オリジナルの「将軍」が作られたのはもう44年前の1980年、黒澤明「影武者」がカンヌ映画祭のパルムドールをとって評判になったのと同じ年で、奇しくも日本の時代物が連続する形になった。
ただし自分はこのミニシリーズ版も再編集して劇場公開した版も断片的にしか見ていない(土台配信していない)。
島田陽子が裸になってリチャード・チェンバレンと同じ湯舟に漬かるという「勘違い」日本の典型かと思わせるような描写など見てはおれんはというのが正直なところだった。
伝聞だけれど、原作小説では女性たちの名前がヒロインのマリコはともかく(今回のドラマでは鞠子と表記される)、侍女たちがサズコ、ゲンジコというのは「ティファニーで朝食を」のミッキー・ルーニーの日本人?のユニオシなみのネーミング。
今回真田広之がプロデューサーを初めて務め、できる限り違和感のない日本描写を目指したというのもこの手の「勘違い」「誤解」を解くという大きな目標があったからだろうし、世界が狭くなってそういう「誤解」「典型」が見過ごされるという状況ではなくなったからでもあるだろう。
先述のとおり前回のドラマ版がどのようなのか見てないままで論じるのは本来まずいのだが今回のに話を絞ると、まず意外だったのは真田広之(前回三船敏郎)の虎長は徳川家康をモデルにしているから当然タイトルの将軍とはストレートに彼のことだろうと思ったら、わしは将軍ではないと再三否定すること。
虎永は五人いる大老のひとりであり、合議制で運営するよう亡き太閤に命じられているのだが、やはり大老の石堂和成が先手をうって他の大老をまとめてしまい虎永に詰め腹を切らせようとする圧倒的に不利な場面から始まり、家康が天下をとったという結果は分かっているとはいえ、終始不利なのは変わらず、関ヶ原で決着がつく場面はドラマの上から外されており、誰が勝つかという話ではなく、誰が太平の世を長きにわたって保てるかに話を落とし込んでいる。
世界史的レベルで見るとカソリックとプロテスタントの対立、ポルトガルとスペインの二大国の駆け引きと対立が絡み合っていて、日本国内からはうかがい知れないところから密かに日本を料理しようとしているあたり、ずっと後まで続く帝国列強による領土分捕り合戦まで視野に入れた射程の長いもの。
タイトルバックはじめ枯山水のモチーフが繰り返し登場し、世界の分断を刻むように砂に描かれた紋様が荒っぽくかき乱されるのがシンボリック。
「今の」レベルにアップデートした世界観に思える。
ドラマはブラックソーンが乗っている船が(枯山水とは対照的に)嵐の中を航行している場面から始まり、沈められていた同じ船が大勢の人が力を合わせて引き上げられる場面で終わる。この力を合わせてというところに注目したい。
鞠子という名はモダンすぎるには違いないが、ここではマリアにかけてレディマリアと呼ばれるのがネーミングはそのままに意味づけが変わっているように思われる。
キリシタンで自害を禁じられているのが告解によって許されるという設定が、武士が切腹をある意味名誉として選べるのと対応している。
何人もの人が死ぬが、どの性別や宗派や国籍や文化圏に属するわけではないただの神、ただの死としてあり、それなりの敬意をもって喪に服されることになる。
画面がかなり暗い。湿気も強い。暗い林の木の間を縫って火矢が射ちかけられるヴィジュアルが印象的。
浅野忠信のねずみ男的キャラクターが可笑しい。
鞠子役のアンナ・サワイは島田陽子の方が圧倒的に美人だけれどその後おそらく英語力不足でキャリアが妙なことになったのを思うと、一概に言えない。