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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

小池真理子「神よ憐れみたまえ」、荘厳なる一大叙事詩だが…

2021年11月11日 22時47分49秒 | 〃 (ミステリー)
 小池真理子の「神よ憐れみたまえ」(新潮社)を読んだ。570ページにもなる大著で、10年の歳月を掛けたという畢生の大作である。その間に夫の藤田宜永をガンで失うという体験もした。1100枚になる大長編だから、なかなか読み進まない。しかし、長さだけでなく、どうしても辛くなってしまう展開に圧倒された。文章は読みやすいが、内容的にこれはやり過ぎではないかという展開なので、先のページに尻込みする。一度はチャレンジするだけの深さを持っているが、読むには覚悟がいる。

 小池真理子は直木賞を受けた「」(1995)を初めとして、「無伴奏」「欲望」など「時代」を色濃く反映させながらロマネスクな世界を築き上げる長編をいっぱい書いてきた。僕は全部を読んでいるほどのファンではないけれど、そのミステリアスで濃密な作品世界に惹かれてきた。「」はあさま山荘事件(1972年)と同時期に軽井沢で起こった殺人事件を描いていた。今度の「神よ憐れみたまえ」では1963年11月9日に起こった国鉄の鶴見事故が出て来る。161人が死亡した脱線衝突事故である。全く同じ日に三池炭鉱の爆発事故が起こり458人が死亡した。そのため「魔の土曜日」と呼ばれることになる。

 ちょうど大事故と同じ日に大田区久が原の豪邸に住む夫婦が殺害された。夫は函館の有名な黒沢製菓の御曹司で、東京支店を任されていた。彼は黒沢製菓が函館で営む洋食レストラン黒沢亭で働いていた妻を見初めて、母の反対を押し切って結婚した。一人娘の黒沢百々子が生まれ、今はピアニストを目指して音楽科で知られる聖蘭学園の小学校に通っている。凶行のあった日には、箱根で行われる宿泊旅行に参加していて百々子だけが無事だった。しかし、彼女は12歳にして、両親を失うという悲劇に見舞われたのである。

 この小説は黒沢百々子の人生を丹念にたどっていく。周辺の人物を巧みに織り込みながら、愛らしく賢い「天使のような」百々子が如何にして両親の不在に向き合っていくか。一応殺人事件から始まる「ミステリー」的な作品だが、犯人は最初の方から匂わせられていて、作品半ばで事件に至る経緯から犯行までが叙述される。だから「犯人」も「犯行方法」「動機」もすべて読者には途中で判ってしまう。だがそのことは百々子には判らない。いつどのようにすべてが白日のもとに曝されるのか、そこがスリリングだというタイプの作品である。 
(小池真理子)
 百々子は父の弟(叔父)には懐いていない。家族では唯一母の弟の左千夫だけに身近な思いを持っていた。親を失った百々子は家政婦だった石川たづの家に一時的に住むことになる。たづの夫は大工をしていて、家政婦を捜していた黒沢夫妻に妻を薦めたのである。この石川一家、特にたづの無償の愛が百々子を支えていく。石川家には二人の子どもがいて、特に一歳違いの美佐とは何でも話せる友人となる。兄の紘一との縁、美佐の人生行路、たづ一家との交流が読み応えがある。裕福な黒沢家にはない、庶民の中にある高潔な生き方を教えてくれる。

 一方で事件の経緯が語られていくと、あまりにも異様な悲劇に言葉もない感じがする。いや、こういう動機を知らないわけではない。むしろ時々見聞きすることかもしれない。それにしても、動機は動機として、果たしてこのような犯罪が起こりえるのだろうか。起こったとしても、すぐに警察によって事件としては解決されるのではないか。ところがそこに鶴見事故が関わるのである。犯人は当日に事故に巻き込まれるが、車両の違いによってたまたま大きな被害は受けなかった。そこで知人に出会っていたことが犯人の人生を左右することになる。この動機が事細かに語られるときに、僕は心乱されて読むのが大変だった。

 百々子の人生は波瀾万丈過ぎるが、そこに学ぶことも多い。一大叙事詩というか、むしろ壮大なマンダラというべきか。もちろん黒沢製菓や聖蘭学園は架空の存在だが、似たような存在は思い浮かぶ。百々子のように「才色兼備」を絵に描いたような人間がかくも過酷な人生を歩むことになるとは。しかし、事件を越えて、小説は晩年に及んでいく。1963年に12歳だったのだから、百々子は1951年生まれである。まだまだ元気で活躍しておかしくない年齢だが、函館に移り住んだ百々子に運命は過酷である。函館の立待岬函館山ロープウェーハリストス正教会などが印象的に描かれるのもロマネスクなムードを高めている。

 久が原(くがはら)ってどこだろうか。東京人なら皆お屋敷町に詳しいと思うかもしれないが、多くの人は全然行ったこともないだろう。僕は有名な田園調布も、名前は知ってるけど行ったことがない。久が原になると、名前を聞いたこともなかった。こういうところがあるんだ。60年代、70年代の東京の姿が描かれるのも懐かしい。また音楽への道を進む百々子だけあって、クラシック音楽の話も多い。そもそも題名の「神よ憐れみたまえ」がバッハマタイ受難曲」のアリアである。探して聞いてみれば知っている人が多いと思う。百々子はチャイコフスキーが好きだというが、作品世界に響いているのは荘厳なバッハの受難曲である。動機が受け入れられない人がいると思うけど、これほどロマネスクなムードあふれる現代の叙事詩はないと思う。
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「大軍拡」をどう考えるべきかー2021衆院選⑤

2021年11月10日 22時41分24秒 |  〃  (選挙)
 衆議院選挙であまり論じられなかったことに、「安保・防衛」問題がある。まあ他の問題もきちんと論じられたとは言えないわけだが。しかし、今回の選挙を通して戦後日本でずっと続いてきた大原則が変わってしまうのかもしれないのである。

 まず、以下で「政党A」の公約を見てみたい。
 「人間の安全保障の理念に立脚した「持続可能な開発目標(SDGs)」の達成に向け平和構築、軍縮・不拡散、保健・感染症、女性の活躍、防災などといった日本が得意とする分野における取り組みを強化します。
 次に「政党B」の公約を見てみよう。
 「自らの防衛力を大幅に強化すべく、安全保障や防衛のあるべき姿を取りまとめ、新たな国家安全保障戦略・防衛計画の大綱・中期防衛力整備計画等を速やかに策定します。NATO諸国の国防予算の対GNP費目標(2%以上)も念頭に防衛関係費の増額を目指します。

 これがどの党か判るだろうか。A党は公明党B党は自民党である。全然違うではないか。いや、公明党は「平和」とは言うけれど、「防衛費GNP1%枠を厳守する」とは書いてない。「日米防衛協力のための指針及び平和安全法制に基づく適正な運用を積み重ねながら、日米同盟の抑止力・対処力を一層向上させ、緊密な情報共有及び共通情勢認識の構築を行います」とあって、賛成したんだから当然だが「平和安全法制」を認めている。

 「維新」の公約を見ると、「防衛費の GDP1%枠を撤廃し、テロやサイバー・宇宙空間への防衛体制をさらに強化します。また、領域内阻止能力の構築について、積極的な検討を進めます」とあって、防衛費の GDP1%枠を撤廃することでは自民党と一致している。公明党よりも「日本維新の会」の方が議席が多いわけだから、国会では防衛費の増強する「大軍拡」を望む勢力が多数を占めるのである。これをどう考えるべき何だろうか。(なお、1%枠そのものは安倍政権においてすでに撤廃されている。「撤廃」というか、「1%という上限があるわけではない」という首相答弁がなされている。)
(防衛費増強を目指す自民党高市政調会長)
 2021度の防衛予算を調べてみる。5兆1235億円であり、2011年からずっと増えている。特に2013年度の4兆6804億円から安倍政権において5千億円ほど増大してきた。一方、日本の名目GDP(国内総生産)は円ベースで528兆9605億円である。今後少しずつ統計が改定されていくのだが、大まかには大体同じだろう。昨年度の防衛費は5兆688億円なので、対GNP比は0.95%ほどになる。これを2%以上にするということは、2021年度の予測数値で考えるならば、10兆円以上にするということである。
(世界各国の軍事費)
 上に示したように、自民党の公約通りの大軍拡が実現すれば、日本は米中に並ぶ一大軍事国家になる。そんなことは現実的に不可能だと思うが、方針として明示した意味は大きい。ヨーロッパ各国のように、人口規模が小さく一人当たりGDPが日本より大きい国と比較すること自体がおかしい。(一人当たりGDP(ドルベース)は日本は24位である。)防衛費を倍増させるなど、国家は大国でも国民生活は貧困だった戦前日本の再来である。もっともそれは簡単に出来ることではない。労働力が不足する中で、すでに大きく割り込んでいる自衛隊員を倍増させるなど出来ない。だから、「装備」を増強することを考えているのだろう。要するに、米国製兵器をもっと買うことになるのだろう。

