豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

“軽井沢 その周辺” (三笠書房)

2006年08月02日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 父も祖父も大学の教師だったが、昭和の大学教師は楽なもので、7月の中旬から9月の中旬まで、途中何度か会議などで帰京することはあったものの、まるまる2か月近く軽井沢に滞在して、勉強三昧の日々を送っていた。

 それに比べると今どきの私立大学の教師は悲惨なものである。
 高校生の息子は7月の2週目から夏休みに入って部活三昧だというのに、親のほうは20日すぎまで講義があり、講義が終わった翌週には前期試験が控えている。
 試験が終われば学生たちは夏休みだが、教師のほうはその後数百通の答案読みと採点の作業が残っており、さらに今年からは優良可不可の分布まで“自己点検”して申告しなければならないというオマケがつくようになった。

 これで終わりかというと、そうではなく、8月の1週目に追試が待っている。学生たちには“37度2分くらいの熱だったら這ってでも本試験を受けに来い、追試の採点は厳しいぞ”とおどすのだが、毎年必ず1、2名の追試受験者が出てくる。
 不思議なことに5名以上になることもないのだが、1名もいなかった年も一度もない。

 それでも、前期試験がようやく終わった7月31日、採点途中の答案の束を抱えて、朝から軽井沢に出かけて来た。
 
 まずはツルヤに寄って食料を買い込んだのだが、店内の買い物客が何かくすんで、爺むさい印象。7月31日の午前10時頃のツルヤの店内には、本当に、子どもはおろか若者すらまったくいなかった。
 この2、3年とくにその感を強くするのだが、軽井沢は高齢者の町になってしまったようだ。かく言う私自身もそのくすんだ爺むさい風景の一部になっているのだろうな、と思うとさびしいものがある。
 もっとも、きょう帰りがけに再び立ち寄ったら、多少は若い家族連れもいたが、東京からのドライブで疲れたのか、父親に抱かれた小さな子が泣き叫んでいて、これには閉口した。爺むさくなく、騒々しくもない軽井沢、というわけには行かないのか。

 翌日出かけたショッピングプラザでは、今度は犬を連れた人間が多いのに閉口した。犬に格負けしたような飼主もいれば、ローラ・アシュレイやジノリなど、入り口にペット連れの入店禁止のステッカーが貼ってあるのに、平然と犬を連れたまま店内に入り、展示された食器などの前で喉をなでたりしているのもいる。店員が注意しないのは困ったものだ。

 女房と母親が旧道にも買い物に行くというので送った。
 80歳をこえた母親だが、なぜか軽井沢での買い物となると、2時間やそこらは平気で歩き回る。
 こちらはとても相手をしていられないので、どこかで雑誌でも買って車の中で読んでいようと思ったのだが、旧道を上から下まで歩いてみたものの、本や雑誌を売っているところがどこにもない。
 かつては三笠書房や酒井化学、その後は三芳屋書店などがあったのだが、みんな店仕舞いしてしまった。
 ようやく待ち合わせ時間になったので待合せ場所の観光会館に行くと、なんとそこで信濃毎日新聞が売られているのを見つけた。これが旧道で売られている唯一の“活字もの”ではないだろうか。

 旧道は、今日では“文化果つる地”と成り果ててしまったようだ。今後女どもの買い物につきあって旧道へ来るときは、必ず本を持参しなければならないことを学んだ。
 モームのように、いっそオランダ語の文法書でも常備することにしておけば、時間がつぶれるだろうか(S・モーム「書物袋」モーム短編集Ⅷ「この世の果て」新潮文庫)。
 
 と、愚痴の三題噺でした。  

 * 写真は、1960年代の記憶を蘇らせてくれる「軽井沢その周辺--1964年版」(三笠書房、1964年)の表紙。1960年代の旧道の思い出は、この本によって甦るとともに、かなり修復された。 
 
  2006/8/2               

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幻の“ブリヂストン・スポーツ50”

2006年08月01日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 今回は、本当に“幻の”バイクの話である。

 車名は、“ブリヂストン・スポーツ50”。残念ながらぼくの愛車にはなれなかったバイクである。
 バイク雑誌の広告で見ただけで、実車すら見たことはない。それどころか、最近になって、バイク関係の本や雑誌、ネット上で調べても出てこないのである。

 つい先日も本屋の店頭で、最新刊の「月刊オートバイ」に「絶版国産二輪車図鑑」(!)という、ドキッとする表題の別冊付録がついているのを見つけた。
 あいにく本誌と一緒に紐で縛られていて中身を確認することが出来なかったので、モーターマガジン社編集部に電話して、この付録にブリヂストン・スポーツ50は載っているのか問い合わせた。残念ながら、返事は「大手4社のものしか乗っていない」ということだった。

 しかし、ぼくはこの“ブリヂストン・スポーツ50”に強い思い入れがある。16歳になって原付免許をとって(本当は当時は16歳で取得できる軽免許を直接小金井に受けに行ったのだが落とされてしまい、しかたなく原付で我慢することにしたのである)、最初に購入しようとしたクルマなのである。
 高校生で、バイトなどもやっていなかったので、新車を買うことは出来なかったため、しょっちゅうバイク雑誌の中古バイクの広告を探していたときに、ふと目にしたのが、“ブリヂストン・スポーツ50”の勇姿だった。

