prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「舞踏会の手帖」

2020年05月13日 | 映画
よく考えてみると見たつもりで見てなかった。
戦前のフランス映画の代表的名作であり、監督のジュリアン・デュヴィヴィエは日本の特にインテリ層には絶大な人気を誇り、70年代くらいは世界名作劇場の常連という感じだったが、それだけに見たつもりになっていたのだろう。

裕福だが空しい暮らしをている女性が16歳の時に初めて出た舞踏会の相手が書かれた手帖を手がかりに何十年後かにその相手の男たちを訪ねてまわる一種のオムニバス。

主演のマリー・ベルがその母親と間違われるシーンがあるが、1900年生まれで出演時37歳だからどちらともとれるには違いない。
それにしてもそんなに老けたこと言う歳ではない。

一番最初のフランスワーズ・ロゼの母親だけ出てきて尋ねた男が出てこないエピソードがあまりに強烈なのであとが少し引っ込んだ印象になった。ロゼは1891年生まれだから9つ違いとあまり変わらない。

ルイ・ジューヴェのクラブで上半身ヌードの女性が出てきたのにはちょっと驚いた。戦前の検閲に引っかからなかったのだろうか。

詩の朗読や女のために自殺したり、いかにも昔の日本人が憧れたフランスという感じ。

医者がサイゴン帰りでかなりクスリで頭おかしくなっているのをずうっとカメラを斜めにしっぱなしという技法で表現していた。「カルメン純情す」で木下恵介がやっていた先駆だけれど、ずいぶんわかりやすい。

今だともっと37歳くらいだとぐずぐず青春をなまじっか引きずることになるのではないか。同窓会で再会してやけぼっくいに火がついて云々とかいう話になりそう。

時の流れの残酷さとそれを越えた思いといったモチーフは普遍的なもの。





5月12日のつぶやき

2020年05月12日 | 映画

「落下の王国」

2020年05月12日 | 映画
インド出身で、ミュージックビデオやCMで名を上げたターセムの「ザ・セル」に続く第二回長編劇映画監督作品。
これまでに五本監督作があるが、監督だけでなく製作と脚本も兼ねたのはこれだけ。それだけオールマイティ体制で作ったということになるだろう。

一応時代設定はサイレント映画時代の1910~20年代、移民の女の子と撮影中の事故で負傷したスタントマンとが病院で出会い、スタントマンが女の子にするお話が全体の多くを占める。
病院に一緒に入院している人達とお話の中に出てくるキャラクターとが一人二役でダブルイメージになってる辺りは「オズの魔法使」の再生と言っていいだろう。

そういう意味ではファンタジーの王道と言っていいような作りではあるのだが、やはりミュージックビデオやCM出身らしいイメージ先行型の作りだと各場面がそれぞれ独立してなかなか繋がらないようなところもあってかなりかったるくはある。

ただし、ところどころ24ヵ国、13の世界遺産にロケし、それだけでなく石岡瑛子の斬新なデザインの衣装を着た人間たちを遺跡に配することで目を見張らされるような極めてオリジナリティの高いビジュアルを作り上げたのは確か。
まったくのノースター映画で3000万ドルと言う予算を使いこれだけ個人的な美意識で貫徹された世界を作り上げたのは驚異ではある。
ただし全世界の興収が367万ドル、と惨憺たる成績。

これが興行的に失敗したせいかこの後は比較的普通のスターを起用した商業的映画に収まることになる。






「人間まがい」

2020年05月11日 | 映画
冒頭でこの映画は実話に基づくというタイトルが出るが、ファーゴ以来、こういうタイトルは堂々と嘘をついてますという宣言みたいなもの。
笠原和夫が自分もシナリオを書いたヤクザ映画に多用された符牒の「実録」というのは堂々とウソがつけますという意味であって、冗談でなく実録・多羅尾伴内ができるというのですよと語っていたが、同じこと。

宇宙人に拉致された男が全く人格が変わって帰ってきて大暴れするという話。
79分という短い上映時間もあってもったいつけずにバンバン見せ場を並べてくる。

帰ってきた男に何かを植え付けられた人間は小屋に押し込められているうちに繭みたいになって姿は同じだが別人格になって再生するという、「SF/ボディスナッチャー」みたいな趣向。

