小池真理子の「神よ憐れみたまえ」(新潮社)を読んだ。570ページにもなる大著で、10年の歳月を掛けたという畢生の大作である。その間に夫の藤田宜永をガンで失うという体験もした。1100枚になる大長編だから、なかなか読み進まない。しかし、長さだけでなく、どうしても辛くなってしまう展開に圧倒された。文章は読みやすいが、内容的にこれはやり過ぎではないかという展開なので、先のページに尻込みする。一度はチャレンジするだけの深さを持っているが、読むには覚悟がいる。
小池真理子は直木賞を受けた「恋」(1995)を初めとして、「無伴奏」「欲望」など「時代」を色濃く反映させながらロマネスクな世界を築き上げる長編をいっぱい書いてきた。僕は全部を読んでいるほどのファンではないけれど、そのミステリアスで濃密な作品世界に惹かれてきた。「恋」はあさま山荘事件(1972年)と同時期に軽井沢で起こった殺人事件を描いていた。今度の「神よ憐れみたまえ」では1963年11月9日に起こった国鉄の鶴見事故が出て来る。161人が死亡した脱線衝突事故である。全く同じ日に三池炭鉱の爆発事故が起こり458人が死亡した。そのため「魔の土曜日」と呼ばれることになる。
ちょうど大事故と同じ日に大田区久が原の豪邸に住む夫婦が殺害された。夫は函館の有名な黒沢製菓の御曹司で、東京支店を任されていた。彼は黒沢製菓が函館で営む洋食レストラン黒沢亭で働いていた妻を見初めて、母の反対を押し切って結婚した。一人娘の黒沢百々子が生まれ、今はピアニストを目指して音楽科で知られる聖蘭学園の小学校に通っている。凶行のあった日には、箱根で行われる宿泊旅行に参加していて百々子だけが無事だった。しかし、彼女は12歳にして、両親を失うという悲劇に見舞われたのである。
この小説は黒沢百々子の人生を丹念にたどっていく。周辺の人物を巧みに織り込みながら、愛らしく賢い「天使のような」百々子が如何にして両親の不在に向き合っていくか。一応殺人事件から始まる「ミステリー」的な作品だが、犯人は最初の方から匂わせられていて、作品半ばで事件に至る経緯から犯行までが叙述される。だから「犯人」も「犯行方法」「動機」もすべて読者には途中で判ってしまう。だがそのことは百々子には判らない。いつどのようにすべてが白日のもとに曝されるのか、そこがスリリングだというタイプの作品である。
(小池真理子)
百々子は父の弟(叔父)には懐いていない。家族では唯一母の弟の左千夫だけに身近な思いを持っていた。親を失った百々子は家政婦だった石川たづの家に一時的に住むことになる。たづの夫は大工をしていて、家政婦を捜していた黒沢夫妻に妻を薦めたのである。この石川一家、特にたづの無償の愛が百々子を支えていく。石川家には二人の子どもがいて、特に一歳違いの美佐とは何でも話せる友人となる。兄の紘一との縁、美佐の人生行路、たづ一家との交流が読み応えがある。裕福な黒沢家にはない、庶民の中にある高潔な生き方を教えてくれる。
一方で事件の経緯が語られていくと、あまりにも異様な悲劇に言葉もない感じがする。いや、こういう動機を知らないわけではない。むしろ時々見聞きすることかもしれない。それにしても、動機は動機として、果たしてこのような犯罪が起こりえるのだろうか。起こったとしても、すぐに警察によって事件としては解決されるのではないか。ところがそこに鶴見事故が関わるのである。犯人は当日に事故に巻き込まれるが、車両の違いによってたまたま大きな被害は受けなかった。そこで知人に出会っていたことが犯人の人生を左右することになる。この動機が事細かに語られるときに、僕は心乱されて読むのが大変だった。
百々子の人生は波瀾万丈過ぎるが、そこに学ぶことも多い。一大叙事詩というか、むしろ壮大なマンダラというべきか。もちろん黒沢製菓や聖蘭学園は架空の存在だが、似たような存在は思い浮かぶ。百々子のように「才色兼備」を絵に描いたような人間がかくも過酷な人生を歩むことになるとは。しかし、事件を越えて、小説は晩年に及んでいく。1963年に12歳だったのだから、百々子は1951年生まれである。まだまだ元気で活躍しておかしくない年齢だが、函館に移り住んだ百々子に運命は過酷である。函館の立待岬、函館山ロープウェー、ハリストス正教会などが印象的に描かれるのもロマネスクなムードを高めている。
久が原(くがはら)ってどこだろうか。東京人なら皆お屋敷町に詳しいと思うかもしれないが、多くの人は全然行ったこともないだろう。僕は有名な田園調布も、名前は知ってるけど行ったことがない。久が原になると、名前を聞いたこともなかった。こういうところがあるんだ。60年代、70年代の東京の姿が描かれるのも懐かしい。また音楽への道を進む百々子だけあって、クラシック音楽の話も多い。そもそも題名の「神よ憐れみたまえ」がバッハ「マタイ受難曲」のアリアである。探して聞いてみれば知っている人が多いと思う。百々子はチャイコフスキーが好きだというが、作品世界に響いているのは荘厳なバッハの受難曲である。動機が受け入れられない人がいると思うけど、これほどロマネスクなムードあふれる現代の叙事詩はないと思う。
