験は、彼にとって後に読んだカフカの「城」のような経験だった。幻想や夢のように思えるものは、彼にとって現実そのものだった。そうやって生きてきたのだから、「ドッペルゲンガー」は実際に見えているかどうかに関わらず、ずっと日野啓三の心の中に居続けたのではないか。

 ここで思ったことは、「幻想小説」と書いてきたけど、というか普通そういう風に読むわけだけど、書いている本人には一種のリアリズムなんじゃないかということである。つまり、本当に見えているものを書いているのかもしれない。そして、それは誰もが見ている。「」を見ない人はいない。夢の中ではいろいろな人が同時に出現して、いろいろと不思議な体験をともにする。それは「夢」であり、「現実」ではないと思うと、でも「夢の中」では「夢がリアル」である。

 日野啓三を読んで思ったのは、誰でも幻覚を(条件によっては)見るということである。統合失調症や、ある種の超常的な能力を持つ人だけに限らない。そして、そこで見た幻覚は、決して危険なものではなかった。自分の今までの世界観に存在しない幻覚は出てこない。手術時に出てきたものは、「病的」なもの、あるいは「被害妄想」的なものではなかった。親和的な幻覚だったとも言える。

 僕たちを成立させている、イメージの統合みたいなものを(麻酔薬によって)外してしまう。その時に出てくる幻覚は、「もう一つの現実」として、僕らのすぐそばに存在していたのである。それは「麻薬」あるいは「精神疾患」にも大きな示唆を与えるもののように思う。(なお、日野啓三は東京タワーを「商業的ではない」ものと考え、東京の象徴の様にとらえている。でも、東京タワーは「日本電波塔株式会社」だと知っていたら、あるいはまたタワーも幻覚にのまれていただろうか。)
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