ところどころ「シャイニング」ばりの斧や、「悪魔のいけにえ」ばりのチェーンソーなどが使われるが、使い方は今一つ。
チェーンソーが出てくるので当然それで人間を切り刻むのを期待したら車の窓を壊すのに使うだけで、殺す方はナイフで喉を切るだけっていうのはいささか拍子抜け。

2015年と比較的最近の製作なのだが、CGより特殊メイクを多用したのはところどころチャチになるが生っぽくてよろしい。

「マグマ大使」みたいなタイトルだが、原題もAlmost Humanだから、ほぼ直訳。







「大いなる旅路」

2020年05月10日 | 映画
国鉄職員の、特にSL機関士として過ごした30年にわたる堂々たる年代記。
製作の東映社長の大川博が国鉄OBなことから企画されたという。

三國連太郎は1923年生まれ、高倉健は1931年生まれだから八つしか違わないのだが、それで親子役をやるのだから相当乱暴。
高倉健はこの映画が作られた1960年にはまだこれといった役に巡りあっていない。

北海道の雪景色を SL が走る姿がすこぶる魅力的で、脱線事故の場面などすごい迫力。どうやって撮ったのかと思ったら、実際のSLを転覆させて撮ったというから驚き。

新藤兼人の脚本が手堅いもので、戦争や労働運動といった社会的背景を織り込みながら当社内部の出世競争(駅長になる者と機関士として現場にいる者との格差と、現場にいるプライドなど複雑)家族が次第に別れていき、また集まってくる様子をまんべんなく織り込む。

関川秀雄の演出は「きけわだつみのこえ」の監督らしくいかにも誠実な代わりにのあまり融通はきかないのがかえってスケール感を出した。






5月9日のつぶやき

2020年05月09日 | Weblog

「ザ・バニシング 消失」

2020年05月09日 | 映画
リメイクの「失踪 妄想は究極の凶器」の方を先に見ているので、話の核心の部分は知って見ることになってしまう。

リメイクだと犯人側の描写が割と早いうちから入ってきて、クライマックスのちょっと前ぐらいに真相が分かって、そこから改めて盛り上げるように作ってあったのだが、その分型通りのサスペンスになってしまったとも言える。
もっともそれはオリジナルを見たからそうとも思えるので、見た当時はかなり嫌な感じだが面白いサスペンスだなとは思った。

リメイクだとキーファー・サザーランド、サンドラ・ブロック、ジェフ・ブリッジスといった知名度の高いスター俳優が出演しているが、オリジナルはそれほど美男美女というわけでもなく、かなり地味。その分リアル感は強い。
オリジナルははっきり嫌ミスという言葉が現れるずっと前に実に嫌な味そのものを追及した感がある。

その嫌さというのは犯人のキャラクター、というか行動原理にあるわけで、動いてるかは中盤を過ぎてからフラッシュバックを交えて描かれることになる。
それは相当に理解を絶したものだが、失踪した女性を追い求める男の方がその原理とシンクロしてしまうようなことになるのが恐ろしい。

音楽の使い方は極めて抑制されていてクライマックスになるまで全くと言っていいぐらい音楽を使っていない。
リメイクのジェリー・ゴールドスミスの音楽はそれ自体は優れたものだったが。

犯人の家族が遊びで悲鳴を上げるシーン、遊びだというのにどこか不気味。
犯行のリハーサルと共に自分の脈拍を測るのは「イコライザー」みたい。

冒頭のナナフシから蜘蛛、それからラストのカマキリに至るまで随所に虫が出てくるのは、犯人が自分を含めて人間を虫のように見ている暗示のようでもある。

妻が失踪した男にできた新しい恋人?のなんとも微妙な態度。
リメイクだとこの新しい恋人が活躍することになるのがいかにもハリウッド製なのだが、失踪した女性の立つ瀬がなくなったみたいでかえって微妙に後味が悪くなった感もある。

リメイクといっても監督は同じで英語だとジョージ・スルイザー、フランス語読みだと
ジョルジュ・シュルイツァー。
「呪怨」もそうだが、ハリウッドリメイクとなると監督が同じでも大きく変わらざるを得ないみたい。






5月8日のつぶやき

2020年05月08日 | Weblog

「無頼より 大幹部」

2020年05月08日 | 映画
予告編でもポスターでもヤクザの世界の実態を抉るドキュメントと謳っているが、実態は良くも悪くもメロドラマ。
渡哲也主演の人斬り五郎を主人公にした「無頼」シリーズの第一作。第二作が
「大幹部 無頼」なのだからややこしい。

