タイトルになっている「桐島」が最初から最期まで出てこない、という作劇なわけだが、その姿を現わさないキャラクターが周囲に人間に一定のプレッシャーや劣等感などを与えているらしいことはわかるけれど、どういう奴なのかといった性格付けがかなり漠然としていて、出てこないなりのキャラクター設定が曖昧。
何でもできる奴、ということになっているらしいけれど、たかが一つの学校内でそう言われてもそれほど威圧感ないぞ。
「レベッカ」みたいに出てこないレベッカが残された人間たちにオブセッションを与え続けているわけでもないし、「ゴドーを待ちながら」みたいな謎を残すわけでもない。
そういう「なんとなく」感が現代の感覚っていう見方もあるかもしれないが、それだと単純にいってあまりおもしろいとは思えない。
神田隆之介扮する映画部が思わずカメラを向けてしまう女の子(橋本愛)に、思い込みとすれ違いを自作自演で演じた後、撮影されていない映画=幻想の中で「復讐」するあたりは、描き方に省略と暗示があっておもしろかった。こういう処理が「桐島」にももっとあってしかるべきだったのではないか。
時間軸がときどきさかのぼって同じ場面が繰り返されるのは、作中言及されるタランティーノの「パルプ・フィクション」風なのかしらないが(本来はキューブリックの「現金に体を張れ」だろう)、別に繰り返されてもさほど視点が変ったり深みを増したりするわけではないので、どうも冗長。
丸の内ルーブルという戦艦級の劇場で大作というわけでもない邦画を見るのは妙な感じ。最近この劇場、必ずしも大作でなくてもかけるのですが。駒不足なのかな。
エンドタイトルで主題歌(高橋優の「陽はまた登る」)を聞いているうちに傑作だったのではないかという気がしてきた。見てすぐダウンロードするのは珍しい。
クライマックスの吹奏楽部が演奏する「ローエングリーン」の
使い方もいい。
(☆☆☆)
本ホームページ
桐島、部活やめるってよ - goo 映画
何でもできる奴、ということになっているらしいけれど、たかが一つの学校内でそう言われてもそれほど威圧感ないぞ。
「レベッカ」みたいに出てこないレベッカが残された人間たちにオブセッションを与え続けているわけでもないし、「ゴドーを待ちながら」みたいな謎を残すわけでもない。
そういう「なんとなく」感が現代の感覚っていう見方もあるかもしれないが、それだと単純にいってあまりおもしろいとは思えない。
神田隆之介扮する映画部が思わずカメラを向けてしまう女の子(橋本愛)に、思い込みとすれ違いを自作自演で演じた後、撮影されていない映画=幻想の中で「復讐」するあたりは、描き方に省略と暗示があっておもしろかった。こういう処理が「桐島」にももっとあってしかるべきだったのではないか。
時間軸がときどきさかのぼって同じ場面が繰り返されるのは、作中言及されるタランティーノの「パルプ・フィクション」風なのかしらないが(本来はキューブリックの「現金に体を張れ」だろう)、別に繰り返されてもさほど視点が変ったり深みを増したりするわけではないので、どうも冗長。
丸の内ルーブルという戦艦級の劇場で大作というわけでもない邦画を見るのは妙な感じ。最近この劇場、必ずしも大作でなくてもかけるのですが。駒不足なのかな。
エンドタイトルで主題歌(高橋優の「陽はまた登る」)を聞いているうちに傑作だったのではないかという気がしてきた。見てすぐダウンロードするのは珍しい。
クライマックスの吹奏楽部が演奏する「ローエングリーン」の
使い方もいい。
(☆☆☆)
本ホームページ
桐島、部活やめるってよ - goo 映画