 どんな予算もそうだけれど、特に防衛費は増やしたら減らしにくい。人件費は削れないし、大型兵器は一年単位ではなく何年にもまたがって設計段階から膨大な予算を必要とする。一度始めたら、途中で止めることは難しい。日本はすでに「事実上の空母」を所有するようになっている。とすると「敵基地攻撃能力」だけでなく、ミサイルや原子力潜水艦を「専守防衛」の名の下に開発するのだろうか。この方向性は「亡国への道」だと僕は思う。「地上イージス・アショア」が断念に追い込まれたように、国民の抵抗に直面することになるだろう。
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消費減税より給付金ー2021衆院選④

2021年11月09日 22時47分52秒 |  〃  (選挙)
 衆院選で野党の議席減をめぐって、立憲民主党と共産党の選挙協力を語る人が多い。間違っていたとか、いや一定の効果もあったとか。まあ、それも考えるべきことだろうが、有権者はそれで投票先を判断したのだろうか。僕は政党の路線問題を気にする人なんて、そんなに沢山いるとは思えない。政治に強い関心を持っていた人は、左右を問わずマスコミやネットで大きな声で語る。でも、それが勝因(敗因)だと決めつけるというのもどうなんだろうと思うのである。

 じゃあ、有権者は何を重視したのだろうか? 選挙後に行われた共同通信の世論調査では、「経済政策」が最多で33.5%を占めて他を圧倒している。それから「年金・医療・介護」が16.0%、「新型コロナウイルス対策」が14.9%で、この3つが10%を超えている。その次に「子育て・少子化対策」が9.4%、「政治とカネ」が8.4%、「外交や安全保障」が6.1%、「地域活性化」が3.8%、「原発・エネルギー対策」が3.5%、「憲法改正」が2.1%、「その他」が1.1%となっている。

 この調査リストには何で「女性の政治進出」や「選択的夫婦別姓制度」がないのだろうか。「地球温暖化問題」は「原発・エネルギー対策」に入るのかもしれないが、はっきりと明記するべきではないか。それとも日本の選挙では全然争点にならないのか。それより何より「所属団体の推薦」とか「知人の依頼」という項目こそ必要なのではないだろうか。まあ、それはともかく、いつも日本の有権者は「経済」とか「年金」を重視すると答えている。どこまでホンネを答えているのか判らないけれど。

 一応有権者は経済やコロナ対策を重視したと考えると、野党が掲げた「消費税減税」がアピールしなかったのかと思う。自民党や公明党が掲げた困窮世帯や子どもへの給付金の方が受け入れられたということではないか。消費税に関しては、アップするときに聞くと「引き上げに反対」という声が多くなる。しかし、しばらくすると慣れてしまうのか、受け入れられて来る。2021年10月の調査では「10%のまま維持する方がよい」が男女ともに多数派になっている。「一時的にでも引き下げる方がよい」は男性で38%、女性で33%である。(11月5日付朝日新聞夕刊)
(消費税に関する世論調査)
 つまり、国民の中で少数しか賛成していない政策を野党は公約にしたことになる。少数派でも野党が主張して行かなければならない問題もある。与野党を分かつ基本的な問題では、多数少数に関わらず信じる政策を掲げるのが正しいだろう。しかし、経済政策などではどうなんだろうか。国民の中に消費税維持派が多ければ、それを受けて税収をいかに「再分配」していくかこそ論じた方が良かったのではないだろうか。

 与党の方では公明党の「子どもに10万円給付」をめぐって、選挙が終わってから慌てて調整している。選挙で勝ったら連立を組むことは決まっていたんだから、選挙前に「与党共通公約」を発表するべきではないのか。今頃になって高市自民党政調会長が「公明党案は自民党の公約とは相容れない」などと言っているが、選挙後にそんなことを言うのはおかしい。野党はその矛盾点を選挙中に指摘して、自公両党を追及するべきではなかったのか。選挙後に与党間調整をしていることに違和感を感じる。

 結局は「現金で5万円」「残り5万円はクーポン」という方向でまとまるらしい。これはギリギリ公約通りかと思うけれど、このクーポンというのは大学や専門学校への入学金や授業料に使えるのだろうか。18歳にも支給するんだから、当然そういう使い道ができなければならない。所得制限も協議されている。それは僕が「公明党の「子どもに10万円給付」公約を考える」で書いたように、児童手当の仕組みの利用を考えているからである。当然そうなると思っていたが、もともとの公明党案からは逸脱になる。ちなみに僕は「労働組合と選挙ートヨタ労組の撤退の意味するもの」も書いた。今回の選挙の焦点はその二つだと思っていたからである。終わってみれば、まさにその通りだったと思う。

 何で消費税が受け入れられたのか。逆に野党はなぜ消費税にこだわる人が多いのか。恐らくは1989年の消費税導入時にさかのぼって、「だまし討ち」(中曽根元首相が大型間接税は導入しない」と公約して選挙に大勝した)で作られたこと、そして「逆進性」があるということだろう。しかし、逆進性と言っても、日本の税率はヨーロッパほど高くない。ヨーロッパでは25%ぐらいある国が多いが、その代わりに食品は5%とかゼロになったりしている。消費税を下げて、代わりに高額所得者の所得税を引き上げるなど言っているが、国民すべてからモノ・サービスの購買時に掛ける消費税分に充当できるとは思えない。

 日本では高齢化が急速に進行し、高齢層も若年層も、年金や医療が現在のように保証され続けるのか不安に思っている。そのため、ただ減税すればいいという主張では国民は納得しないのではないか。アメリカでも減税を主張するのは共和党である。ただ消費税を減税すれば、高い買い物をする富裕層の方が有利になる。それより野党はきちんと「コロナ困窮者」に給付金という仕組みを提示するべきだったと思う。「子どもに10万円」という政策は、いろいろと疑問を呼びながらも、間違いなくインパクトがあった。それは公明党が700万票を回復した原動力になったのではないかと僕には思える。
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立憲民主党は果たして本当に負けたのかー2021衆院選③

2021年11月08日 22時52分31秒 |  〃  (選挙)
 2021年衆議院選挙に関して、結果と比例票の推移を書いたままになっている。間が開いたが、次に各党の結果と置かれた状況を自分なりに考えてみたい。まずは立憲民主党から。立憲民主党は議席を13も減らして、100議席を割り込んで96議席となった。自民党も15議席減らしているのだが、元々の議席数が多く過半数を大きく超えているから、減らした感じがしない。菅内閣の支持率が低迷していたから、岸田内閣に代わって「よくこの程度の減で済んだ」と思われている。一方の立憲民主党は悪くても「多少は増える」と予想されていたので、大敗イメージになった。その結果、枝野代表が辞意を表明して、今後特別国会後に代表選が行われる。
(「変えよう」と訴えていた立憲民主党)
 議席を大きく減らしたんだから、立憲民主党は「敗北」には違いない。開票直後の記事でもそう書いた。もう政権交代も近いようなことを言ってたんだから、話が大分違ってしまった。しかし、今さらにはなるけれど、立憲民主党は果たしてどの程度負けたのだろうか。それをきちんと検証しなければいけない。

