唐沢商会の「脳天気教養図鑑」で漱石の「夢十夜」のうち第三夜を枕にして、世の中で四番目か五番目くらいに困るのが、「みた夢の話を聞かせたがる奴」という説が展開されている。
困る理由というのが、論理性がないからスジをつかむのにやたら骨が折れる、細部にこだわっていつ果てるとも知れない、第一、夢というのは極端に個人的なものだから他人にはおよそ関心が持てない、とある。
興味が持てるようにするには、特に個人的なところをいったん濾過して他人にも通じるような表現に翻訳する必要がある、ということだろう。
第一夜でサラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」が使われているが、とうぜん漱石の弟子の内田百の「サラサーテの盤」(映画「ツィゴイネルワイゼン」の原作)を意識してのものだろう。
百の「旅順入城式」「冥土」などの作品は、その夢のリアリティを言葉が体言した極地みたいなものだ。
さて、ここでの夢の映像化というのが、ほとんど夢の持つ突拍子もなさ、制限のなさにばかり賭けていて、それが他人に伝わるような組み立てというのがまるでない。全然わからない外国語、というより他人には意味の通じようがない寝言を聞かされているようなもので、しかも「細部にこだわっていつ果てるともしれない」ものだからたまらない。
十夜それぞれの監督にはそれなりの才能はあるわけだろうけれど、おおかたは何事かを表現するための才能ではなくて才能があることを証明するため突飛で奇矯で「個性的」なイメージを見せる工夫ばかり並べられるような自家中毒を見せられるわけだから、見ていて苦痛だった。
多少とも人に伝えるための組み立てが感じられるのは、寺山修司がかっているが思い出されるのではなく作られる過去というモチーフが割とはっきり見える第四夜くらい。
(☆☆★)
第十夜で使われたミニチュアです。