チクチク テクテク 初めて日本に来たパグと30年ぶりに日本に帰ってきた私

大好きな刺繍と大好きなパグ
香港生活を30年で切り上げて、日本に戻りました。
モモさん初めての日本です。

帽子

2012年10月21日 | 母のこと

晴れ、21度、81%

 実家で、一人の生活が出来なくなった母を施設に預かってもらったのは昨年の一月の事でした。以来、一人っ子の私は2月に一度、福岡に行きます。母の顔を見、実家の荷物の整理をするためです。実家の整理と言っても、途方もない量の片付けが必要でした。実家を離れて35年、どこに何があるかも解りません。片付け、掃除をしない母です。どこから手を付けていいのやら、それすら、解らない有様でした。

 今年の6月に帰った時の事です。外から見れば何が入っているか一目瞭然、帽子箱がワードローブの上にありました。何が入ってるか解っているので、ずっと手付かずでしたが、普通の帽子箱より大きいので下ろしてみました。この箱、直径が60センチほどです。下の四角い箱は1メーター四方。

中には、    こんな帽子が入っていました。そういえば、20年ほど前、帽子デザイナーの平田暁夫さんの元で永く勤めた方に、帽子を作ってもらっていると聞いた覚えがあります。母の服など興味の無い私は、聞き流しただけでした。この箱の下のワードローブを開けると、どの服に合わせて作った帽子か解ります。これを見た時、私の胸の中、怒りと恥ずかしさで一杯でした。何のためにこんな帽子を誂えたのか、金銭感覚に対する怒りです。こんな帽子を作った人の娘である事の恥ずかしさです。当然、処分するつもりでした。

 先日の帰国の折は、東京から息子と彼女も手伝いに来てくれました。笑い話にでもと思い、彼女にこの帽子を見せました。色の白い、細面のお嬢さんです。そうだわ、良かったら、好きな帽子持って行って、と私。鏡の前で帽子をかぶる彼女を見ていました。ところが、どの帽子も小さくてかぶる事が出来ません。頭の小さな母に誂えたものだというのを、忘れていました。ふと、いままで手にとる事も無かった帽子をひとつ、私がかぶってみました。何のためらいも無く頭に納まります。この瞬間、この4ヶ月私の胸の内にあった、怒りや恥ずかしさが、切ない気持ちに変わりました。

 この、頭周りの小さな帽子をかぶる事が出来る人は、少ないはずです。今は、その切ない気持ちを抑えて、やはり私の趣味でないこの帽子たちを始末するつもりでいます。

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らくのみ

2010年12月08日 | 母のこと

晴れ、15度、37%

 

  肺炎にかかり急に入院した母。わたしが福岡に着いたときは、もう病院にいた。入院前から、39度の熱があり、今回の入院支度は、母をよく知るヘルパーさんが自分で考えてしてくださったものだ。

 香港から福岡の空港へ。真っ直ぐ、病院へ。

 病室の母は、点滴に酸素を入れる管までつけている。こんな姿を見たのは、初めてだった。耳元で、わたしの名前を言うと微かに頷く。その足で、ナースステーションに挨拶に向かう。容態は、よくもなく、悪くもなく。ただ、看護婦さんに湯飲みなどをプラスチックのものに替えて欲しいといわれる。下働きの方が、割れたら困るので、と言われたそうだ。病室に戻り、サイドデスクを見ると、母の使い慣れた楽の抹茶茶碗、伊万里の湯飲みに、薩摩切子のグラスまである。毎日、母が使ってきたものを、ヘルパーさんは荷物に入れてくれていた。

 でも、確かに粗相して割ってはと思う人の気持ちも分る。母の耳元で、家に持ち帰ると告げる。黙って、頷く母。一ヶ月前の母なら、きっと、持ち帰ることを許さなかったのではないかと思う。自分の身の回りに、使い慣れたものを置いておきたいと、声を大きくしていったはずだ。

 母のいない、大きな家の居間のテーブルの上に、持ち帰った茶碗たちを置く。

 翌日、病院に行く前に、病院の前にある、郊外型スーパーの薬局に行く。楽飲みをというと、小さな軽い箱を渡してくれた。

 病室で、箱をそっと開ける。きれいな、ブルーの蓋のついたプラスチックの楽のみ。あまりにも軽い。40年前がんを患って自宅療養をした、父の楽のみは、ガラスだった。飲み口が、きれいな曲腺を描いていた。  それにしても、なんて軽いんだろう。

 洗って、白湯をいれ母の口元に運ぶ。こんな日が来るなんて、思っても見なかった。

 帰りにバスを待ちながら見た山は、いつもの福岡の冬の山だった。

       

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