 衆議院選挙は小選挙区比例代表区だから、それぞれ検討してみたい。
 前回の2017年衆院選は、なかなか開かれなかった臨時国会を開いたと思ったら、安倍元首相によって何の審議もないままに冒頭で解散されてしまった。何だかんだ言っても野党の不意を打ったということだろう。さらに小池都知事を中心にした「希望の党」が国政に参入し、「民進党」がそれに合流するという展開になった。しかし、希望の党は民進党全員ではなく、「選別公認」の方針を打ち出したため、公認を得られない議員を中心に「立憲民主党」が結成された。そういう経緯があったため、小選挙区では自民党が圧勝したのである。
 【2017年衆院選の小選挙区=総計289】
 自由民主党=218 公明党=8 与党226
 立憲民主党=18、希望の党=18、維新=3、共産=1、社民=1、無所属=22 野党・無所属計63

 無所属や希望の党で当選した議員の中には、その後立憲民主党に移籍した議員が多い。
 希望 階猛大島敦笠浩史下条みつ、渡辺周、大西健介泉健太佐藤公治、白石洋一、大串博志 以上10名
 無所属 小沢一郎、安住淳金子恵美玄葉光一郎、中村喜四郎、福田昭夫野田佳彦江田憲司、中島克仁、黒岩宇洋、菊田真紀子、篠原孝、重徳和彦、中川正春、岡田克也、平野博文、広田一、原口一博、玉木デニー(屋良朝博) 以上19名。

 玉木デニーが知事選に出た後の後継を含めて、総計29名が立憲民主党に加わった。先の18議席に加えると、37議席を持っていた。ところで今回立憲民主党は小選挙区でいくつ勝ったのだろうか。それは57議席である。希望や無所属から加わった議員も、上で下線を付けた議員は小選挙区で勝った。僕も小沢一郎中村喜四郎が小選挙区で落選する(比例で当選)するとは思っていなかった。中村喜四郎は立民とは共同会派に止めて無所属で臨んでいたなら勝てたのではないだろうか。

 立憲民主党は前回よりメンバーが増えて衆院選に臨み、前回より大幅に増えた57議席を小選挙区で得た。その大部分は野党間の選挙協力があった選挙区である。もちろん、300近い小選挙区の中で57程度では政権獲得にはほど遠い。でも僅差の敗北も多かった。いわゆる惜敗率が90%以上を「接戦」と考えるならば、全国では32選挙区が接戦だった。何かちょっとしたことが違っていたら(例えば菅内閣のままで選挙が行われたとか、選挙中に大きな失言が相次愚とか)、自民党を30議席減らせた潜在的可能性はあったのである。ただ、それは自民党が単独過半数を割るというだけのことで、公明党を加えれば与党で過半数になる。それを覆すためには、現在のように西日本の小選挙区でほとんど勝てない現状のままでは政権獲得は難しいだろう。(近畿以西では12議席だけ。全部で113小選挙区。)
 
 以下に示す世論調査に見るように、国民の半数近くが「与野党伯仲が望ましい」と答えていた。しかし、比例区の投票先を聞くと、圧倒的に自民党が多い。与野党逆転を望む人よりも、与党が野党を上回ることを望む人の方が3倍ほど多い。伯仲を望む人が挙って野党に投票しない限り、与党は圧勝するはずである。野党間の選挙協力を評価しない人が評価する人より多いことも注目点である。このように、小選挙区はまずまず健闘したものの、比例票で圧倒されたのが今回の衆院選で野党が負けた原因だった。
(共同通信の世論調査)
 では、比例区票を確認してみよう。今回と同じく「国民民主党」や「れいわ新選組」が存在したのは、2019年の参院選だけである。だから2回の選挙の比例票を比較してみる。参院選は全国集計だし、個人名も書ける。衆院選はブロック別に行われ、政党名しか書けない。また参院選の方が投票率が低くなるのが普通である。だから、両者を簡単に比べてはおかしいのだが、他に材料がない。

        (2019年参院選)      2021年衆院選
 投票率     (48.79%)         55.93%
 自由民主党   17,712,373       19,914,883
 公明党      6,536,336        7,114,282

 立憲民主党   7,917,720        11,492,115
 日本維新の会   4,907,844        8,050,830
 日本共産党    4,483,411        4,166,076
 国民民主党    3,481,078        2,593,375
 れいわ新選組   2,280,252        2,215,648
 社会民主党    1,046,011        1,018,588

 面倒くさいと思うだろうが、この数字をよく見てみると、5割も行かなかった2019年参院選と比べて増えてない政党が多い。実は立憲民主党以外の共闘した野党は皆票を減らしている。今回参院選よりも増えたのは、自民、維新、公明、立民なのである。立憲民主党は参院選よりも350万票以上増やした。それに伴って、前回は37議席だった比例区で39議席を得た。増えているのである。しかし、自民党や維新の会の票の増え方が大きかったので、「比例」であるから増え方が限定的だった。

 小選挙区では20議席増やし、比例区では350万票以上増やした。「立憲民主党は果たして本当に負けたのか」とタイトルに掲げたのも、なるほどと思ったのではないだろうか。
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コリン・パウエル、盧泰愚、カーン博士等ー2021年10月の訃報③

2021年11月07日 22時27分30秒 | 追悼
 アフリカ系アメリカ人として初の統合参謀本部議長(ブッシュ父政権)となり、後にアフリカ系初の国務長官(ブッシュ子政権)になったコリン・パウエル(Colin Luther Powell)が10月18日に死去、84歳。ジャマイカ系移民の子に生まれ、陸軍に入った。ベトナム戦争で2度負傷、帰国後に軍内部で昇進し、陸軍大将まで昇進した。レーガン政権では国家安全保障担当補佐官、ブッシュ父政権で現役に復帰し、統合参謀本部議長となってパナマ侵攻や湾岸戦争を指揮した。その頃から共和党の大統領候補として取り沙汰されるようになったが、家族から「黒人大統領を目指せば暗殺される」と強く反対された。
(コリン・パウエル)
 ブッシュ子政権で国務長官に就任し、2003年イラク戦争直前の国連安保理で「イラクは大量破壊兵器を持っている」と演説した。しかし、実は間違った情報によったもので、戦争後に大量破壊兵器は発見されなかった。パウエルはこれを「人生最大の汚点」と述べている。僕も当時リアルタイムで演説を見たが、一定の説得力はあると思った。(しかし、大量破壊兵器の有無の関わらず開戦反対の立場。日本政府は開戦を支持したが、パウエルのように真摯に反省したのか。)共和党穏健派を代表する立場で、葬儀に際しては党派を超えた哀悼の意が表され、トランプ以外の有力政治家が参列した。

