潜水艦=メカと超能力美少女というアニメの黄金の二本柱を実写+CGに移植した作り。過去を舞台にしたSFみたいで、ただし考証上のリアリティ以上のレトロ趣味はあまりなく(メカや昔の風俗考証にうるさい人はそれぞれ意見があるだろうが)、SF式思考実験といったニュアンスがけっこう濃い。
日本で戦争ものを作ると、何しろ負けているものだから戦前までの日本はすべて間違っていたと決め付けるか、戦後民主主義が行き詰って問題が噴出しているのは戦前を否定したせいだとむきになって名誉回復あるいは美化を図るかで、実は同じコインの裏表。
「現在」から「過去」を振り返って「敗戦」「占領」という動かせない事実から逆算するから、解釈の押し付け合いになり、あとは情報の物量戦が待っているだけで、論理的な発展はそういう二項対立からは生まれようがない。
敗戦と占領は絶対的な結論でもくびきでもなく、悲劇的であっても歴史上の通過点にすぎない、といった自由なセンスが、ここでのおおもとに感じられる。
堤真一が現代人を代弁するように戦後日本の醜悪さを論難して、そんな根っこは滅ぼしてしまえと東京に原爆を落とさせようとするわけだが、引用されている「罪と罰」のラスコリニコフのようにそういう「醜悪さ」というのは当人のルサンチマンの投影に過ぎず、まず結論ありきでいくら解釈を重ねても、論理的に必ず行き詰まり破綻する。ラスコリニコフが自分を殺したいと思っていたという堤の解釈には首を傾げたくなるが、堤自身はそうだったということだろう。
「死」を「生」の結論とし、よく生きることはいかに美しく死ぬかだと押し付ける、という考えだと生きることは限りなく矮小化される。戦前の日本、特にここに出てくる人間魚雷回天などその典型だろう。
まずよく生きることが先にあり、死は当然生きている間には体験できない何者で、規定することはできないと物の見方を編み直す、まず結論ありきのニセの論理から脱却するのが必要だと思う。
ここでのローレライとは人間の能力を機械化した兵器で、もとは歌で船を沈めるライン川の妖精からとっているわけだが、見ようによっては「死」を忘れている間の、つまり生きていること自体の魅惑がそこにあるわけで、自身の役割は死ではなく生に転換させている。
結果、戦争物につきまとう不毛な論戦と窮屈さからずいぶん踏み出している。
CGの戦艦にどうも重量感が足りないといった類の批判はできるだろうが、あまりそういうディテールを云々することには興味を持てない。それだけ、意外なくらい全体像に魅力があった。
(☆☆☆★)