おはようございます。
修善寺物語にならって、今日は常楽寺物語(笑)。前者は鎌倉幕府二代目将軍の頼家の物語だが、常楽寺物語も鎌倉幕府にからんだ物語からはじまる。
さて、常楽寺の始まりは、粟船御堂である。これは、政子が娘の大姫と許嫁の木曽義高の供養のために建てたものである。では、まずその物語から。
頼朝が平家討伐の旗を上げると同時に木曽義仲も挙兵する。どちらも快進撃で平家を追い詰めてゆくが、源氏の主導権争いで二人は対立する。そこで、和解のため、実質の人質として、義仲の嫡子、義高(11歳)が、頼朝と政子の子、大姫(5,6歳)のいいなずけとして鎌倉へ送られる。その後、二人は兄妹のように仲良く暮らしていた。しかし、翌年、頼朝は義経らに攻めさせ、近江の粟津で義仲は殺される。そのあと、復讐を恐れた頼朝は義高の殺害を計画する。それを知った政子は義高を逃すが、入間川で追っ手に殺害される。大姫はその日以来、病気がちとなり、二十歳の若さで病死する。政子は哀れに思い、お堂を建てた。
常楽寺の裏山に木曽義高のお墓がある。鯉のぼりも飾られていた。
少し降りた山道に大姫の墓が。
大姫の墓。泰時の姫君の墓という説もある。
その後、北条泰時が夫人の母の追善供養のためにここに寺院を建て、時頼が建長年間に南宋から蘭渓道隆を呼び寄せ、ここの住持となり、中国風の禅宗を広めた。多くの僧が教えを乞いに来た。そのため、常楽は建長の根本なりと重視されていた。
粟船御堂は常楽寺と名前を改めているが、泰時の没後、その法名(常楽院殿観阿)をとってつけられた。泰時のお墓は仏殿の裏にある。泰時は次の2022年の大河ドラマの北条義時の嫡男。お参りする人が増えるかも。
仏殿。江戸・元禄四年(1691)の建立。桁行き(正面)、梁行き(奥行)とも三間。内部は、土間に鎌倉石を敷き詰め、厨子をおき、そこに阿弥陀如来坐像と勢至菩薩と観世音菩薩が祀られている。江戸時代の建造物とはいえ、以前の建築様式は踏襲している。典型的な阿弥陀堂造り。現在、鎌倉時代の阿弥陀堂は熊本にしか残っていないとのこと。天井には狩野雪信筆の「雲龍図」が描かれている。
仏殿の横に茅葺の文珠堂がある。建物は明治のはじめに英勝寺から、移したもの。道隆が宋から持ってきたという文珠菩薩が祀られている。
無熱池には黄菖蒲が咲いていた。この池の伝説も面白い。前述の蘭渓和尚の教えを乞いにきた江の島の弁天さまが和尚の給仕役、乙護童子にいたずらをして、童子を美女に変えてしまった。童子はそれに気づかず、和尚に給仕をしていたが、いつのまにか和尚が美女を寵愛しているといううわさがたった。童子は自分の身の潔白のため白い大蛇となって大銀杏の木に七廻り半も巻き付き、その尾で池の底をたたいたという。そこで、この無熱池を”おたたきの池”ともいう。(かまくら子供風土記より)
無熱池
大銀杏。鎌倉時代の主幹は枯れているが、新たな幹が葉をつけている。
茅葺の山門
粟船山は大船の地名のもとになっている。
それでは、みなさん、今日も一日、お元気で!