 元韓国大統領の盧泰愚(ノ・テウ)が10月26日に死去、88歳。87年に久しぶりに行われた大統領直接選挙で13代(5人目)の大統領に当選、1988年のソウル五輪を成功させた。外交では「北方外交」を展開し、ソ連、中国との国交を結んだ。しかし、元々は軍人で、1979年の朴正熙大統領暗殺後に、全斗煥らと「粛軍クーデター」を起こした一員である。全斗煥政権では体育相を務めて五輪準備を担当した。全斗煥から後継指名を受けたが、民主化運動が高揚し(「6月民衆抗争」)、盧泰愚は「六・二九民主化宣言」を発して直接大統領選を受け入れた。政治犯も赦免し、結果的に大統領選には金泳三、金大中がともに立候補し、民主派票が割れて盧泰愚が当選した。大統領時代は「普通の人」を掲げて親しみやすさを演出していた。大統領引退後に政治資金隠匿が発覚し、粛軍クーデターや光州事件も再捜査され、結局懲役17年、追徴金2688億ウォンが確定した。1997年末に特赦された。
(盧泰愚)
 パキスタンの「核開発の父」と言われるアブドゥル・カディール・カーンが10月10日に死去した。85歳。オランダでウランの濃縮技術を身に付け、70年代以後パキスタンで核兵器の開発を進めた。核技術の国際的な闇ネットワークを築いたとされ、イラン、リビア、北朝鮮などへ核兵器技術を密売したと言われる。パキスタン政府の関わりなくして不可能と思われるが、そこには触れずにカーン博士が2004年に関与を「自白」。以後、2009年まで自宅軟禁された。パキスタンでは責任を自らで負って国家と軍を救ったとみなされ、対立するインドに対抗できる核兵器を開発した国民的英雄とされている。
(カーン博士) 
 ソプラノ歌手のエディタ・グルベローヴァが10月18日に死去、74歳。70年にウィーン国立歌劇場と契約、一躍世界に知られた。チェコ生まれ、父はドイツ人ながら、イタリアオペラを得意とし「ベルカント(美しい歌)の女王」と呼ばれた。15回以上も来日公演を行っている。当時のチェコを逃れて西欧各地で活躍した。
(エディタ・グルベローヴァ)
 オランダの指揮者ベルナルド・ハイティンクが10月21日死去、92歳。ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者を61年から88年まで務めた。その後はロンドン・フィルやロイヤル・オペラハウスなどの指揮者を務め、現代最高峰の一人とされた。日本には62年のコンセルトヘボウを皮切りに10回以上も訪れて公演している。正統的な指揮で知られ、ベートーヴェン、シューマン、ブラームス、ブルックナー、マーラー、チャイコフスキー、ショスタコーヴィチなどの交響曲全集を完成させている。
(ベルナルト・ヘイティンク)
・イラン・イスラム革命以後の最初の大統領だったアボルハサン・バニサドルが10月9日に死去、88歳。60年代から反帝政運動に参加し、パリに亡命。79年の革命後にホメイニ師とともに帰国した。革命試験では蔵相に就任し、80年の大統領選で大統領に当選した。しかし、保守派との対立が深まり、81年6月に国会で弾劾決議が可決され辞任。国外に脱出してパリで亡命生活を送り、イスラム体制を批判する活動を続けた。
・ハンガリーの経済学者、コルナイ・ヤーノシュが10月18日没、93歳。戦後に共産党に入党し、経済誌記者をしながら経済学を勉強した。次第に社会主義経済を批判するようになり、1980年の「不足」では社会州経済では物資やサービスが恒常的に不足することを説き、ハンガリーでは「不足」が不足と言われるベストセラーになった。1984年からハーバード大学教授。東欧各国で社会主義経済からの脱却に大きな影響を与えた。邦訳書も数多い。

橋本敦、8月29日没、93歳。元共産党所属の参議院議員。ロッキード事件などの調査、追求で知られた。1988年に謎のカップル失踪事件を質問誌、当時の梶山静六官房長官から「北朝鮮による拉致の疑いが濃厚」との答弁を引き出した。
里村龍一、10月5日没、72歳。作詞家。もともと釧路の漁師だったが、森進一の歌詞募集に応募して優勝し作詞家デビューした。細川たかし「望郷じょんから」、千昌夫「望郷酒場」、香西かおり「雨酒場」など。
醍醐敏郎、10月10日没、95歳。「ミスター講道館」と呼ばれた柔道家で、史上15人しかいない最高位の10段だった。戦後の柔道界のスターで国際的な普及にも努めた。ケガが多く全日本優勝は2度に止まるが、名勝負が語り継がれた。引退後は指導者となり、東京五輪コーチ、モントリオール、ロサンゼルス五輪監督を務めた。著書に「柔道教室」など。
前田五郎、10月16日没、79歳。坂田利夫と組んだコメディ№1のツッコミ担当。初めは吉本新喜劇で活躍し、1967年から坂田利夫と組んで活躍した。2009年に中田カウス脅迫状事件への関与が報道され、本には否定するもののコンビ解散、吉本から契約解除になった。
花柳千代、10月17日没、97歳。1940年に花柳流から花柳千代の名を許され、1951年に花柳千代舞踊研究所を設立した。分野を超えて日本舞踊の普及に務めた。東京新聞主催全国舞踊コンクールで36回の指導者賞を受けた。
飯島敏宏、10月17日没、89歳。テレビプロデューサー、監督、脚本家。TBS入社後、60年代半ばから円谷プロの「ウルトラQ」に関わり、以後「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」などの監督をした。脚本も担当し「バルタン星人」の生みの親と言われている。その後木下プロに出向し、後会長。「金曜日の妻たちへ」など多くのテレビドラマを演出した。
渡辺淳、10月20日没、90歳。フランス文学者。50年代からフランスのレジスタンス文学、思想などを紹介した。映画や演劇の評論活動でも知られた。「パリの世紀末」(中公新書)などパリに関する著作も多い。翻訳も多く、ロラン・バルトやエドガール・モランなどを日本に紹介した。
樋口有介、作家。10月23日没、71歳。那覇の自宅で亡くなっていたのが見つかった。1988年「ぼくと、ぼくらの夏」でサントリーミステリー大賞読者賞を受賞して作家デビュー。「彼女はたぶん魔法を使う」に始まる柚木草平シリーズは創元推理文庫に入っている。「風少女」で直木賞候補。「ピース」は中公文庫で新版が出たばかりだが、一読驚くようなミステリーである。
長谷川健一、10月22日没、68歳。福島県飯館村で酪農を営んでいたが、原発事故で避難を強いられた。原発事故被害者団体連絡会の共同代表を務め、裁判外紛争解決申し立てを求めた申立団の団長を務めた。
仲條正義、10月26日没、88歳。グラフィック・デザイナー。芸大卒業後資生堂に勤めたが、61年に独立して仲條デザイン事務所を設立した。資生堂の企業文化誌「花椿」のアートディレクターを務めた他、「暮しの手帖」の表紙イラストも担当した。他にも松屋銀座、東京都現代美術館、日光江戸村などロゴ・デザインを担当した。

 最後に死刑囚、高橋和利が10月8日に死亡したことを書いておきたい。87歳。誤嚥性肺炎で5月から入院中だったという。この訃報を新聞は小さく報じたが、どこも「鶴見事件」と呼ばれる冤罪主張事件だったことを伝えないのは何故だろう。大河内秀明弁護士による「無実でも死刑、真犯人はどこに」という本もある。救援会のホームページもあって、「鶴見事件について」がある。マスコミは少なくとも無実を主張し再審請求中だったというぐらいは報じるべきだ。
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中根千枝、森山真弓、坪井直、副田義也等ー2021年10月の訃報②

