prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「ヘルムート・ニュートンと12人の女たち」

2020年12月17日 | 映画
ニュートンは1920年ベルリン生まれ。ワイマール共和国の文化環境からナチスドイツ体制に変わっていく中で育つ。
自由が失われ特にユダヤ人として迫害された経験が作品に反映しただろうことは見当がつくが、一方でナチスの党大会やプロパガンダとしてのオリンピック映画を作ったレニ・リーフェンシュタールの、特にゲルマン人の肉体美を賛美する美意識の影響ないし共感を自ら語る。この矛盾。

ピアソラのリベルタンゴが繰り返しかかる。
リベルタ=自由なタンゴを追求したピアソラの曲は、外からの解放であるより自分でつかみとった表現のシンボルのようでもある。

シャーロット・ランプリングが「愛の嵐」の直後のニュートンの写真でイメージを決定づけたと語る。「愛の嵐」で十分すぎるくらいイメージができていたという気もするが、写真を見ると映画の退廃的でガリガリのヌードとはまた別のゴージャス感があった。
彼女自身が選択したともいう。

デヴィッド・リンチに頭の角度を調節されている写真を撮られたイザベラ・ロッセリーニは、モデルは撮影者のイメージの素材だという本質をニュートンはとらえたのだという。

スーザン・ソンタグがおそらくテレビ出演で女性差別だとフランス語で(パリ大学の大学院で学んだのだから不思議はない)批判している。ソンタグは同性愛者だが、通常の女性差別と性格が違うのか変わらないのか。

ハンナ・シグラが自分は下層階級の出だからツイードの服を着せられていたようなお坊ちゃんのニュートンには新鮮だったのだろうと語る。「マリア・ブラウンの結婚」が肝っ玉母ちゃん一代記だったことを思い出す。

ミューズとしての妻ジェーン・ニュートンの存在が語られる。他の女にはあれだけエロチックな迫り方をしていてしかし最終的には妻のもの、というのはありがちでお上手にまとめた感あり
ヘルムート自身の全裸のセルフポートレイトも出てくる。病気のせいもあるだろうが、他人のそれとは対照的で貧相ですらある。

ヘアが当たり前に出てくる写真なので、昔だったらいちいちボカシがかかるところ。どれくらいバカなものになったか、空恐ろしいが、はっきり決断してそうなったのではなく、なし崩しに解禁されただけというのが日本のダメなところ。

荒木経惟やデヴィッド・ハミルトンなど高名な写真家がのちに女性蔑視や虐待で告発非難されるという例はいくつもある。映画監督だとキム・ギドク、ポランスキー、ベルトリッチやヒッチコックなどのセクハラ(というか性犯罪)が告発され批判されている。意識とフェーズが変わってきている反映だが、撮影現場での倫理的問題は作品の評価にどの程度影響するのか、というのは厄介な問題だけれど、基本的に批判的なスタンスに切り替えないといけないなと思えてきた。
場合によっては自分の一部を切り落とすような話にもなるが。
このドキュメンタリーでは対象が故人ということもあって、あまり批判的なスタンスには立っていない。

石田えりのことが出てくるかと思ったが、言及なし。ただこの記事「石田えりを変えた、写真家 ヘルムート・ニュートンの言葉」を読むと、相当追い込んでいって反撥するところを撮る、今だったら批判の対象になるような撮り方もしていたのがわかる。





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