佐賀の旅第3日目(4月20日木曜)は、嬉野温泉を出発して、わが父祖の出身地である旧藤津郡吉田村を訪ねる。これが今回の佐賀旅行の主目的である。
朝5時半、暑さで寝苦しくて目が覚めたので、起きてしまう。この日の嬉野は日中に29・8℃だったかまで気温が上がった!
ひと風呂浴びてから、朝の温泉街を散歩する。
最初は、旅のガイド本に必ず登場する「シーボルトの湯」に向かう。レトロ風の建物の外浴場。近くには足湯もあった。
シーボルトがどんな人物だったか忘れてしまったが、長崎に来たオランダ人の医者か何かで、隣りの佐賀の嬉野で温泉の効能でも発見したのだろう(と勝手に想像する)。道路案内には「大村まで30㎞」と表示してあったから、長崎はすぐ近くだろう。
これもレトロな雰囲気のある建物だったが、やや映画のオープンセットのようにも見える。朝6時というのに、駐車場に数台の車が止まっていて、浴室からは話し声、笑い声が道路にまで聞こえていた。地元の人たちの交流の場なのだろうか。
豊玉姫神社、瑞光寺を廻って大正屋に戻る。
豊玉姫神社は、美肌の湯として知られる嬉野温泉を象徴する美肌の美女が祭られているとか。
瑞光寺の歴史を読むと、元の領主だった嬉野氏が、何年だったかに鍋島氏に滅ぼされるなどという悲惨な歴史もあったようだ。
それでも「嬉野」の地名が残ったのは鍋島氏の温情か、嬉野氏が再興したのか。いずれにしても、古い地名は文化遺産で、今回われわれも旧地名、旧番地が残っていたので、戸籍を頼りに父祖の住んでいた場所にたどり着くことができた。
宿に戻って、東京に送る宅急便の荷造りを済ませてから朝食。
9時にチェックアウトして、嬉野温泉バスセンターの向かいにある温泉タクシーで嬉野市役所へ。
市役所の戸籍係窓口でマイナンバーカードを提示して、持参した曾曽祖父が筆頭者(前戸主)になっている戸籍より古い戸籍が存在するかどうかを確認してもらう。マイナンバーカードを使うのは今回が初めての経験。
弘化元年生まれのぼくの曽祖父より以前の戸籍は存在しないという。
亡父の相続の際に取り寄せた除籍簿を持参したのだが、その戸籍は、曽祖父が戸主となっているが、「前戸主」として、生年の記載がなくすでに亡くなっている曽曽祖父の氏名が冒頭に記載されている。その妻(文化14年生れ。私の曽曽祖母にあたる)はまだ存命で、戸主である曽祖父の「母」として表示されている。さらに、曽祖父の妻、長男、二男、長女、三男、孫・・・と続く。まさに「戸」籍である。
曽祖父の本籍は藤津郡吉田村xx番地だが、ぼくの祖父は二男で、結婚後の大正に入ってから分家して吉田村の別の地番に転籍している。
行政地図を出してきて調べてくれると、現在の嬉野市嬉野町吉田に祖父の転籍先と同じ番地があるという。詳しくは吉田にある出張所で問い合わせてほしいというので、さっきの温泉タクシーを呼んで、吉田出張所に行ってもらう。
嬉野の街中を外れて、山のなかを進むこと約15分で、吉田公民館兼コミュニティーセンター兼市役所出張所の建物に到着。隣りは吉田小学校、そのまた隣りは吉田中学校である。
戸籍担当の方と、公民館の館長さんが、遠来だが突然の訪問客であるにもかかわらず、親切に応対してくれた。
旧吉田村xx番地は、ここからさらに数分山の中に入ったところにあった。
まっすぐに伸びる通りが二筋あって、一方の筋は焼物の窯元が並んでおり、もう一方の筋は馬場通り(旧本通り)といわれ、かつては代官屋敷があってお侍たちが歩いていた通りだという。こちらの筋にxx番地はあったが、ぼくの先祖は武士階級ではなかったと聞いている。むしろ陶器関係の仕事だったのではないだろうか。
※嬉野市のHPを見ると、この馬場通りにはかつては(昭和戦後期でも)商店が20軒以上並んでいたほか、郵便局、映画館、パチンコ店、芝居小屋まであったという。
吉田焼はかつては「有田焼」として出荷していたが、最近では地域おこしの一環として「吉田焼」として出荷するようになったという。近くに肥前吉田焼窯元組合の展示販売所があったので(下の写真)、記念にぐい飲みを買った。先祖を思いながら日本酒でも飲むことにしよう。
定年退職して時間ができたら、NHKの「ファミリー・ヒストリー」のように、先祖の生活を偲ぶべく父祖の地である佐賀を訪ねようと思っていたのだが、コロナ禍のため頓挫してしまったのが、3年が経ってようやく自粛も解禁され、そしてとうとう祖父母が生活していたと思われる場所に立つことができた。
この番地には現在も家が建っていて、ぼくの知らない名字の表札がかかっていた。思い起こしてみると、そんな名字の親戚がいたことを父母が話していたような気もしてきたが、呼び鈴を押す勇気はなかった。突然来られては相手も困るだろう。
この空間を、今は亡き祖父母たちも100年近く前に歩いたりしていたのだ、と思うだけでも十分に感慨深いものがある。100年という時間は遠い昔のようでもあるが、ぼくは一気に近づいた気持ちがした。仏壇に収められた位牌だけでは感じられなかった感慨である。
下の写真は本通りの道沿いに立っていた石碑。
明治期に、吉田高等小学校に製茶専修科を設置し、生徒たちにお茶の栽培から製茶、販売実習までを指導し、嬉野茶の担い手を育てた同校の校長の顕彰碑だそうだ。
昭和25年生まれのぼくは、若い頃は昭和20年に終わった太平洋戦争さえ遠い昔のことだと思っていたが、今では100年以上前の明治時代すら、それほど遠い昔のこととは思わなくなっている。
祖父の旧戸籍地番の前に立って、かつて侍たちが闊歩していたという細い通りを遠近法で写真に収めてから、窯元会館に立ち寄り、県道303号に出て、上皿屋バス停から鹿島行きの祐徳バスに乗って、鹿島バスセンター経由で祐徳神社に向かう。
2023年4月24日 記