2021年11月06日 22時09分40秒 | 追悼
 社会人類学者中根千枝が10月12日に死去、94歳。講談社現代新書の「タテ社会の人間関係」(1967)がベストセラーになって名前を知られた。この人の肩書きを「社会人類学者」ではなく、「東大名誉教授」と書くような、人間を業績ではなく「どのような場に属しているか」で判別する社会が「タテ社会」になる。日本の労働組合が会社ごとに作られるのを見ても、現在も日本社会の基本システムであり、今回の衆院選理解の鍵でもある。今読むとそんなに面白くもないと思うけど、日本を考えるときの基本文献ではある。人類学者として日本の農村を調査した後、ヨーロッパ各地やインドなどの調査を続けた。中根氏には「女性初の」が付きまとった。女性初の東大教授であり、学士院会員であり、学術系の文化勲章受章者。
(中根千枝)
 「女性初」つながりで、女性初(にして唯一)の内閣官房長官を務めた森山真弓が10月14日に死去、93歳。中根千枝は津田塾専門学校卒業、東大法学部入学の同期になる。東大在学中に政治家の森山欽司と結婚。1950年卒業とともに労働省に入省、女性官僚の草分けとなった。夫は運輸相などを務め、労働、教育などでタカ派として知られた。妻の真弓も1980年に参議院議員に転身、夫は政界入りに消極的だったというが、結局参院3回、衆院4回の当選を重ねた。1989年海部内閣で環境庁長官として入閣、山下徳夫がスキャンダルで辞任した後に官房長官に横すべりした。その後も宮澤内閣で文部相、小泉内閣で法相を務めた。2009年総選挙に立候補せず引退。
(森山真弓)
 政治家では鹿野道彦が10月21日に死去、79歳。森山真弓が官房長官を務めていた1989年~1990年に農水相を務めていた。その後の政界再編で自民党を離党、「新党みらい」を経て新進党に合流。党首選で小沢一郎と争ったこともある。新進党解党後、「国民の声」を経て民政党で幹事長に就任。後に野党が結集して民主党に参加、国対委員長を務めた。選挙では山形1区で遠藤利明(現選対委員長、元五輪相)とし烈な争いを繰り広げ、3勝3敗になっている。2005年には比例でも当選出来なかったが、2009年に当選。民主党政権の菅、野田内閣で21年ぶりに再び農水相を務めた。民主党内閣では安定した行政能力を買われ、ポスト菅の代表選にも立候補した。
(鹿野道彦)
 長年被爆者の先頭にたって核廃絶を訴えた坪井直(つぼい・すなお)が10月24日に死去、96歳。2000年から日本被爆者団体協議会(被団協)代表委員を務めていた。広島工業専門学校在学中に爆心から1.2キロ地点で被爆して大やけどを負った。(その時の様子がたまたま中国新聞カメラマンによってとらえられていた。)その後、中学の数学教員となり、被爆体験を語り続けた。校長を経て1986年に定年退職。その後、世界に非核を訴える活動に積極的に取り組み、アメリカやフランスなどにも出掛けた。2016年、オバマ米大統領(当時)の広島訪問時に対面して握手を交わしたことで知られる。2018年、広島市名誉市民。
(坪井直)
 社会学者の副田義也(そえだ・よしや)が10月8日に死去、86歳。社会事業や社会福祉の研究者として「生活保護制度の社会史」や「福祉社会学宣言」などの著書がある。しかし、それ以上に有名なのは漫画評論家としての活動で、漫画研究の本がいくつもある。もともと作家を志向していて、小説「闘牛」で開高健や大江健三郎とともに1958年1月期の芥川賞候補となった。(開高が受賞。)晩年には交通遺児などを支援する「あしなが育英会」を熱心に支援して「あしなが運動と玉井義臣 歴史社会学的考察」(岩波書店、2003)を書いた。この本は政治家と官僚がいかに民間のボランティア的活動を妨害してきたかの歴史的証言として必読である。教員としては日本社会事業大、東京女子大、筑波大、金城学院大に勤務した。
(左=副田義也、右=あしなが育英会の玉井義臣)
 東映の社長、会長を務めた高岩淡(たかいわ・たん)が10月28日に死去、90歳。東映京撮所長として太秦映画村を開業したことで知られる。母親と前夫との子、つまり異父兄が作家の檀一雄で、そのつながりで東映で壇の代表作「火宅の人」を映画化した。また姪にあたる檀ふみも東映で映画デビューをしている。企画、製作作品には「柳生一族の陰謀」「野菊の墓」「鉄道員(ぽっぽや)」「金融腐食列島 呪縛」など多数。
(高岩淡)
 ピアニストの神谷郁代(かみや・いくよ)が10月6日に死去、75歳。桐朋学園高校卒業後に、毎日音楽コンクール優勝、ドイツに留学してエリザベート王妃国際音楽コンクールで6位入賞。ヨーロッパ各地で演奏活動を展開した。古典から現代音楽まで手掛けたが、特にベートーヴェンで知られた。
(神谷郁代) 
 日本のその他の訃報は、外国人の訃報と合せて3回目にまとめる。
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柳家小三治、白土三平、山本文緒等ー2021年10月の訃報①

2021年11月05日 22時53分17秒 | 追悼
 毎月書いている訃報特集、2021年10月は後半に重要な訃報が相次いだので、3回に分ける。最初は日本の芸術・芸能関係の大きな訃報から。落語家の柳家小三治が10月7日に死去、81歳。遠からず小三治師匠の訃報を聞くことになるだろうと思って、僕はここ数年もう一回聞きたいと思っていたのだが、適わなかった。何度か入院していたけど、そのたびに復帰して今後の落語会も予定されていたのだが…。僕は小三治を何度も聞いているけれど、ファンというほどでもなかった。僕が落語をよく聞くようになったのは、20世紀の終わり頃からだった。その時点では小三治はもう大師匠で、飄飄としたといわれる芸風が確立され近寄りにくい感があった。
(柳家小三治)
 1959年に5代目柳家小さんに入門、東京の落語家で人間国宝に指定されたのは、この師弟だけである。1969年に17人抜きの抜てきで真打昇進、10代目小三治となった。多分この頃が一番面白かったのだと思う。多趣味で知られ、バイク、スキー、クラシック音楽、俳句などが有名。句会で長く付き合った小沢昭一を新宿末廣亭夜の部のトリに招いたこともあった。映画「小三治」というドキュメンタリーもあるが、柳町光男監督「カミュなんて知らない」では池袋にあった実在の蕎麦屋「ここのつ」の店主を演じていた。落語に入る前の「まくら」に味があると評判で、それだけで本になっている。2010年から14年に落語協会会長。

 漫画家の白土三平が10月8日に死去、89歳。父親のプロレタリア画家・岡本唐貴の影響で美術を学び、戦後に紙芝居、貸本漫画に進んだ。貸本時代に長大な「忍者武芸帳」を長井勝一が経営した三洋社から刊行した。続いて長井が青林堂を設立し、創刊された「ガロ」に「カムイ伝」の連載を始めた。戦後漫画史の神話時代である。当時大衆小説や映画、テレビなどで忍者ブームが起こっていたが、白戸漫画では忍術に科学的説明が付き、被差別者としての忍者が描かれた。僕は若い頃に「忍者武芸帳」を漫画文庫で読んだけれど、「カムイ伝」は読んでない。四方田犬彦の長大な「白戸三平論」は面白かった。大島渚監督「忍者武芸帳」を見ると、現在の中世史では疑問が多いと思いつつ、信長政権に抵抗を続ける革命的ロマンティシズムに励まされる思いがする。
(白土三平)
 一番驚いたのが作家の山本文緒の訃報だった。10月13日、58歳。少女小説家としてデビューして、やがて一般向けの小説を書き始めた。次第に評判になっていったが、中でも「恋愛中毒」(1998)でブレイクし、「プラナリア」(2000)で直木賞を受賞した。これらは実に恐ろしい小説で、人間の心の怖い部分をグイグイと明るみに出す。2003年にうつ病で作家を休業したが、その報に意外感を持たなかったのも事実だ。その後エッセイで復帰し、昨年(2020年)刊行された「自転しながら公転する」が評判になり、島清恋愛文学賞、中央公論文芸賞を受賞した。これから本格的に活躍するのかと思った矢先、膵臓ガンで亡くなった。大変残念なことだった。
(山本文緒)
 舞踊家、バレエ指導者の牧阿佐美が10月20日に死去、87歳。今年の文化勲章受章者だが、没後の追贈ではない。決定後に死去したということになる。日本の伝説的バレリーナ橘秋子の娘で、幼少時期からバレエを学んだ。1956年に母とともに牧阿佐美バレエ団を創設し、草刈民代などを育てた。1999年から新国立劇場のバレエ団を率いた。僕はバレエのことはよく判らないのでこのぐらいで。
(牧阿佐美、「徹子の部屋」に出演時)
 作曲家のすぎやまこういち(椙山浩一)が9月30日に死去、90歳。「ドラゴンクエスト」などゲーム音楽の作曲で知られた。というよりザ・タイガース「花の首飾り」「モナリザの微笑」、ヴィレッジ・シンガーズ「亜麻色の髪の乙女」、ガロの「学生街の喫茶店」などの作曲がこの人なのである。しかし、晩年はすっかり歴史修正主義者としての活動が目立った。安倍政権の熱烈な支持者でもあり、右派系の政治家に多額の政治献金を行ってきた。まあ思想信条は自由ではあるけれど、どうなってるんだろうと思わないでもない。(子どもも親しむゲームの作曲家があまりにも政治的であるのはどうなのかという意味。自分の金をどう使うかは自由だが。)
(すぎやまこういち)
 まだ続くのだが、一端ここで終わって次回に続けたい。
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映画「蟻の街のマリア」と北原怜子

2021年11月04日 23時12分09秒 |  〃  (旧作日本映画)
 古い映画のことは書かないつもりだったが、ちょっと題材を紹介したくなって「蟻の街のマリア」について書いておこうと思う。五所平之助監督の1958年松竹映画で、国立映画アーカイブの五所監督特集で見た。この映画のことは長いこと見たいと思っていたが、ほとんど上映機会がなかった。当時有名だった実話の映画化で、東京のスラム街「蟻の街」に住み着いて子どもたちとともに暮らしたクリスチャン女性北原怜子(さとこ)の物語である。