小池真理子は直木賞を受けた「恋」(1995)を初めとして、「無伴奏」「欲望」など「時代」を色濃く反映させながらロマネスクな世界を築き上げる長編をいっぱい書いてきた。僕は全部を読んでいるほどのファンではないけれど、そのミステリアスで濃密な作品世界に惹かれてきた。「恋」はあさま山荘事件(1972年)と同時期に軽井沢で起こった殺人事件を描いていた。今度の「神よ憐れみたまえ」では1963年11月9日に起こった国鉄の鶴見事故が出て来る。161人が死亡した脱線衝突事故である。全く同じ日に三池炭鉱の爆発事故が起こり458人が死亡した。そのため「魔の土曜日」と呼ばれることになる。
ちょうど大事故と同じ日に大田区久が原の豪邸に住む夫婦が殺害された。夫は函館の有名な黒沢製菓の御曹司で、東京支店を任されていた。彼は黒沢製菓が函館で営む洋食レストラン黒沢亭で働いていた妻を見初めて、母の反対を押し切って結婚した。一人娘の黒沢百々子が生まれ、今はピアニストを目指して音楽科で知られる聖蘭学園の小学校に通っている。凶行のあった日には、箱根で行われる宿泊旅行に参加していて百々子だけが無事だった。しかし、彼女は12歳にして、両親を失うという悲劇に見舞われたのである。
この小説は黒沢百々子の人生を丹念にたどっていく。周辺の人物を巧みに織り込みながら、愛らしく賢い「天使のような」百々子が如何にして両親の不在に向き合っていくか。一応殺人事件から始まる「ミステリー」的な作品だが、犯人は最初の方から匂わせられていて、作品半ばで事件に至る経緯から犯行までが叙述される。だから「犯人」も「犯行方法」「動機」もすべて読者には途中で判ってしまう。だがそのことは百々子には判らない。いつどのようにすべてが白日のもとに曝されるのか、そこがスリリングだというタイプの作品である。
(小池真理子)
百々子は父の弟(叔父)には懐いていない。家族では唯一母の弟の左千夫だけに身近な思いを持っていた。親を失った百々子は家政婦だった石川たづの家に一時的に住むことになる。たづの夫は大工をしていて、家政婦を捜していた黒沢夫妻に妻を薦めたのである。この石川一家、特にたづの無償の愛が百々子を支えていく。石川家には二人の子どもがいて、特に一歳違いの美佐とは何でも話せる友人となる。兄の紘一との縁、美佐の人生行路、たづ一家との交流が読み応えがある。裕福な黒沢家にはない、庶民の中にある高潔な生き方を教えてくれる。
一方で事件の経緯が語られていくと、あまりにも異様な悲劇に言葉もない感じがする。いや、こういう動機を知らないわけではない。むしろ時々見聞きすることかもしれない。それにしても、動機は動機として、果たしてこのような犯罪が起こりえるのだろうか。起こったとしても、すぐに警察によって事件としては解決されるのではないか。ところがそこに鶴見事故が関わるのである。犯人は当日に事故に巻き込まれるが、車両の違いによってたまたま大きな被害は受けなかった。そこで知人に出会っていたことが犯人の人生を左右することになる。この動機が事細かに語られるときに、僕は心乱されて読むのが大変だった。
百々子の人生は波瀾万丈過ぎるが、そこに学ぶことも多い。一大叙事詩というか、むしろ壮大なマンダラというべきか。もちろん黒沢製菓や聖蘭学園は架空の存在だが、似たような存在は思い浮かぶ。百々子のように「才色兼備」を絵に描いたような人間がかくも過酷な人生を歩むことになるとは。しかし、事件を越えて、小説は晩年に及んでいく。1963年に12歳だったのだから、百々子は1951年生まれである。まだまだ元気で活躍しておかしくない年齢だが、函館に移り住んだ百々子に運命は過酷である。函館の立待岬、函館山ロープウェー、ハリストス正教会などが印象的に描かれるのもロマネスクなムードを高めている。
久が原(くがはら)ってどこだろうか。東京人なら皆お屋敷町に詳しいと思うかもしれないが、多くの人は全然行ったこともないだろう。僕は有名な田園調布も、名前は知ってるけど行ったことがない。久が原になると、名前を聞いたこともなかった。こういうところがあるんだ。60年代、70年代の東京の姿が描かれるのも懐かしい。また音楽への道を進む百々子だけあって、クラシック音楽の話も多い。そもそも題名の「神よ憐れみたまえ」がバッハ「マタイ受難曲」のアリアである。探して聞いてみれば知っている人が多いと思う。百々子はチャイコフスキーが好きだというが、作品世界に響いているのは荘厳なバッハの受難曲である。動機が受け入れられない人がいると思うけど、これほどロマネスクなムードあふれる現代の叙事詩はないと思う。