しかし内容、というよりドラマの骨格は根本的に違い、パロディの類でないのはもちろん、人間の捉え方はむしろ対照的ですらある。
「『マイフェアレディ』は『フランケンシュタイン』と同じ話なんだ」、というセリフがヘプパーン主演の「パリで一緒に」にあったが、人間が他の人間を改造するが、その改造した人間をコントロールしきれなくなり振り回されてしまうという点で同じといえる。
しかし、ここでの長谷川扮する言語学者は別に田舎っぺえ丸出し(上白石萌音の田舎っぽさは貴重ですらある)の女の子を舞妓に仕立てはするが、勝手に「改造」するわけではまったくないし、何よりヒロインに舞妓になりたいという強固な決心があってそこに乗るのにすぎないのが決定的に違う。
「マイ・フェア・レディ」あるいはその原典であるバーナード・ショーの「ピグマリオン」にはイギリスの身分制度の核に言葉の違いがあること、そんな身分の違いなどというものは所謂上流階級の連中に都合がいいように捏造されたものであることがベースにある(ショーが被差別民族であるアイルランド人であることは言うまでもない)。
しかし、ここでは舞妓は基本的に金のやりとりの上に成り立つドライなシステムの上に養成されるという溝口健二式のリアリズムから完全に離れて、さまざまな厳しい芸事の修練もそれ自体の美と伝統とそれにまつわる人間関係を守るというゼニカネの勘定をまるっきり離れてはいないが第一義ではない価値観の上に成り立っている。
また、一人の人間の一方的な欲望や興味ではなく、共同体の意思と好意の上に成長していくのがきっちり描かれている。
この映画が実物の京都ではなく大掛かりなオープンセットで作られたのはミュージカル・シーンを撮る必要があったこと、リアリズムを離れたファンタジー色を鮮明にすること、それから京都でロケするのは結構面倒が多いからということもあったらしい。
ダンス・シーンは和服で洋舞風の振り付けであったり、一見して和洋折衷のケレンがかっているが、きちんと全身をフルサイズで捉える、一番見やすいところから見るミュージカルの基礎をがっちり守っている(実は「シコふんじゃった」の昔から、肉体を捉える時は全身がぴったり入るフルサイズというのが周防監督の演出の基本)。
近来アメリカ製「ミュージカル」も実はMTV風のぶつ切り演出だったり、アニメであったりと微妙に外していて、むしろ古式ゆかしい再生に成功している。日本人タレントの歌と踊りの技量がずいぶん上がった、という事情がまずあるだろう。
(☆☆☆★★★)
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舞妓はレディ@ぴあ映画生活
映画『舞妓はレディ』 - シネマトゥデイ