 若くして亡くなった北原怜子は、昔の子ども雑誌の定番エピソードだった。「小学○年生」といった雑誌を多くの家庭で購読していた時代、「蟻の街のマリア」の美談はよく取り上げられていた。そしてそういう記事には決まって「映画にもなった」と書いてあったけれど、名画座などでこの映画の上映はまずなかった。近年になって地元で語り継ぐ機運が出て来て、新聞記事で紹介されたりした。そういう時に映画の上映会が企画されたようだが、映画としてはほとんど忘れられてきたと思う。

 明治の東京で「三大貧民窟」と言われたのは、下谷万年町、芝新網町、四谷鮫ケ橋だった。横山源之助日本の下層社会」(岩波文庫)に詳しいが、今では地名も変わって面影はどこにもない。戦後には「蟻の街」というスラムがあったわけだが、それがどこだか今では判らない。高度成長時代を過ぎた日本では町ごと貧民が集住することはなくなった。どこの町にも古びたアパートが残っているけれど、駅前に行けばそれなりに栄えているのが今の日本である。だからかつて東京にもあったスラム街の記憶は全く残されていない。

 この映画の舞台となった「蟻の街」は隅田川に掛かる言問橋の台東区側にあった。冒頭は隅田川のロケだが、遠くに浅草松屋ビルが見える。その間に大きな建物がないので、間近に見えるのが新鮮。そこから「蟻の街」の住民紹介になる。ここは「バタヤ」と呼ばれていた。廃品回収業者、まあ俗に言う「屑屋」である。自分たちは貧しいが、働いて自活しているという意識を持っている。ある雨の日、そこへ見知らぬ若い女性が訪ねてきて、子どもたちのお世話をしたいと言う。もちろん「蟻の街」はセットで作られたものである。

 ここには「会長」がいて、会長じゃないと判らないと言われる。初めはお嬢さんが来るところではない、偽善だ、宗教の押し売りではないかなどという受け取り方が多い。しかし、一生懸命に子どもたちの相手をしているうちに、学校でもいじめられて勉強も出来ない子どもたちが懐いていく。実際に北原怜子が蟻の街を訪れたのは1950年だったという。それにはゼノ修道士の存在が大きかった。ゼノは有名なコルベ神父(アウシュヴィッツで身代わりになったことで知られるポーランドの神父。聖人となっている)などとともに日本に布教に来たポーランド人で、長崎で被爆していた。この頃は蟻の街にカトリック教会を建てようとしていたのである。
(実際の北原怜子と子どもたち)
 一緒に勉強し、一緒に歌を歌いながら、やがて北原怜子は気付いた。作文や歌に出て来る海や山を言葉では知っているが、子どもたちは実際には見たことがないのである。じゃあバス旅行に行こうと言いだして、そのお金を自分たちで稼ごうとする。自ら町に出て廃品回収に汗を流し、父の紹介でお金になる空き缶を大量に貰えた。そして念願の箱根旅行で、子どもたちは芦ノ湖や大涌谷、小田原の海を見て感激する。見る前から判る展開ではあるけれど、やはり心が洗われるような感動的なシーンだ。

 その後、奉仕活動の無理が積み重なった北原怜子は、肺結核に倒れ療養せざるを得なくなる。その頃東京都は蟻の街の住民に移住を強く迫っていた。もともと都有地の不法占拠だというのである。他のスラムも撤去しているという。警察が来て測量したりもする。街に住み着いて「先生」と呼ばれている医者が、住民代表で都と交渉するがなかなか打開策がない。療養から戻って蟻の街に住み込んでいた北原は、子どもたちの作文集を託し、これを都の人にも読んで欲しいという。そして都が譲歩したことを聞いて、北原怜子は亡くなる。

 映画では23歳で亡くなったと言うが、実際には1929年に生まれ、1958年に亡くなった北原怜子は29歳だった。映画で演じたのは千之赫子(ちの・かくこ、1934~1985)で宝塚退団後の映画デビュー作である。今では知らない人が多いと思うが、60年前後の松竹映画に出ている。僕も知らなかったのが、東映の時代劇俳優として人気があった東千代之介と見合い結婚したとウィキペディアに出ていた。金八先生などにも出ていたが、ぜんそくが悪化して51歳で亡くなった。僕がすぐ思い出すのは、大島渚監督のデビュー作「愛と希望の街」である。鳩を売る少年の担任教師を演じ、強い印象を残している。
(「愛と希望の町」の千之赫子)
 五所平之助監督は戦前から松竹を代表する監督の一人で、最初のトーキー(発声映画)「マダムと女房」や「伊豆の踊子」の一番最初の映画化(田中絹代主演)などで知られた。戦後に作られた「煙突の見える場所」が代表作。その他「大阪の宿」など佳作がたくさんある。「蟻の街のマリア」は映画としては特に傑出した映画とは言えない。どうしても「美談」の映像化という枠を越えられないのはやむを得ない。しかし戦後東京史の忘れられたエピソードとして、「戦後」という時代を知る大切な映画だと思う。

 タイで活躍し「スラムの天使」と呼ばれたプラティーム・ウンソンタムさんが来日した時に講演を聞きに行ったことがある。マザー・テレサと一緒だったが、僕はプラティームさんの方をより聞きたかったのである。クリスチャンではないけれど、こういう自己奉仕と子どもたちの映画は何だか心の琴線に触れるところがあるなあと思った。11月13日(土)18時からもう一回上映がある。(国立映画アーカイブ。当日券はなく、すべてチケットぴあでの前売指定席のみ。)
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映画「草の響き」、佐藤泰志原作5度目の映画化

2021年11月03日 22時30分14秒 | 映画 (新作日本映画)
 選挙関係で「後で書く」と書いた問題が幾つもあるが、それはもっと後に回す。最近は昔の映画を見ることが多く、シネマヴェーラ渋谷の「神話的女優」特集で「カサブランカ」を何十年ぶりに見られた。イングリッド・バーグマンの絶頂期だなあと見つめるしかない。国立映画アーカイブの五所平之助監督特集もちょっと見てる。しかし、そういう古い映画ではなく新作。映画「草の響き」について上映が終わる前に書いておきたい。

 「草の響き」は1990年に自ら命を絶った作家、佐藤泰志の5度目の映画化作品である。函館出身の佐藤に関しては、再評価、映画化によって文庫で再刊されるようになった。それを読んで「佐藤泰志の小説を読む」(2016.10.5)を書いた。「草の響き」って小説があったっけと思ったが、「君の鳥はうたえる」(河出文庫)に収録されていた。今までの映画化には「海炭市叙景」「そこのみにて光輝く」「オーバー・フェンス」「君の鳥はうたえる」がある。いずれも僕の好きな映画だが、函館オール・ロケの映画になっている。

 原作を読めば判るけれど、函館出身だけど函館を書いた作品は少ない。実は東京に住んで70年代の中央線沿線を舞台にする作品の方が多い。「君の鳥はうたえる」「草の響き」の原作は函館が舞台ではないのだが、それを函館に移して映画化している。そういうやり方があったかという感じ。原作は映画向きとは思えないが、それを膨らませている。現代の若者たちも登場させて、作品世界を広げた。しかし、基本は主人公と妻と友人。この3人という構図が佐藤作品には多い。映画「君の鳥はうたえる」ではそれが柄本佑染谷将太石橋静河だった。「草の響き」では東出昌大(工藤和雄)、奈緒(工藤純子)、大東駿介(佐久間研二)である。