松原智恵子の役など、今見ると、よよと泣き崩れてばかりの昔風のか弱い女性像そのまんまで、なんだか見ていてむずむずしてくる。

立ち回りは当然いくつもあるが、雨の中の大勢の乱闘、雨上がりの泥まみれの少人数の絡み、浜田光雄が新宿駅のホーム(週刊読売なんてキオスクで売っている)で刺される引きのショットと次第に描写を絞っていって、クライマックスで青江三奈の歌う「上海帰りのリル」だけが聞こえて乱闘の現実音が消える処理が鮮やか。

美術が木村威夫なもので、セットの感じが鈴木清順みたいにどこか現実離れしている。

1968年1月13日公開






「工作 黒金星(ブラック・ヴィーナス)と呼ばれた男」

2020年05月07日 | 映画
冷戦時代のエスピオナージものの冷やかな緊張感が全編を貫徹していて、朝鮮半島では東西対立は終わっていないことをありありと窺わせる。

腕時計、ネクタイピン、孟子の「浩然の気」といった言葉も含めて小道具の使い方の上手さ。

主演のファン・ジョンミンはメガネをかけると松重豊そっくり。
工作員を演じる俳優は芝居をしている人間をまた芝居しなくてはいけない二重性を出さなくてはいけないのだが、お愛想の振り撒き方から居直り方まで思い切りメリハリをつけているところと、抑制のきいたところを両立させている。

北朝鮮に入ってくシーンなどどうやって撮ったのかと思う。
キ・ジュボンという人が金正日そっくりなので、そっくりさんを使ったのかと思ったられっきとしたキャリアのある役者。

南北を代表対立しながらも腹の底でわかりあっている関係を表に出さずもっぱら観ている者に想像させるよう暗示する手法が成功している。

机に置いた携帯が(まだスマートフォンではない)バイブして鳴ると共にカブトムシみたいに蠢くのが不気味。

1990年代の話とあって、録音に使われるミニテープレコーダーは当然のようにSONY製。







「トレジャーハンター・クミコ」

2020年05月06日 | 映画
映画「ファーゴ」のラストで埋められた札束を探しに日本から来てファーゴで死んだOL、という都市伝説の映画化。

「ファーゴ」は実話をもとにしていると冒頭にタイトルが出るが、実はウソであることは知っている人は知っているが、特に公的に訂正しているわけではない。
ドラマ版でも同じように実話がもとと出るが、これはもうほとんどギャグとして出しているので、聖書の奇跡が再現されたり明らかにフィクションであることをむしろ強調しているくらい。

ファーゴの近くで日本女性が死んだのは事実なのだが、映画の札束を探しに来たというのは誤報で、それが独り歩きして都市伝説化したらしい。
虚実が何重にも交錯している。ちなみに、この映画自体はファーゴのあるノースダコタ州の東隣のミネソタ州でロケされた。

前半の日本の場面は極端にセリフが少ない。
ヒロインのクミコは周囲と断絶していて、しゃべる時もほとんど途切れ途切れだし、たまに言葉を交わすのも母親の愚痴と説教と上司の余計な意見と一方的にうっとうしい言葉を押し付けられるか、まったく中身のないおしゃべりかで、非常な孤独なのが綿密に描き込まれる。

日本の場面はもちろん日本ロケで日本人俳優でやっていて、セリフが少ないせいもあるが、描写に違和感はない。
変にエキゾチックな場面を選ばなかったのと、ディスコミュニケーションがモチーフになっているのが逆に働いたか。
あと若い女性を「型にはめる」力の描写だから型通りの描写なのが自然なのだろう。

後半のアメリカに渡ってからは言葉はさらに通じにくくなり、クレジットカードも使えなくなるとディスコミュニケーションはさらに進む。
その上でラストで大きなフィクションが現実化して噴出するという構成。