 ホンダ・スーパーカブなど他の50CCに比べて、明らかにカッコよく見えたのである。カブの中古車が7000円くらいだったのに対して、ブリヂストン・スポーツ50は10000円くらいしたように思うが、小遣いを貯めた貯金で何とかなる金額だったので、ぼくはその中古屋に電話をした。
 しかし、そのクルマはすでに売れてしまったということだった。「もし入ったら予約しておきたいのですが・・」といった内容をおずおずと頼んだところ、電話の相手から「待っているのが2、30人いるから無理だよ」と言われてしまった。えらく無愛想な声だった。
 「20人以上もいるのか・・」。これで、ぼくと“ブリヂストン・スポーツ50”との関係は終わってしまった。

 しかし、どうしてもその年の夏休みには、バイクで軽井沢を走り回りたいと思っていたので、カッコ悪いとは思いつつ、仕方がなく、どの中古屋でもいくらでも出回っていたホンダ・スーパーカブ50を7000円で買うことにした。
 最初はこれに乗って軽井沢まで行くつもりだったが、危ないと親から猛反対され、親が送料を出してくれるというので、近くの駅からチッキ(当時のマル通=日通の貨物便のこと)で軽井沢に送ることになった。送料は3000円だか3500円も取られたと記憶する。しかも到着まで1週間以上待たされた。当時のマル通は殿様商売だったのである。
 到着したのは信濃追分駅だったように記憶しているのだが、先日訪れた信濃追分駅には貨物便の受け渡しのスペースなどなかったので、中軽井沢駅だったかもしれない。
 
 その夏は、カブに乗って軽井沢を走り回った。
 もちろん午前中と夕食後は勉強の日々だったが…。傍から見たらあまりカッコのいい姿ではなかったかもしれないが、本人自身はルノー・ベルレーがパリの市内をスクーターで走り回っている姿(なんという映画だったか?)をイメージして、結構満足していたのである。

 夏の終わりに、再び高い送料を払って東京に持ち帰る気にはなれず、たまたま懇意にしている追分のMさんが、自分のカブのエンジンが不調で付け替えたいというので、差し上げて帰京した。
 ひと夏だけ、ぼくの軽井沢での足となったホンダ・スーパーカブ50の写真が1枚だけあった。跨っているぼくはなんだか嬉しそうな顔をしている。撮っておいてよかった。

 ところで、憧れていた“ブリヂストン・スポーツ50”は本当にあったのだろうか。
 あれこれとバイク関係の本を読んでみると、今日のようなバイク4社体制になる以前には、雨後の筍のごとく二輪車メーカーが生まれたようで、たしかにブリヂストンもバイクを作っている。そして同社からは、スポーツ・シリーズと、チャンピオン・シリーズというのが出されている。スポーツ・シリーズに50CCがあったという記述には、今のところ出会うことができないが・・。
 ただ、小関和夫さんという方の「国産二輪車物語」(三樹書房、1993年)によると、実用型50CCに対してスポーツ・タイプの50CCを手がけていたトーハツ、山口が60年代初めに倒産したため、両社の技術者の多くがブリヂストンに移り、ブリヂストンはBS50~90で一時代を築いたが、スタイルのよさだけでは売れず、やがてメーカーの淘汰が始まり、結局は性能本位の4社だけが残り、他のメーカーはバイクから撤退することになったようだ(82頁)。
 ここに書いてあるBS50というのが、ぼくの幻の「ブリヂストン・スポーツ50」だろうか。同書にはBS50の写真は掲載されていないが、ブリヂストン・スポーツ90というのの写真は載っている(83頁)。
 同書によれば、1960年代前半は、まだ若者がスポーツタイプのバイクで遊べるほど恵まれた時代ではなかったのだという(同頁)。

 ちなみに、「琺瑯看板<機械2>」というサイトによると、ブリヂストン・スポーツは1964年に製造開始されているが、ブリヂストン(サイクル工業)は1967年にはバイク製造を中止している。ここに書いた思い出は、まさに1967、8年のことであるから、時代も合致している。
 “ブリヂストン・スポーツ50”を見つけだすことは出来なかったけれど、当時の16、7歳の原付少年が憧れるに足りるカッコいいバイクだったことは十分に想像できる。

  2006/8/1

 ※ そのホンダ、スーパーカブ50が2025年6月をもって販売終了になることが報じられた(東京新聞2024年6月25日付ほか)。排ガス規制への対応が厳しくなったことと、電動アシスト自転車の普及によって売上が激減したことが理由らしい。かつては年間70万台以上売れていたのが最近は年間7万台(だったか)にまで減ってしまたっという。
 写真はぼくが乗っていたころ(1966年)のスーパーカブ50の写真に差し替えた(ホンダのHPから)。ブリジストン・スポーツ50に劣らず、スーパーカブ50も悪くないではないか。
 2024年7月3日 追記

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