 キャストを見て判るように、この映画では和雄の存在感が大きい。原作は主人公のモノローグだというが、自律神経失調症と診断されて、運動療法としてひたすら走る男の物語である。東出昌大はやっぱり大した役者だなあという感じで、現実世界とズレてしまった男を演じている。もともと東京で働いていて、病気になって妻と帰ってきたという設定。妻はやがて妊娠し友人もいない街で心細いが、和雄の病状は一進一退。走ることには熱中し、ほとんど自己目的化している感じ。夫婦がともに暮らしていくのは難しいことも多い。東京で編集者として働いていた男が、どうして心の失調に悩むようになったのか。そこら辺は詳しくは語られないが、函館の風景をうまくいかして、心にしみ入る映像になっている。
(走る和雄)
 いつも走っている海近くの公園では、高校生3人が遊んでいる。スケボーを教え合ったり、花火を打ち上げたり。この3人が男2人、女1人なので、和雄たち3人の過去がインサートされているのかと最初は思ってしまったが、そうではなかった。現在を同時に行きている若者たちで、その証拠に男子2人はやがて和雄と一緒に走り始める。この走る療法は佐藤泰志の実体験らしい。「自律神経失調症」と診断されているが、うつ病みたいな感じもする。もともと症状的には似ているが、僕には違いがよく判らない。
(妻役の奈緒)
 監督は斎藤久志、脚本は加瀬仁美、撮影は石井勲だが、僕はよく知らないがなかなか達者な仕事ぶりだと思った。妻役の奈緒は最近いろいろと出ているが、映画「先生、私の隣に座っていただけませんか?」の漫画誌編集者より、こっちの方が良かった。3人の若者の一人、彰という役をやってるKayaはやけにスケボーがうまいと思ったら、実際のスケーターだという。函館と言っても、朝市や市電は出て来ない。奈緒は函館山ロープウェーで働いている設定らしいが、他は一切観光地らしい風景が出て来ない。港町の中にある日常の町並みが興味深い。
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比例票に見る各政党の勢力ー2021衆院選②

2021年11月02日 22時47分39秒 |  〃  (選挙)
 毎回書いている比例区票の点検作業。2005年衆院選から2019年参院選までは「比例区票の時系列的検討ー2019参院選②」(2019.7.23)に書いたので、今回は時系列点検は止める。面倒な上に、要するに17年衆院選、19年参院選との変化を中心に見れば良いだろうと思うからだ。それ以前は折に触れて数字を振り返る。

 その前に今回の投票率を見てみたい。今回の投票率は55.93%で戦後で3番目に低い。しかし、一番低い2014年、2番目に低い2017年に比べて見れば上がっている。昔を振り返ると、大平内閣の1979年衆院選では台風と重なって68.01%と、その前の75年より5%も下がって自民党が激減した。その後で大平・福田の有名な「40日抗争」が起こり自民党が真っ二つに割れた。しかし、今になってみると昔はずいぶん高かったんだなと思う。最近60%後半になったのは、2005年、2009年だけ。しばらく、あるいは二度とないのではないか。

 今回は自分はあまり盛り上がりを感じなかったのだが、それも道理で自分の選挙区(東京13区)は50.88%で、東京で一番低かった。東京で一番高いのは東京8区の61.03%。ここは立民の吉田晴美が石原伸晃を破ったところで、その他にも東京5区、東京6区、東京19区など、立民・共産の選挙協力が行われて自民を破った選挙区はいずれも60%に達した。立憲民主と共産の協力は(全国的な評価は別にして)、東京では選挙の盛り上がりをもたらし、野党の勝利に結びついたと言えるのではないか。

 今回の比例区の総得票数は5746万5978票だった。全国の有権者総数は約1億500万人なので、1%違うと100万人ほど違ってくる。17年衆院選は5575万票で、19年参院選は5007万票ほどだった。つまり、前回衆院選より2.2%ほど投票率が高かったので、その分200万票近くが増えている。

 では各党を順番に見てみる。まずは与党から。自民党は今回比例区で1991万票を得た。約2千万票で、全体の34.66%になる。16年参院選からの票数は、2011万→1856万→1711万となっている。2005年の小泉郵政選挙の2500万票越えには及ばないが、今回は非常に支持が厚かったのである。菅内閣時には確かに内閣支持率が下がったが、政党支持率はずっと堅調だった。比例区の投票先を聞く調査でも、圧倒的に野党を引き離していた。それは何故なのかこそ、野党は厳しく問う必要がある。
(開票中の岸田首相)
 公明党711万4千票ほど。16年参院選から振り返ると、753万→698万→654万と減り続けていた。かつては800万票を越えていた時もあるが、次第に落ちていたのは創価学会や協力する自民党支持団体などが高齢化して、昔ほどの集票力がなくなったなどと言われる。今回は1年半続くコロナ禍の中で、きめ細かな集会などが開けない中、票の出方が注目されたが、結果的には5年ぶりに700万票を回復した。今回自公が勝利したのは、今までの世論調査を素直に見れば納得の結果である。選挙制度やマスコミのあり方には問題があるが、それはともかく全国で自民党、公明党と書いた有権者が多かったという事実の上に選挙結果がある。

 次は野党を見る。立憲民主党は1149万2千票ほどなので、およそ1150万票である。17年衆院選は1108万、19年参院選は792万だった。17年は希望の党が968万票ほどあった。その時に当選した議員は国民民主を中心に、自民、維新などに分かれている。だから全部は来ないわけだが、それにしても4年間に前回無所属や希望、前回衆院選は小沢一郎らは「生活の党と山本太郎と仲間たち」という党だったのだが、まとまって大きくなったはずが42万票しか増えていない。結果的にそれが議席を減らす最大要因になったと言える。前回の比例当選が37名、今回が39名なので、前職議員が増加した分に見合わなかった。「比例は共産」「比例はれいわ」などと言ってた激戦区もあったらしいからそういう影響もあったかも。
(辞意を表明する立民の枝野代表)
 国民民主党を先に見ると、259万票ほど。今回善戦したイメージもあるが、19年参院選は348万票だったから、減らしている。参院選より投票率が高く票数が700万も多くなったのに、300万票も行ってない。前回の参院選では3人しか当選出来ず、労組の擁立議員も落選した。このままでは2人当選も危なく、連合も立民を批判するだけではなく、国民民主党もこのままでいいのか、しっかりと検証するべきだろう。

 共産党は今回416万6千票ほどで、9議席だった。16年参院選から見ると、602万→440万→448万となっていて、600万票から大分減っている。前回は比例区で11議席だから、32万票減らして2議席減らした。今の法律では小選挙区に出ないと選挙運動がやりにくい。今回は相当に候補を取り下げた影響からか、比例区の票も減らしてしまった。協力先の立憲民主党も減らしたんだから、何のためにわざわざ自党の候補を取り下げて協力したのかと党内でちゃんと議論しなければおかしい。

 れいわ新選組221万票で、3議席を獲得した。東海ブロックで1議席を確保したが(小選挙区の得票が少なかったため)、当選にならなかった。事実上は4議席獲得と同じである。しかし、19年参院選では228万票だから、実は減らしている。まあ衆院選では中国、四国や北海道、北陸信越など定数が少ないブロックがある。そういうところでは小政党に入れても当選可能性がないため、小党の場合は全国1区の参院選の方が集票しやすい。それにしても、山本太郎を当選させるという目的を果たした後で、22年参院選ではどうなるのか。

 社民党は101万票だったが、どのブロックでも当選者を出せなかった。だが、実は17年衆院選の94万より増えている。19年参院選は105万で1議席。2022年は福島みずほの改選なので、1議席を獲得できる可能性はある。意外なことに社民党はなくなってしまうのではないかというほど減らしていないのである。

 さて、問題の「維新」だが、比例票は805万だった。25議席獲得。17年衆院選は339万、19年参院選は491万なので、倍増とまでは行かないがそれに近い。かつて「みんなの党」が2010年参院選に794万票を獲得したことがあるが、かつての公明、共産以外に全国で800万票を超えた第3党はないと思う。どこから出て来た票かよく判らないけれど、立民、共産、社民は前回衆院選と大きく違わない以上、前回1000万票近かった「希望の党」から国民民主と維新増加分が出て来たということではないか。
(激増した「維新」)
 こうして見ていくと、自民、公明が支持されたという大きな傾向が見える。マスコミはいろんな政策を言うが、「憲法改正」とか「選択的夫婦別姓」などを重視する人は、もう与野党どっち側に入れるかは判断済みだろう。「共産党の協力」などを重視する有権者もいるだろうけど、実際にはそんなに多くはないと思う。僕はコロナ禍の苦難に対して「大型経済対策」「子どもに10万円」と言った与党が支持されたのではないかと思っている。参院でも多数を持ってるからすぐに実行できる。それに対し「消費是減税」を言う野党は実現可能性が疑わしい上に、実現しても小売り業には面倒。いずれ戻すときも大変だしと思われ、政策として練れていなかったと思う。路線問題より、経済政策で与党が勝ったのではないか。
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与党が絶対安定多数を確保した選挙ー2021衆院選①