菊地凛子がいかにもぶすっとして三白眼の可愛げのない感じで、なんとなく日本よりアメリカで活躍している(ように思える)理由がわかる気がした。

VHSからDVDへと移る時期で、何度も見過ぎた映画のVHSテープがのびきってワカメになっているのが、どこか貞子の黒髪のようで不気味。





「ジェラルドのゲーム」

2020年05月05日 | 映画
倦怠期対策で誰も来ない別荘に来て妻をプレイで手錠でベッドにくくりつけた夫が心臓発作で倒れてしまい、妻はベッドにくくりつけられたまま取り残されるというまことにシンプルで強力なシチュエーションのサスペンスホラー。原作はおなじみスティーブン・キング。

何しろ登場人物ひとりだけみたいな設定なのだから、これで長編劇映画がラストまで持つのだろうかと心配になる。
まず妻の幻覚(といっていいだろう)の形で倒れた夫が蘇って何かと喋りかけ、あまつさえもう一人の自分が現れて勝手なことを言い出す、という昔だったらアートフィルムの技法を駆使するあたりはなかなか凝っているな、見せるなと思わせる。

ただ回想シーンが入るあたりでやはり回想使うのかとがっかりする。しかもその回想の内容が現在とどう結びつくのか、抽象的観念的に過ぎ、さらに回想が心象風景みたいに飛躍してくると悪い意味でゲイジュツ的過ぎてダレる。
あまりにハードルを高くし過ぎた感が強い。

脱出の仕方と共に、犬の使い方がエグい。飼い主が亡くなったあと、遺体を飼い犬が食べるなんてことがけっこうあるという話を思い出した。
「クジョー」(は映画のタイトル、原作は「クージョ」)みたいに犬をもっと生かしようがあった気もした。




「氷上の王、ジョン・カリー」

2020年05月04日 | 映画
ゲイであることを特にカムアウトしたわけではなく、オフレコが喋ったことが漏れて広がってしまいメディアが勝手に認めるかどうかでよってたかってマイクを突き付けてくるあたりのいやらしさ。

フィギュアスケートのオリンピックの金メダリストがスポーツとしてのスケートを辞めた後、芸術としてのフィギュアを志向するというのは荒川静香などもやっていたけれど、芸術というより興行として成立させる難しさというのが後半比重を占める。
スターであるメダリストが出ないと客は集まらないし、肉体の限界は来るしで、新しいスターが生まれるか振付・演出として成功するかを待つしかないのだが、なかなか思うようにいかない。

ほとんど全裸かと思うようなコスチュームで「牧神の午後」のパフォーマンスのエロティックなこと。
これを踊ったり振り付けたりしたニジンスキーもジェローム・ロビンスみんなゲイ。
バレエと違ってスケートの場合は筋肉を固定したまま動くことができるというのが面白い。

日本公演で広告だらけの中で滑るのに不快感を示したり(考えてみれば、当たり前)、日本の主催者がエキサイトメーターとか言うもの設置したもので尚更ナーバスになるあたり、こっぱずかしくなる。

ソ連のスケートのメソッドは大嫌いだと語る。技術的になりすぎて芸術性がなおざりにされていることか。

スポーツ界のホモフォビア(ホモ嫌悪症)は今でもひどいがエイズが同性愛者の病気と誤解されたと共に広まった90年代は本当にひどかったのが、レーガン大統領や宗教家の演説映像からもわかる。







5月3日のつぶやき

2020年05月04日 | Weblog

2020年4月に読んだ本

2020年05月03日 | 
読んだ本の数:20
読んだページ数:5685
ナイス数:0

読了日:04月01日 著者:神代 辰巳




読了日:04月03日 著者:本間 龍





読了日:04月05日 著者:橋本以蔵,たなか亜希夫





読了日:04月05日 著者:橋本以蔵,たなか亜希夫






読了日:04月05日 著者:たなか 亜希夫





読了日:04月15日 著者:諸星大二郎




読了日:04月15日 著者:諸星大二郎





読了日:04月15日 著者:諸星大二郎




読了日:04月16日 著者:三田紀房




読了日:04月16日 著者:三田紀房




読了日:04月16日 著者:三田紀房




読了日:04月18日 著者:村上 春樹




読了日:04月19日 著者:三島 由紀夫




読了日:04月22日 著者:ジョージ秋山




読了日:04月26日 著者:影丸 譲也,牛 次郎




読了日:04月29日 著者:三島 由紀夫




読了日:04月30日 著者:村上もとか




読了日:04月30日 著者:村上もとか




読了日:04月30日 著者:村上もとか




読了日:04月30日 著者:村上もとか