2021年11月01日 23時10分18秒 |  〃  (選挙)
 2021年10月31日に衆議院選挙が行われた。岸田首相は「与党で過半数」が目標と言っていたが、まあそれは「衆院選は政権選択選挙だから」という建前である。自民党の公示前勢力は276人、前回の当選者は284人なのだが、前回は「希望の党」をめぐるゴタゴタがあって自民は出来すぎとも言える。今回は事前予想では自民単独では過半数が難しいという報道(読売等)もあって、単独過半数(233)は何とか越えて、出来れば絶対安定多数(261)に迫りたいというあたりがホンネの数字だった。

 フタを明けてみれば、自民党は追加公認二人を加えて261議席と絶対安定多数を確保した。NHKの選挙速報が始まった時点では、210~250台後半という幅がある数字だった。当初は「単独過半数が焦点」かと思われたのである。ところが公明党32人を加えて、自公で293人と与党が圧勝した。もっとも小選挙区ではし烈な激戦区が多く、なかなか決着が付かなかった。午前1時を過ぎても決まってない小選挙区が幾つかあった。
(総選挙の結果)
 立憲民主党共産党を中心に選挙協力が行われたが、両党ともに議席を減らした。立民の枝野代表も、共産の志位委員長も、協力には「一定の成果があった」と言っている。しかし、それは裏を返せば「一定の成果しかなかった」=「大きな成果には結びつかなかった」ということでもある。その問題は別に考えたいが、東京8区(石原伸晃落選)や神奈川13区(甘利明が小選挙区で落選)は野党の選挙協力なくしてはありえなかった。その結果甘利幹事長は辞任した。自民党の権力構造に影響を与えたのは間違いない。
(甘利幹事長が辞意)
 それにしても立憲民主党は公示前勢力110人を大きく割り込んで、96人当選と100人に達しなかった。小選挙区は全289区の中で57議席、比例区は39議席と前回の37議席とあまり変わらない。比例での復活当選が少ないので、次回の期待も難しい。比例区は全176議席中、自民が72議席公明が23議席と合計で95議席も獲得している。だから「小選挙区制度だから勝てない」と野党支持者が言うのは間違いだ。選挙制度を比例中心に変えても、負けるのである。それは何故か、じっくりと検討する必要がある。
(落選した石原伸晃)
 共産党は10議席(公示前12)、国民民主党は11議席(公示前8)、れいわ新選組は3(公示前1とあるが、これは立民から除籍された高井崇志が滋賀3区から出たものなので、実質は公示前ゼロ)、社会民主党は沖縄の小選挙区を守って1議席である。これらは小政党なので、はっきり勝った負けたと言いにくい部分がある。はっきりしているのは「立憲民主党は敗北」で、「日本維新の会」が大勝利ということだろう。

 「維新」は小選挙区で16、比例区で25、合計で41議席も獲得して、一躍第3党になった。もっとも2012年に「大阪維新の会」が国政進出に当たって「立ちあがれ日本」と合同した「日本維新の会」というのがあって、56議席を獲得したこともあったが。(なお、旧「維新の会」は石原慎太郎と橋下徹が共同代表を務めていた。)その後、いろんな経緯があって、維新にも浮き沈みがあって前回は小選挙区で3(うち1つは丸山穗高)、比例で8の計11議席だった。しかし、今回は大坂の小選挙区では公明党が出ている4つを除く15議席も当選した。

 それは何故なんだろう。今回は比例代表区で東京、北関東、南関東、東海では2議席、九州と北陸信越でも1議席と関西ローカル政党という範囲を超えつつある。特にビックリしたのが東京12区。ここは東京唯一の公明党擁立区で、広く名前が浸透していた太田昭宏が引退して、比例北関東から当選3回の現職岡本三成が立候補した。一方で立民も出ずに、共産党元議員の池内沙織が出ている。池内は毎回立候補しているので名前も通っている。朝日新聞26日付の情勢報道では「岡本と池内が互角」と出ている。「維新新顔の阿部司が懸命に追う」とある。

 開票結果を見てみると、以下の通り。
  岡本三成 101,020
  阿部 司  80,323
  池内沙織  71,948
 どこが「互角」なんだと思うが、実は最終盤に吉村洋文大阪府知事が東京12区に入って、かなり密着して細かく回ったという。その結果、無党派の池内票を引き剥がしたのだと思う。前回2017年は太田票が11万2千票なので、実は1万票以上減らした。池内は8万3千票だったから、こちらも1万1千票も減らしたのである。他の選挙区ではこんなに違っているところはない。調査時点では確かに岡本、池内互角に近い結果だったのだろう。吉村効果が東京でも出るのである。反自公だけど、共産じゃない票がやはりあるのだ。

 この「維新」をどう考えるのかも、また別に考えたい。他に無所属で10人(自民党追加公認2人を除く)が当選した。与党系が3人、野党系が6人、他1人ではないかと思う。与党系は静岡5区の細野豪志、岡山3区の平沼正二郎、熊本2区の西野太亮の3人。平沼は平沼赳夫の次男。西野は野田毅を破った。どっちも自民公認が得られないが保守系。細野も今さら野党系には戻れないけど、岸田派の自民党吉川赳も比例区で当選したから、自民党に入るのも大変だ。どうするんだか知らないけど、首班指名では岸田と書くのは間違いない。

 野党系はあえて政党公認なしで退路を断って臨んだ人が多い。茨城1区の福島伸享、新潟5区の米山隆一、京都4区の北神圭朗、福岡9区の緒方林太郎、大分1区の吉良州司の5人で米山以外はかつての民主党議員である。もう一人鹿児島2区の三反園訓(みたぞの・さとし)がいる。非自民系の支持で知事に当選したが、任期中に自民に近づき2期目を目指す選挙は自民の推薦を得ながら落選した。しかし、今回は自民党前議員がいる選挙区で出馬して当選した。首班指名でどうするんだか、僕には判らない。

 今回の結果については、概ね朝日新聞の情勢報道に合っていた。朝日は近年下限と上限を示しているが、自民党は251~279、立憲民主党は94~120になっていた。自民は真ん中に近いが、立民は下限に近い。公明25~37、国民民主8~12、共産9~21だから、どの党も合っているが、共産は下限に近い。一方で維新は25~36なので、上限を突破している。朝日予測は野党に厳しく、逆に読売予測は与党に厳しかった。普段の支持傾向と逆なんだけど、もちろんわざとしたわけではないだろう。読売は投票率を高く見積もりすぎたのかと思う。立民、共産も予測範囲内だったが、予測の一番下に近かった。それは最終盤になって維新に予想以上に取られたということ以外に考えられないと思う。

 なお、書く気にはならなかったが、自民党の堅調は予測しないでもなかった。首都圏では無党派が多く、共産党や公明党関係の人も多いから、選挙協力にもあまり違和感がない。だから立共協力がある程度成果を挙げそうなムードも間違いなくあったと思う。だがそれだけで日本全体を判断してはいけない。愛知県の立憲民主はトヨタの選挙撤退で大きく減らした。また選挙直前にあった北と南の出来事は僕には暗示的だった。北は北海道旭川市長選で、15年ぶりに自民系市長が誕生した。士別市長選でも自民系が勝った。それを受け衆院選でも立民が持っていた議席を立民から立った前旭川市長が守れなかった。

 南では沖縄で「オール沖縄」勢力にほころびが生じ、地元資本の金秀グループが抜けた。その結果もあってか、沖縄の4選挙区の内、半分で自民党が勝利した。負けたのは3区と4区で、どちらも立憲民主党だった。比例区でも復活できず、「オール沖縄」の打撃は大きい。北と南で別々に起こった問題だが、各地方では立憲民主党が難しい情勢にあることを何となく予感させる出来事だった。単に直前に岸田内閣に衣替えして有権者の目をそらしたというだけの問題ではない。
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